元ネタは太宰治の『黄金風景』です。
私は子どもの頃、良い子ではなかった。メイドをいじめた。
ノラは私より5歳年上のメイドだった。そのくせに、ぼんやりしていて要領が悪かった。
私は愚鈍な人間が嫌いで、それが私には我慢ならなかった。
紅茶を淹れさせても、茶葉を使いすぎるし、温度も不適切でとても飲めたものではない。
「不味い」
思わずカップを傾け、テーブルにこぼす。
琥珀色の液体が白いクロスに広がり、目の前に立つノラが小さく肩を震わせた。
「……申し訳ございません、お嬢様」
彼女の声はいつものように震えている。
私の機嫌を損ねるたびに怯えた声を出すが、そういうところが余計に癇に障るのだ。
私は深くため息をつきながら、ノラを睨みつける。
「もういいわ、下がりなさい」
「……はい、失礼いたします」
ノラはそう言うと、ゆっくりと後ろに下がり扉を開けて部屋を出て行った。
その背中を見ても、私は苛立ちしか覚えなかった。
それから何日か経ったある日のこと。
私は図書室で魔術の研究をしていた。
机の上には魔術書が積み上げられ、古い羊皮紙には魔法陣の走り書きが散らばっている。
私は羽根ペンを走らせながら、厄介な計算に集中していた。
術式の魔力効率を向上させる改良していたのだけれど、どうにも納得がいかない。
計算が合わないせいで次の段階に進めないのだ。
筆を取って魔法陣の修正を書き加えたその時、ドサッと本棚の向こうで鈍い音が響いた。
「きゃっ!」
耳障りな悲鳴。
私は顔をしかめ、苛立たしげに視線を向ける。
そこには、本を落として呆然としているノラの姿があった。
「ちょっと何をやっているの?」
低い声で問いかけると、ノラはビクッと肩を震わせる。
「も、申し訳ありません! すぐに片付けます!」
ノラが慌てて本を拾い上げようとした瞬間、魔術書が怪しい光を放った。
そして、突風が巻き起こり、紫色の雷光が辺りを駆け巡る。
「きゃあああっ!」
「……っ!」
とっさにに魔術防御を展開し、魔力の衝撃を防いだ。
だが、部屋中の本が次々と舞い上がり、紙吹雪のように空間を漂う。
ノラは床にへたり込み、顔を真っ青にしている。
「この、馬鹿者!」
雷光が収まると同時に、私は椅子を蹴って立ち上がった。
「たかが本の整理でどうして魔術を暴発させるの!?」
「す、すみません! 私、ただ本を拾おうとして!」
「ふざけないで! もし殲滅魔術の封印でも解けていたらどうするつもりだったの!?」
ノラは縮こまり、必死に本を拾い集めている。
だが、その手元もおぼつかない。
私はとうとう癇癪を起こし、ノラを蹴りつけた。
しかし、彼女が顔を上げたタイミングが悪かった。
背中を蹴ったつもりなのに、私の足は彼女の頬を直撃していた。
ノラの体が揺れ、彼女はその場に崩れ落ちた。
頬を押さえながら、目に涙を浮かべる。
「親にさえ顔を踏まれたことはありません。一生、おぼえております」
嗚咽混じりにそう呟くノラを見て、流石の私も後ろめたい気持ちになった。
それでも私は何事もなかったように机に戻り、魔法陣の続きを描く。
ノラの嗚咽が背後で続いていたが、私は知らぬ顔を貫いた。
結局、その後もノラは成長しなかった。
彼女は毎日私の神経を逆撫でし、そのたびに私は彼女をいじめた。
いまでも多少はそうであるが、私は愚かな人間が存在することが許せないのだ。
☆
私が学園に入学してしばらく経った頃、一人の平民の少女が特例として迎え入れられた。
彼女は無邪気で愛らしく、誰に対しても分け隔てなく接し、すぐに周囲の心を掴んだ。
そして──私の婚約者である王太子殿下までも、彼女に興味を抱いた。
殿下は彼女に微笑み、気軽に言葉を交わし、まるで特別な存在であるかのように扱った。
貴族の礼儀も知らぬ平民が、私の隣に立つべき人と親しくするなど、到底許せるものではなかった。
だから私は、彼女に思い知らせてやろうとした。
平民は平民らしく振る舞うべきなのだと。
その時の私は思いもしなかった。
このことがきっかけで国家の存亡を揺るがしかねない陰謀に巻き込まれることになるとは。
まぁ、今更そのことについて語っても何の意味もないのだが。
次第に私に不利な噂が広まり、学園での立場が揺らぎ始めた。
そしてついに、殿下自らが私を断罪した。
「イライザ・ヴァンステール、お前のような残酷な者を婚約者として迎えるわけにはいかない。よって、婚約を破棄する」
信じられなかった。
私はこの国で一番の貴族の長女であり、この国の未来の王妃となるはずだった。
それが、ただの平民のせいで、すべてを失うことになるなんて。
こうして私は一夜にして全てを奪われ、追放の身となったのだった。
家を追われた私は、遠く異国の地へと連れ去られた。
名ばかりの護衛に見張られながら国境を越え、たどり着いたのは見知らぬ土地。
豪奢な屋敷も仕える使用人もなく、ただ冷たい風が吹きすさぶ石畳の街だけが私を迎えた。
すぐに困窮した。
高貴な身分を捨てたところで育ちまで変えられるわけではない。
働き口を求めて彷徨ったが、元貴族の女にできることなど限られていた。
そんな私を拾ったのは街外れの小さな教会だった。
神の慈悲を説く司祭は追放者である私にすら手を差し伸べ、教会の子供たちに学を教える役目を与えた。
仕方なく、それを受け入れた。
貧しくとも寝床があり、食べるものがあるだけで十分だった。
やがて、その伝手で貴族の子弟の家庭教師として働くことができるようになった。
ささやかながらも収入を得られるようになり、私は海岸の近くにある小さな家を借りた。
仕事の傍らに書いていた論文も評価され、わずかながらも自活の道が見えてきた──そう思った矢先、病が私を襲った。
日ごとに身体は衰え、床に伏す時間が増えていく。
けれども休むわけにはいかなかった。
生きるためには働かねばならないのだから。
そんな惨めな日々の最中。
教会からの帰り道で、不意に身なりの良い男から声をかけられた。
「おや、あなたは、イライザ様じゃございませんか?」
「そうですが、あなたは?」
男はにっこりと笑いながら言った。
「やあ、やはりそうでしたか。お忘れかもしれませんが、かれこれ十数年前、私はヴァンステール領で商人をしておりました」
まさか、こんな異国の地で同郷の者と出会うことになるとは。
「ご覧の通り、私も今は落ちぶれました」
「とんでもない。魔術書を書いていらっしゃるとは、立派なことです」
私は苦笑した。
「ところで、ノラがあなたのことをよく話しておりましたよ」
商人は少し思案するように言葉を選んだ。
「ノラ?」
「ノラですよ、ヴァンステール家でメイドをしていた」
その名を聞いても、すぐには誰のことかわからなかった。
ノラ、ノラ……どこかで聞いた覚えがある。誰だったか。私は眉をひそめ、記憶の底を探る。
そして、ようやく思い至った瞬間、全身が強張る。
──ノラ。
思い出した途端、ひどい眩暈がした。
胃が縮こまり、膝の力が抜けて、私はその場にしゃがみ込んだ。
喉の奥から、呻きにも似た声が漏れる。
あの、のろまで愚図なメイド。
私が執拗にいびり、怒鳴りつけ、無理難題を押し付け、ついには顔を蹴り飛ばした女。
忘れていた。いや、忘れようとしていたのかもしれない。
恐る恐る顔を上げ、私は尋ねた。
「……ノラは、幸福ですか?」
「ええ、幸せそうに暮らしておりますよ。そうだ、今度の休みにノラを連れて伺ってもよろしいでしょうか?」
私は飛び上がるほど驚いて、いいえ、もう、それにはと言葉を濁しながら、ひたすらに首を横に振った。
胸の奥に言い知れぬ屈辱感が広がり、じわりと体が熱を持つ。
けれども、商人は朗らかに続けた。
「子どもが三人おります。末の娘が今年から学園に通うようになりまして、ようやく少しは落ち着きました」
私は、言葉を失った。
あの要領の悪いノラが家庭を築いている。
それどころか、幸福だという。
胸の奥がかすかに疼き、何かが引き攣るような感覚。
「ノラも苦労しましたが、まぁ、あなた様のお屋敷のようなところで行儀見習いをした者は、やはりどこか違いましてな」
そう言うと、商人は少し顔を赤くして、はにかむように笑った。
「おかげさまで、ノラもあなたのことをよく話しております。こんどの休みに、一緒にお礼に伺います」
商人は急に真面目な顔になり、「それでは、今日はこのへんで。お体、大事になさってください」と言って一礼すると、そのまま帰っていった。
それから三日後、私は論文のことよりも金銭のことで頭を悩ませ、じっとしていられず、外に出ようと玄関の扉を開けた。
すると、どこで家の場所を聞きつけたのか、先日の商人とそのとなりに寄り添う女、そして赤いドレスを着た女の子が並んで立っている。
その姿を見て、私はすぐにそれがノラの家族であることに気づいた。
私は自分でも驚くほど大きな怒声を出した。
「来たのですか。しかし、私は魔術ギルドに用事があって、今から出かけなければなりません。お気の毒ですが、またの日においでください」
ノラはすっかり品の良い奥さんになっていた。穏やかな微笑みを浮かべ、落ち着いた雰囲気の彼女は昔とは別人のようだった。
末の娘はメイドとして働いていた頃のノラにどこか似ている。特に目元がそうだ。ぼんやりとした瞳で私を見上げるその顔は、懐かしさとともに私の心を揺さぶる。
私は悲しくなって、ノラが何か言おうとする前に街の方へ逃げるように歩き出した。
心の中で渦巻く感情に耐えきれず、ただただ前へ、前へと歩き続けた。
街の広場に足を踏み入れると、賑やかな声が一斉に耳をつんざくように響いた。
露天商の呼び込み、子供たちの無邪気な笑い声、そして通り過ぎる人々の軽やかな会話。
誰も彼もが私を嘲笑うようで、それが神経を逆撫でする。
私は当てもなく街をさまよいながら、ふと目に留まった魔道具屋を冷やかしたり、旅の占術師が人々の手を取って占いをしているのを眺めては、ちえっちえっと舌打ち舌打ちをしながら歩き続ける。
「負けた、負けた……」
そう口に出す度にこれではいけないと強くかぶりを振っては、がむしゃらに歩いて、そうして三十分ほどさまよった後、私は結局、自分の家へと引き返した。
私は海辺に出て、足を止めた。
視線の先には、穏やかな光景が広がっている。
ノラとその家族が、波打ち際で小石を投げて遊んでいた。
海風に乗って、その楽しげな笑い声がこちらまで届く。
「なかなか、賢そうなお人じゃないか。あの人はいまに偉くなるぞ」
男がそう言って、力強く石を投げる。
「そうですとも、そうですとも」
ノラの誇らしげな声が聞こえた。
「あの方は小さな頃から、一人変わっておられた。目下の者にもそれは親切に目をかけてくださった」
私はその場に立ち尽くしたまま、涙を流していた。
心を締めつけるような感情が、涙とともに静かにほどけていくのを感じる。
──負けた。
でも、これはいいことだ。
そうでなければ、いけないのだ。
かれらの勝利は、また私の明日の出発にも、光を与える。