日本書紀演義・斑鳩炎上(いかるがえんじょう)   作:TKF

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595 厩戸修業時代 その② 道後温泉にて

<遠征軍解散>

 595年夏、厩戸はヤマトを旅立った。

 この時代、ヤマトから筑紫に行くには、まず難波まで出て船に乗る。そのまま瀬戸内海をすすみ、関門海峡を過ぎて筑紫に上陸する。2週間ほどの行程であった。

 

 現地駐在の将軍たちの案内で北九州各地の開拓プロジェクトの状況を見て回る。

 3年前、崇峻大王のころに2万数千の屯田兵をもって始められた一大プロジェクトであったが、その後、徐々に規模が減らされ、現在ではわずか2千名ほどになっていた。

 

 だが幸いなことに大陸や半島からの難民流入は順調に続いており、減らした兵士の代わりに難民を充てる事により、開拓プロジェクト自体はそのまま進められていた。

 もっとも、プロジェクトのもう一つの目的であった圧力外交の方は、とうに忘れさられたのとなっていたが。

 

 厩戸の目にもプロジェクトは成功であったのがわかった。数年後にはここに多くの兵糧が蓄積され、半島情勢への対応もしやすくなることであろう。

 筑紫に戻った厩戸はプロジェクトの終了を宣言し、将軍たちの積年の労苦をねぎらった。

 

 

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日本書紀にいう。

 595年秋7月、将軍たちが筑紫から引き上げた。

 

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<道後温泉にて>

 その後、厩戸は西日本の各地を回りながら伊予の道後温泉へと向かった。世話役と護衛役を兼ねて、遠征軍の将の一人であった葛城臣烏那羅(かつらぎのおみのおなら)が同行していた。

  

 道後温泉には療養に来る王族のために行宮が建てられている。厩戸はさっそく湯につかり旅の疲れをいやした。裸のまま手足を伸ばす。気持ちがいい。

 湯から上がると慧慈が瞑想していた。ずいぶん先に出ていたらしい。この僧はヤマトを出たときから無口であまりしゃべっていない。

 

 厩戸は葛城臣を連れて付近を散策した。伊予の自然が新鮮にうつる。椿の鮮やかな赤が目に染みる。山の麓に沿って歩くと川があった。

 あたりが暗くなったので行宮に戻った。慧慈はまだ瞑想している。せっかく温泉まで来て、湯も楽しまずに何を考えているのだろうか。

 

 翌日も、さらにその翌日も、厩戸は温泉に入り付近を散策した。住民らも厩戸達の姿に慣れてきて、時おり会話をかわすようにもなっていた。

 

 ある日、小川で子供が数人遊んでいた。どじょう取りをしているらしい。都では忘れかけていた風景であった。厩戸は近くまで行ってのぞき込み、子供らに話しかけ、やがて自身も川に入り子供達と一緒に夢中になって遊んだ。

「おじちゃん、えらいんでしょう。なんでこんなところにいるの?」

「さあ、なんでだったけな?」

 

 行宮に帰ると僧が二人に増えていた。百済僧・慧聡(えそう)と名のった。ヤマトに渡ってきたばかりだったが、馬子に要請されてこちらまで来たという。

 慧聡は慧慈と違って口数が多く俗っぽかった。おまけに誰から習ったのかしらないが、珍妙な方言まじりの日本語で懸命に話しているのを聞くと、まじめな話でも思わずほほえんでしまう。同じ半島からの僧でも随分違うものだ、と思った。なお厩戸は知らないが、こちらも慧慈と同じく百済王の折り紙付きで派遣されてきた高僧である。

 

 厩戸に冷えた体を温めようと再び湯に入る。拾ってきた椿の花を湯に浮かべてみた。暗闇の中、湯面に映える灯火と湯気がたわむれあい、花弁が波にゆらめく。

「美しい・・・」、思わず見とれた。

 花弁がゆっくりと水面を動き回る。風に寄せられ集まったり、湯の流れにのって別れたと思えば、また合流したり、、それを見ているのも楽しかった。まるで大海原の波間をさすらう船のようだ・・・それぞれの船は孤独で不安であろうな、灯火を挙げて互いに呼びかけ合うのであろうか・・

「我もまた、、流れ流れて、、、ここに至る、、」

 

 しばらくすると慧聡が入ってきた。その後すぐに、珍しく慧慈も入ってきた。

 慧聡はいろいろ厩戸に話しかけてきたが、慧慈の方は湯に入っても静かに瞑想しているようであった。まったく違う二人だが、どこかお互いを認めあい敬意を払いあっているようにも見える。

 厩戸はふと、この二人の存在に興味を覚え、聞いてみた。

「お前たちはどうして、ここにいるのだ。」

「自分ができることをさがし求めているうちにここに来ておりました。」

「ただここにいます。理由はありません。」

 

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日本書紀にいう。

 この年(595年)百済の僧、慧聡が来た。

この2人(慧慈と慧聡)が我が国に仏教を広める中心となった。

 

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(その③「研修」に続く)

 




補足・解説
葛城臣烏那羅 かずらきのおみおなら ?~?
 587年の物部守屋討伐戦争にて蘇我方の将軍として名前が見える。また591年に崇峻が新羅遠征軍を派遣したときには、将軍の一人として兵を率いた。
 伊予風土記に書かれている太子の道後温泉行き(596年)に同行した「葛城臣」というのも、烏那羅のことであろう。

慧聡 えそう ?~?
 慧慈と同じ時期の百済僧。595年に来日し聖徳太子の師となる。慧慈とともに仏教を広めたとされる。

この時期の聖徳太子について
 聖徳太子の事績は600年から610年ごろに集中しており(新羅征討、十七条の憲法、冠位十二階制定、遣隋使派遣など)、摂政になってからの数年間は何も大きな活動はされていない。このことについては一般に「年齢が若いこともあって(20歳)経験が少なく、周囲の信望もなく、それほど大きな仕事ができなかったため」とされており、本書でもその考え方に従っている。
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