日本書紀演義・斑鳩炎上(いかるがえんじょう)   作:TKF

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598   朝鮮外交
598 朝鮮外交 その① 6世紀の国際社会


<混乱する世界>3c~4c

 紀元三世紀頃――日本では卑弥呼率いる邪馬台国が存在していた頃――地球全体の気候は寒冷化しつつあった。

 

この気候変動により中国やヨーロッパなどでは農業生産が激減し経済が混乱し、さらに生計が立てられなくなった農民の蜂起などにより治安が極度に悪化した。かの有名な『三国志演義』も、このような農民の蜂起(=黄巾の乱)から物語が始まっている。

 

 この混乱にさらに輪をかけたのが北からの難民の流入であった。ユーラシア大陸北部には、遊牧・狩猟を生活の糧とする民族が存在していたが、ここでも寒冷化により遊牧・狩猟が困難となり、人々は暖かい土地を求めて南の地帯――すでに混乱していた中緯度の国々――への移動を開始した。

 

これによりヨーロッパ地域ではローマ帝国がゲルマン民族などの南下によって崩壊し、中国では三国時代を統一した晋が北方の遊牧民族(五胡)により滅ぶことになる。こうして世界は未曾有の大混乱に陥っていった。

 

 

<中国>3c~6c

 中国では前述の通り、後漢末の天候不順とそれによる農民蜂起によって漢帝国は崩壊し、軍閥が各地に割拠する状態になった(200年頃)。この混乱は北部の黄河地域(中国では中原と呼ばれる)でよりひどかった。

この分裂はやがて晋によって統一されるが、まもなく晋は北より侵入してきた異民族によって滅亡し(300年頃)、このあと北部地域では五胡十六国(五つの異民族が入れ替わりながら計十六国を建国したという混乱時代)を迎えることになる。

 

 一方、長江流域を中心とする南部地域では、混乱は少なかった。もともとこの地域は、気温、日射量とも十分であって寒冷化の影響を受けにくかったからである。諸葛孔明の兄・諸葛謹が北部から呉に移住したのもこのような事情による。この結果、長江流域では中原地域に比べて相対的に経済力が増大し、ここを地盤に北部地域に対抗できる国が建設され、南北朝といわれる時代が生まれた。

 

 この北部の混乱と南北朝の対立は400年近く続いたが、やがて寒冷化の終息とともにしだいに国内の混乱はおさまっていき、589年、ついに北朝の隋によって中国の地は統一される。この400年ぶりの中国統一国家の出現は周辺諸国に大きな恐怖と衝撃を与えることになった。

 

<朝鮮半島>4c~6c

 朝鮮半島では4cごろ、やはり北方の遊牧民族が南下して北朝鮮地域を占拠し、高句麗という国を建国した。

 

 高句麗のさらなる南下を恐れた南朝鮮の国々は海向こうの倭国と共同して高句麗の南下をくい止めようとした。こうして朝鮮では北朝鮮(高句麗)vs南朝鮮(国連)という対立図式がしばらく続くことになる。有名な好太王の碑がつくられたのもこのころである。

 

 六世紀にはいると、新羅が国内改革・中央集権化に成功して国力を増強し、逆に周辺諸国を圧迫しはじめた。これにより任那は滅亡し、高句麗、百済も大きく領土を奪われることとなった。新羅の急成長におびえた高句麗、百済は、倭国との友好関係をうち立て、共同で新羅の封じ込めを図った。

 

 589年、中国が隋によって統一されると、高句麗、百済は隋の圧力に対抗するため、倭国(日本地域の国際的な呼び名、ジャップみたいな感覚)との同盟関係をさらに強化しようとした。一方で新羅は隋との関係を強化し半島での自らの立場を優位にしようと画策した。こうして今度は隋・新羅連合 対 高句麗・百済・倭連合という対立関係ができあがることになる。

 

 

<日本>3c~6c

 この時期、日本では記録が少なくて、詳細なことはわからない。だが日本では、冷年では北日本で冷害、西日本では豊作になり、温暖な年には北日本で豊作、西日本では日照りと台風で凶作になる、という図式が存在する。これにあてはめると、この寒冷化によって、東日本(関東や北陸、蝦夷など)の国々は弱体化した反面、西日本では経済力が増大したことであろう。この時期から西日本を中心にヤマタイ国を中心に連合国家が設立され、積極的に対外活動を行いだしたのは決して偶然ではない。

 

 6cぐらいから、日本でも記録が多くなって歴史がはっきりとしてくる。この時期には西日本ではヤマト王国を盟主とする連合国家を形成されていた。本小説ではこの連合国家を日本国連と呼んでいる。このときの盟主・ヤマト王国が前述のヤマタイ国と同一なのかどうかについて、多くの人々の関心をひいているところであるが、経済的に見ればどちらでもよい。

 

 この日本国連も朝鮮半島に興味を持ち、盛んに朝鮮への外交や出兵を行った。だが前述の新羅の急成長によって朝鮮半島における日本国連の地位は大きく後退することになる。このころから日本国連においても改革の必要性が叫ばれ出したが、国内の混乱もあってなかなか進まなかった。

 

 そして589年、前述の通り中国が隋によって統一されると、ようやく日本国連でも改革の気運が高まった。この期待を背負って593年、厩戸皇子が摂政に就任し、日本国連は遅まきながらようやく改革に着手することになる。

 

 595年5月、隋の侵攻を恐れた高句麗王は、日本国連との関係強化を図って高僧・慧慈を派遣し、文化育成・技術援助と同時に外交窓口としての任務も行わせた。同様に百済王も高僧・慧聡を派遣した。

 厩戸皇子はこの二僧を師とあがめ、仏教精神とともに海外の技術・知識も吸収しながら、日本国連としての身の振り方を検討しつつあった。

 

 

(その②「百済からの調」に続く)

 

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