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日本書記にいう。
597年4月1日、百済王が王子阿佐を遣わせて調をたてまつった。
11月22日、吉士磐金を新羅に遣わせた。
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<百済からの調>
597年4月、百済が調を奉る使者を日本に派遣してきた。
調とは一番簡単にいうと、日本国連への加盟料のようなものである。数年に一回これを支払うことにより、日本国連からその国の存在と存続を認められることになり、その国が隣国から攻められたりして危機に陥ったときには、日本国連による外交圧力や調停・国連軍の派遣などが期待できるようになる、そういうものである。
加盟料は物納で、その国の特産物や珍しい宝物などが1品か2品納められる事が多い。
その程度で国の存続の保険になるのだからちゃんと払えよと思うのだが、朝鮮半島各国では百済だけが熱心で、高句麗や新羅はあまり熱心ではなかった。なぜかと言うと国連にどっぷりと入ってしまうと、国連からいろいろ指示や干渉を受けることになり、それがうっとうしいからであった。
それでも百済だけは熱心なのは、隣国・新羅の急成長により、常日頃から新羅の侵攻や圧迫を受け続けているからである。それがわかれば新羅が払わない理由は言うまでもあるまい。
一方で高句麗が熱心でないのは、隋の隣国であり隋に熱心に朝貢しているため、他の国にも朝貢していると思われたくないからである。その代わり高句麗は日本側に対しては僧や技術者の派遣など、調ではない形で友好関係を維持していた。
太子の師となった慧慈・慧聡が百済や高句麗から派遣されてきたのも、この文脈でとらえるとわかりやすい。
さて、その百済からの調であるが、このときはいつもとは違う特別なことが2つあった。
一つは使者が百済の王子であったことである。これが何を意味するかを解説すると長くなるし、冒頭での情報が過多になって話が進まないので、説明は別にしたい。
もう一つの特別なことは、この王子がもたらした情報であった。
<隋、出兵準備中>
「隋が高句麗出兵を準備中!」、
百済の使者によってもたらされたその情報がヤマト中に衝撃を与えた。厩戸は急ぎ日本国連の臨時総会を招集した。
「隋は30万を越える大軍というぞ、高句麗などひとたまりもあるまい。」
「高句麗が亡びれば次は我々が危なくなる。高句麗を援護しなければならぬ。」
「そんなことをすれば隋に倭国討伐の口実を与えることになるぞ、形だけでも隋軍を応援すべきだ。」
「百済や新羅はどうするのだ。隋に追従して高句麗を攻めるのか。」
群臣がめいめいに思うところをわめきだす。広間は喧騒につつまれた。
「静まれ、静まらぬか。」と、馬子の声が響いた。
「戦争勃発までにはまだ時間がある。それまで太子を中心に対策会議を開いて十分に検討することにする。みだりに騒ぐではない。」
<対策会議>
数日後、国連の要人や海外事情に詳しい者に召集がかかった。吉士磐金(きしのいわかね)もその一人である。吉士氏は代々朝鮮外交に関わってきており、朝鮮の国々の事情に精通していた。
磐金が部屋に入ったとき、すぐ後ろから、もう一人若い男が入ってきた。見たこともない顔である。部屋を間違えたのであろうと思ったが、その男は中に居並ぶ面々に臆することもなく、すっと一礼して部屋の隅に座った。思わず磐金が注意する。
「どこの子か知らぬが、部屋を間違っておろう。今ここでは重要な会議中なのだ。出ていってもらおうか。」
「磐金よ、構わぬ。私が呼んだのだ」と、太子が言った。
「小野妹子という。後学のために見学させることにした。じゃまはさせぬから置いてやってくれ。」
磐金は不思議に思った。
(まだ子供ではないか、何の目的で太子は入れたのだろうか。)
まもなく面子がそろい、会議が始まった。
「百済王は隋の圧力を恐れており、形だけは隋に従う模様です。」
「高句麗は軍を最大動員して守りを固めているとのことです。」
「新羅の動きはまだつかめておりません。」
「しかし、なぜ、隋からの出兵要請がないのだ!」
そのことが関係者全員を苛立たせ不安にさせていた。
隋が高句麗を討つならば、当然、周辺諸国に動員を要求するはずである。日本国連としてはそれに対して対応を考えるつもりが、いつまでたってもその使者が来ないのである。
どういうことなのだろうか。隋軍だけで十分だからか?、いや、隋にとって倭国など眼中にないのか? それとも倭国だけ仲間はずれにされたのだろうか・・・?
「まさか、高句麗を落としたあと、すぐにこちらに攻め込んでくるのでは・・?」
「軍事的に考えてもそれはあるまい。」
倭国としては、要求がなくても自主的に兵を出すべきなのだろうか、それともこのまま無視した方がよいのだろうか。
「隋との関係が深い新羅には要求が来ているかもしれぬ。磐金よ、新羅に使いして様子を見て参れ。」
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日本書記にいう。
597年4月1日、百済王が王子阿佐を遣わせて調をたてまつった。
11月22日、吉士磐金を新羅に遣わせた。
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<百済王、迷う>
同じ頃、百済王(この時は第27代・威徳王)も迷っていた。
百済にも隋の使者は来ていなかったのである。そして百済は隋のすぐそばに位置し、高句麗に対しては陸続きの隣国である。対応を間違えばすぐに国の存続が危うくなる。その点倭国よりも問題は深刻であった。
百済の国内の意見も隋応援派と高句麗応援派で分裂し、論争はつきなかった。
<推古の心配>
国連が紛糾していることを聞いた推古は、厩戸を呼んで状況を尋ねた。
「勝ち組になっておいた方がいいのではないか。聞けば百済も出兵を検討しているとか。このまま何もしなければ国際的に孤立してしまうのではないか。」
「事態は複雑でございます。あわてて隋の味方をすれば取り返しのつかなくなることも考えられます。もうしばらくお待ちください。」
厩戸の説明を受けても、推古はなおも落ち着かなかった。さらに馬子を呼んだ。
「皇太子はまだ政治経験が少ない。取るべき道を誤ることはないか。」
「ご心配なさいますな。私も太子と同じ考えでございます。」
「そうか。大臣が同じ考えならばよいでしょう。」
と言いながら、推古は馬子を見つめた。この小さな小太りの体のどこから、このような低く力強い声がでるのだろうかと不思議に思った。
「ですが、ここからが太子の正念場でございます。」
(その③「黒駒」に続く)