日本書紀演義・斑鳩炎上(いかるがえんじょう)   作:TKF

17 / 35
598 朝鮮外交 その④ 予備動員

<尾張国>

 ヤマト王国の王都・飛鳥から真東に行くと山につきあたる。その山地を越えたところには伊勢神宮で有名な伊勢国があり、さらに行くと海に出る。

 古代、このあたりの海のことを、都から見て東方に位置する海ということで東海とよんでいた。現在の呼び方でいうと伊勢湾を中心に三河湾や遠州灘の一部まで含む海域をいう。この中でも伊勢湾、三河湾は半島によって太平洋と区切られるため、一年を通じて穏やかであり、水運がよく発達していた。

 

 そしてこの東海の沿岸一帯を古代では東国とよんだ。尾張を中心に伊勢、美濃、三河、遠江までの範囲である。現代ではこの地域のことを東海地方とよんでいる。

 この東国は古代から豊かな地域であった。上述の水運に加え、濃尾平野を初めとする広大な平地、木曽三川を初めとする豊かな水資源、その他多くの自然条件に恵まれ、強大な経済力が存在していた。

 後世、この地域を支配した織田信長という英雄が、上洛して戦国時代に終止符をうつことになるのだが、これは決して偶然ではない。”海道一の弓取り”と称されて尾張に侵攻した今川義元の支配地(駿河+遠江+三河)は江戸時代の石高で計算するとせいぜい70万石相当だが、信長の上洛時の支配地はちょうどこの東海地方全域(尾張+美濃+伊勢(北半分)+三河・遠江(同盟軍))にあたり、その総石高は200万石と今川義元絶頂時の3倍に相当する。

 さらには、この地域は古来、物づくりが盛んであった。例えばこの地域で造られる陶器は瀬戸物と言われ、やがて陶器の代名詞として用いられることになる。現代においてもこの地には、自動車産業や航空産業などが発達し、日本の技術力を支えている。

 

 話を古代に戻す。このように古代から強大な経済力を有していた東国ではあったが、残念ながら文化の面では立ち後れていて、都の人々からは”偉大なる田舎”あるいは”野蛮な地域”などとさげすまれていた。

 例えば658年に有馬皇子の乱という事件がおこるのだが、このときの罪人(反乱罪および天皇暗殺未遂罪)の一人は尾張国に流刑になったと日本書紀に記されている。あと平安時代の有名な陰陽師・安倍晴明も一時期、尾張に流されていたという伝説もある。都の人々が尾張国をどのようなイメージで見ていたのかがよくわかる記事である。ひょっとしたらこの傾向は現代でもかわらないのかもしれないが。

 

 さて、この尾張国の南部に熱田神宮という社がある。ここにはヤマト王家に伝わる三種の神器の一つ、天叢雲剣(アマノムラクモノツルギ、草薙の剣(クサナギノツルギ)ともいう)が祀られている。三種の神器とは、正当な天神の子孫であることを証明するものである。そのような大事なものがなぜここにあるのかはよくわからない。ともかく尾張国に熱田神宮が存在し、天叢雲剣(草薙剣)が祀られている。本章の物語はこの地から始まる。

 

 

<熱田の杜>

 夜半から降り続いた雨は、やがてぽつ、ぽつという霧雨にかわっていた。黒き森の影の中、幾十もの火明かりがゆらめき、そこだけオレンジ色に映えた霧がふわっと流れている。

 火の周囲に人影が揺れた。目をこらすともっといるのがわかる。十数人ぐらいだろうか。木々の間に雨よけの幕を巡らせ、初春の夜雨に震えながら、死んだように眠っている。そのような集団が、あちらにもこちらにも固まっている。

 やがて周りが白みはじめた。霧の夜明け、木々の先が見えない。あちこちから鶏の鳴き声が聞こえだす。動きまわる者が増えてきた。

 ぶおー、と、突然、ほら貝の音が鳴り響く。その音に、まだ眠っていた者もようやくのろのろと動き出した。火を踏み消し、一斉に甲冑を装備しだす。

 そのほら貝が発せられている場所、熱田の杜の社殿からは数人の男達が出てこようとしていた。

「ここに詣でるときにはいつも思うんだが、アマノムラクモノ剣ってどういう意味なんだろうか。」

「なんか聞いたところによると、常に刀身のまわりにムラムラと雲がわきたっていたからそういう名がついたらしいぞ。」

「俺は人名って聞いたけどなあ。我らアマ族の勇者であるアマノムラクモさまとかいうお偉い方の使っていたものだって。」

「それなら、刀の元の持ち主というヤマタ何とかも、ひょっとして人名か?、」

「そちらは国名と聞いたな。ヤマトだかヤマタイだか、、、もともとこの東海地方を支配していた民族だったが、そこをアマノムラクモ様が征服して、国の象徴だった剣を取り上げて自分のものにした。そんな言い伝えを聞いたことがある。」

「そうか、征服と力による支配の象徴だから、その剣がここ熱田に置かれているのか。納得だ!」

「しかし我々アマ族の方が征服者だったのか。。。。少しショックだな。」

「まあ昔のことだしあまり気にするな。ヤマト地方だって、昔はその別民族の居住地だったのが、それを追い出して今のヤマト王国が建国されたわけだしな。」

「ふーん、ヤマトって地名はもともと先住民族のものだったんだ。それで、そのヤマトだかヤマタイの民はどこに行ったんだ?」

「ああ、それなら俺も聞いたことがある。一部は信濃方面に逃げて、そこで新たに国を作ったらしいぞ。」

 

 そんなことを口々に言い合いながら歩いていた。夜が明けたとはいえ空は暗かった。

「あまり、すっきりしない門出となったな。」

それに応えて中心の頭らしき男がつぶやく。年は三十ごろであろうか。

「熱田の杜には、雨がよく似合う・・・」

 

 この男の名は尾張粟原という。この尾張国を国造として支配する豪族・尾張氏の一族の一人である。なお国造とは、その国を開拓した功績を日本国連から認められ、その地を代々しはいすることを認められた豪族をいう。江戸時代でいう国持大名と思えばよい。

 

「行くとするか・・」

そう粟原が言うと、まわりの者達はさっと散って、森の中に消えていった。

ややあって、黒き杜から静かに人影が吐き出されてきた。みな重々しい甲冑をつけ、大きな荷をしょっている。

 熱田の杜のすぐ南には港があり、そこには数十隻の船が所狭しとつながれていた。杜を出た人影は、集団ごとに船に乗り込むと、つぎつぎに沖へとこぎ出していった。

 

<行軍>

 日本国連の摂政である厩戸皇子が発した予備動員命令に従い、尾張粟原が東海兵1000を率いて熱田を出発したのは598年3月のことである。この時代、日本国連の加盟国は、九州から関東に至るまで百数十国におよんでいたが、これらの国々は畿内を除いて、西海道(九州地方)、山陰道(山陰地方)、北陸道(北陸地方)など、地域ブロックとして区分され、各ブロックごとに、リーダーとなるべき豪族が定められていた。この豪族のことを総領、太宰、あるいは道君などと称する。そして、この東海道(東海地方)の総領に任命されているのが尾張氏であった。

 今、この粟原が率いている東海兵は強悍で知られていた。一般に、兵は文化の低い地域ほど強いという。先にも述べたが、この時代、文化の中心は近畿から西日本に存在し、東海から東の地域は文化は低く、その分、兵は強かった。

 蛇足となるが、後の世の戦国時代、織田信長の軍勢は数で優勢ながらも苦戦することが多かった。このため尾張兵は弱い、と一般には認識されている。

 名古屋人の名誉のために付け加えて置くと、戦国時代には尾張の文化レベルが多少は上がっていたのも確かであるが、それより信長の軍勢は、織田氏の急激な成長により人材不足であり、特に譜代の将や兵が少なかったこと、他国への侵攻の戦が多かったこと、信仰による団結力を持たなかったこと、逃げに長じていたこと、などを考慮しなければならない。

 

 ともあれ、この東国一帯から集まった首長と兵たちを引き連れ、尾張粟原は熱田を出発した。まず対岸の桑名郡を目指し、陸沿いに南に下る。津のあたりで上陸し、内陸に進んで鈴鹿山脈へと向かう。

 山地の中にヤマト王国が設けた簡素な関がある。この関が東国と畿内との境となっていた。ここで関守に動員令により難波まで行軍中であることを告げた。後年、この関はさらに整備されて、鈴鹿関という名で有名となる。

 

 

<大和にて>

 鈴鹿山脈を越え、伊賀郡を通過して、ようやくヤマトの地に入る。出発から十日が過ぎていた。

 ヤマトはいい天気であった。春の日差しとやわらかな風が心地よい。粟原にとっては、先の政変に協力して以来、六年ぶりの上京であった。ヤマトの様子もずいぶん変わった。まず、街道が広げられて移動がかなり楽になった。また途中の村々では、開拓がすすみ農地が広がったのがわかった。そして何よりも、農作業や道の整備などをしている農民たちの顔が生き生きしているのが印象的であった。

 ヤマト王国の内部は充実している、そう思った。

 

 

 この地で粟原は一時的に軍を離れ、他の首長らと共に飛鳥へと馬を走らせた。今のヤマト王国では、こういう地方豪族に対しては大王である推古が直接会うことはなく、代わりに太子である厩戸皇子が応対することになっている。飛鳥についた粟原らは、さっそく厩戸皇子の館を訪ねたが、あいにく留守であった。なぜか家の者たちが困ったような顔をしていた。

 妙だな、と思いつつ、今度は蘇我馬子大臣の館へ向かう。大臣は在宅しており、粟原らを見て、「ご苦労である」と、ねぎらいの言葉をかけた。

 

 翌朝、もう一度、太子の館を訪ねるが、まだ太子は帰宅していなかった。難波到着の期日も迫っており、いつまでも軍を停めておくわけにはいかない。粟原は仕方なく言付けして土産をおいてひきあげた。

 斑鳩の付近で、粟原らは先について待っていた軍に合流した。ここから大和川ぞいに道を下って難波へと向かう。荷物の一部は大和川に船を浮かべて川を下らせた。

 

 その斑鳩から、ほど遠くないところに生駒山という山がある。現在、奈良盆地と大阪平野の両方を望見できる名所として知られている。その生駒山の頂上付近で、一人の男が日差しを浴びながらごろんと横たわっていた。身なりから見て相当の身分とわかる。近くに控えている二人は、この男の従者であろう。

「あれは尾張公率いる東海兵でございましょう。」

その従者の声にも、男は眠そうな顔をわずかに向けただけであった。

 

 近くでは黒い馬が草を食んでいた。従者らはそれをうらやましそうに眺めているしかなかった。

 

 

(その⑤「難波杜」に続く)

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。