日本書紀演義・斑鳩炎上(いかるがえんじょう)   作:TKF

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598 朝鮮外交 その⑥ 決着

<閃き>

 それからも何度か厩戸は難波杜を訪れた。しだいに厩戸はカササギと出逢うコツのようなものが何となくわかるようになってきた。

 あるとき杜を散策していると、頭上から鳴き声が聞こえた。いつもと違ってけたたましい。見上げると、樹上に黒々とした枝の固まりがあった。

「おや、巣を作ったようだな。」

「あの様子だと、すでに雛がかえっているようですね。あまり近づいて欲しくないのでしょう。」

 厩戸は立ち去ろうとして、ふと足下に鳥の雛が落ちているのを見つけた。カササギの雛であろう。抱き上げてみるとまだ生きていた。が、ひどく弱っているようであった。

「かわいそうに。なんとかして巣に戻してやれないか。」

そばにいた宮司が頭を振った。

「鳥の世界には、親鳥があらかじめ多めに卵を産んでおいて、獲れるエサの量が少ないと雛の数を間引くことがあるのです。おそらくこの雛も巣に戻しても、また落とされることでしょう。かわいそうですが、自然の摂理というやつでどうしようもないのです。」

「そういうものなのか。」

厩戸は悲しく思い、目を落とした。ふと地面に落ち葉が積もっているのに気づいた。まだ新しい。最近落ちたもののようだ。

「初夏というのに、ずいぶん落ち葉があるものだな。」

「はい、手前どもは落ち葉掃除をするのでよく知っておりますが、秋ほどではないにせよ、初夏にも葉はよく落ちるものなのです。」

「今から夏が始まるというのに、なぜ木々は葉を落とすのだろうか。」

「はい、木は春にはたくさんの葉をつけますが、その中で日当たりの悪いものや風通しの悪いものは自然に落ちていくのです。これも自然の摂理です。そうすることで木全体としては健康が保たれるものでございます。」

「そうか、自然というものは、多めに作っておいて、後から必要に応じて数を調整する・・・」

と、言いかけた厩戸がはっとして慧慈を見た。

「そうです、太子、それなんです。それこそがそれなんです。」

と、慧慈がうれしそうに言った。

 

「付近に待機中の軍に急使を出せ。決して動いてはならぬ、現状のまま待機せよ、と伝えよ。」

「はっ、それでよろしいのですか。」

「そうだ、これは命令だ。早く行け。」

不思議そうな顔をしながら、その従者はあわてて走っていった。

 

 厩戸も飛鳥に戻る道を急いだ。その途中で尋ねた。

「それにしても慧慈よ、お前にはこの真理とかいうものが、初めからわかっていたのか?」

「いいえ、真理とは時と場合に応じて異なるものでございます。まして国全体の岐路を占う真理というものは、その立場にある者にしか感じられぬものでございます。」

「ならば、なぜ、私が今気づいたことが、間違いでないとわかるのだ?」

「私は太子が到達された真理の内容がどのようなものであるかはわかりません。ただ、太子が間違いなく真理に到達されたことはよく感じられるのでございます。」

「そういうものか・・・だが、今私が考えていることを、頭の整理のために聞いてもらえまいか?」

「うかがいましょう。」

「その、、、、はっと閃いたのだが、隋はこの戦争で勝つ気がないと。」

「ほう、どうしてそう思われましたか?」

「隋の文帝は統一後は国内の統治を固めることに専念しており、外征にはあまり関心をしめさなかった。それが急に高句麗遠征に傾くという脈絡のなさ。さらに周辺諸国への根回しや調整をまったく行わない不自然さ。そこらへんがまったくわからなかったのだが、、、」

「はい」

「なぜかそこで、中国の戦国時代の白起の故事が思い浮かんだ。一瞬だった。降伏してきた敵兵70万を生き埋めにしたというあれだ。非道とかそういう感じではなくて、あれも自然の摂理なのか、、、と。」

「なるほど、そういうことでございましたか。」

 

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日本書記にいう。

 推古六年(598)四月、吉士磐金は新羅から帰って、鵲二羽をたてまつった。それを難波杜に放し飼いにさせた。これが木の枝に巣を作りひなをかえした。

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<隋、第一次高句麗遠征>

 598年6月、ついに隋は高句麗遠征を開始した。このとき隋の友好国であった新羅は中立を保って出兵しなかった。倭国もまた出兵を抑え傍観を決め込んだ。ただ百済のみは、高句麗との同盟を破って出兵し、高句麗の国境を侵した。

 

 隋軍十五万は水陸両路から高句麗に迫った。だが海上を進んだ軍は途中で台風にあって全滅し、また陸上を進んだ軍も補給がとだえて壊滅した。無事、帰国できた者は10人中1,2人にすぎなかったという。大敗であった。そして9月には高句麗と隋との間に和平が成立し戦争は幕を閉じた。

 

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高句麗本紀にいう。

598年、隋の文帝は(中略)水陸両軍三十万を率いて高句麗を討伐しようとした。

 六月、(陸上を進んだ軍は)長雨にあい、輸送がとぎれて、隋軍内では食料が乏しくなり、また疫病が流行した。(水軍は)また大風にあって、船の多くは漂流・沈没した。

 秋九月、隋軍は帰国したが、死者は十人のうち8,9人であった。高句麗王もまた恐れおののき、使者を隋に派遣して謝罪させた。(中略)

 文帝はこれをみて戦いをやめ、高句麗王をもとのように待遇した。

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 このあまりにあっけない結末を見てあせったのは百済王である。勝ち組になるつもりが、いつのまにか自分の方が孤立していた。さらに苦境に陥っている同盟国を背後から攻撃した百済の行動に、周辺諸国の見る目も冷ややかになっていた。それでいて何も成果を得られなかった結果に群臣や民衆の心も離れつつあった。

 

 あわてた百済王は隋に使者を遣わせて言上した。

「我が国が高句麗遠征の先鋒を受け持ちます。もう一度、高句麗に攻め込んでください。」

 これに対し、隋・文帝は答えた。

「高句麗は罪を反省し降伏したので、朕はこれを赦した。これ以上攻撃してはならぬ」と。

 

 この一連の行動は、百済の国際的信用と威信を大きく失墜させた。百済の国際的孤立をみた高句麗は報復攻撃をしかけた。ますます窮地に陥った百済王は倭国に調停を求めた。

 

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高句麗本紀にいう。

(九月)、百済・威徳王は使者を派遣して、上奏文を奉呈し、(隋の遠征)軍の先導になりたいと願い出た。文帝は詔を下して、「高句麗は罪に服したので、朕はすでにこれを赦した。高句麗を討伐してはならない。」と諭し、百済の使者を手厚くもてなして帰国させた。

 高句麗王はこのことを知って、百済の国境を侵略した。

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(その⑦「後始末」に続く)

 

 

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