600 第一次朝鮮出兵 その① 征新羅論
<征新羅論>
598年秋の隋の高句麗遠征失敗により、極東地域の情勢は大きく変化した。
まず、前述のとおり、隋軍がひきあげてすぐに高句麗が百済の国境を犯した。その一方で、今まで隋との結びつきによって国際関係を有利に進めていた新羅に対し、高句麗・百済の両国が圧力を強めだした。要するに隋が東方情勢に関心がないことを知った極東の国々が、露骨に自国の利益を追い求めだしたのである。
そして倭国でもこのころ、一つの論説が声高く叫ばれるようになっていた。
「新羅を征伐して、奪われたままになっている任那地区を奪還すべし」
599年3月、この征新羅論ともいうべきものが朝廷でも話題に上るようになったとき、厩戸は宮殿から空を眺めて言った。
「見よ、天地の気がふさがれて、互いに睦み合うことができなくなっている。近いうちに地震があろう。備えをおこたるでないぞ。」
翌4月、近畿地方を中心に大地震が発生した。激しい揺れにヤマト周辺の建物はすべて倒壊し、多数の死傷者がでた。
厩戸は推古天皇に奏上し、全国の地震の神を祭るとともに、被災地に対してこの年の庸調と租税をすべて免除することを決定した。
征新羅論の検討はとりあえず先送りされることになった。
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日本書記にいう。
推古七年(599)四月二十七日、地震がおきて建物がすべて倒壊した。それで全国に命じて地震の神をお祭りさせた。
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翌600年、世の中が地震の衝撃を忘れかけてきたころ、再び征新羅論が激しく論ぜられるようになった。
「新羅を征伐しろ!、任那王国を復興して、ヤマトの栄光時代を取り返そう!」
「任那か・・・」
厩戸はため息をついた。
任那は朝鮮半島南部の一地域である。ここにはかつて任那日本府というものがあり、十ばかりの小国を統括していた。だが562年、新羅の侵略により日本府は陥落し、任那の地は新羅が占拠するところとなっていた。
当時の大王・欽明は、任那復興のために兵を送ったが果たせなかった。
欽明は臨終の際、皇太子(次の大王・敏達)を呼びよせ、こう言い残した。
「後のことはお前に任せる。お前は新羅を討って、任那を奉じ建てよ。再び昔のように両者相和する仲となるならば、死んでも思い残すことはない」、と。
この遺言に従い、敏達も新羅征伐を謀った。だがこのとき日羅(にちら)という者が言った。
「政治とは人民を養うために行うものです。いたずらに兵を興して民力を損なうことはよろしくありません。長く続いた戦乱により、民は疲れ果て国の蓄えもありません。今は戦をさけて民力の回復につとめるべきです。そうして国力を充実させ兵力と士気を高めてから、それを背景に百済に圧力をかけ、任那復興に協力させるのがよろしいでしょう。」
敏達はこの進言に従い、新羅征討をしばらく見合わせることにした。なお日羅は、この後、百済の使者によって暗殺された。
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日本書紀にいう。
敏達十二年(583)、(敏達天皇は)日羅を召し寄せて、任那復興の策を尋ねた。
日羅は、まずは国力と軍備を整えたうえで、その力を背景に百済を畏服させて百済に協力させることを提案した。また百済が謀略を持って筑紫の地を侵略しようとしていることを伝えた。
その後、日羅は百済の使いに暗殺された。
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その当時、少年だった厩戸も日羅の意見にまったく賛成であった。
もともとヤマト朝廷が朝鮮半島で支配地を持つこと自体、効率が悪すぎるのである。まず海の向こうまで兵や役人を送らねばならないから、やたらと防衛コスト・行政コストがかかる。そのくせ向こうから税(このころは物納)を徴収しても、運送コストを考えるとほとんど利益にならない。なにせ為替制度どころか貨幣すらない時代なのである。
それに厩戸は任那が滅亡してから後に生まれた世代である。任那がヤマトの支配下にあった時代のことも知らず、ゆえに任那の地などにそれほど思い入れはない。
「なぜ任那などに執着してわざわざ国力を費やさねばならぬのか、いっそ放棄してしまえ」、というのが、厩戸や、一部の心ある者たちの意見であった。後に厩戸が崇峻暗殺に協力することになるのも、こういう背景による。
そんな厩戸の思いとは逆に征新羅論はさらに勢いづいてきた。
それでも厩戸は何も言わず、ただ成り行きを見守るだけだった。あるいはどうしようもなかった、という方がいいかもしれない。
ある日、国連会議で厩戸がいつになく集中力がなかった。議題にうわの空で目が泳いでいた。それに気づいた馬子が命じた。
「太子は本日はお体の調子が悪いそうである。この議題は後日また論ずることにしよう。本日の会議はこれで解散とする。ご苦労であった。」
その夜、厩戸の館に馬子が訪れた。それは厩戸も予想していたが、馬子の後ろについてきた二人の若者については意外であった。一人は蝦夷(馬子の息子)であり、もう一人は厩戸の弟の久目皇子であった。戸惑いつつも厩戸は三人を招き入れた。馬子が言った。
「太子は出兵に反対なのですな。」
「大臣は賛成ですか・・・」
重い沈黙が流れた。重大な事項で大臣と意見が食い違うのは初めてのことである。思わず胸が震えた。
「なぜです・・・」
やっとそれだけ言えた。
「崇峻大王のころとは違います。あれからの7年間で、ようやくヤマトの国力も回復し、一方で新羅は孤立しています。」
「いや、しかし、そもそも・・・」
新羅征伐などになんの意味があるのですか、そう言おうとしたが、さすがに大臣には言い出しにくかった。
馬子の方は厩戸の言葉を待っていたが、厩戸はそれきり口を閉ざしてしまった。やむなく自分から言った。
「わかっております。新羅を討伐し、任那を復興したって、ヤマトには何ら経済的メリットはありません。それどころか、任那を長らく維持することも難しいでしょう。」
その言葉に厩戸はようやく口を開いた。
「大臣も基本的には同じ考えのようですね。ならばなぜ出兵しようというのですか?」
「太子の政治的実績を積むまたとないチャンスだからです。」
「ああ・・・」
大臣の言うことはよくわかる。厩戸が国連もヤマト国内も完全に掌握できていないというのは事実である。そしてここで任那復興という、倭国の悲願である一大プロジェクトを成し遂げれば、大きな政治的求心力を得ることだろう。外交や外征で成果を挙げて国内の支持率を稼ぐ、という現代でもときどきやられる手である。
そして今、そのプロジェクトに反対する者も少ないし、失敗する可能性も少ない。まさに天から与えられた大チャンスと言ってよい。
「大臣のお考えは正しいでしょう。」と厩戸が言った。
「だがそのために双方の多くの兵の血が流されることになります。また戦場となる地の民にも限りない禍をもたらすことになるでしょう。私はそれを望みません。」
「兄上は優しすぎる、その優しさは誰のためにもなっていません。」
久目皇子が口を開いた。
「もともと高句麗・百済・新羅の三国は毎年のように争いあってきたのです。兄上が手を出そうが出すまいが多くの血が流れる事態には変わりありません。それより、兄上が朝鮮の民のことを思うなら、我々がより大きな力をもって三国を監視し、争いを終わらせることが真の優しさというものです。」
「うむ・・・」
考え込んだ厩戸に対し、今度は蝦夷が言った。
「その方が死傷者の数は少なくてすみます。手段が強引であろうと、結果的に損失が少なくなればそれでよろしいでございませんか。」
「蝦夷よ、お前の言は間違ってはいないが、割り切りすぎだ。政治決定がもたらす影響というものを単純に足し引きするでない。」
単純だろうと何だろうと犠牲が少なくて効率的にすすめば、それでいいではないか、そう反論しようとした蝦夷を馬子は制して言った。
「多くの血が流れる事を避けたいという太子のお気持ちもよくわかります。だからこそ今がチャンスなのです。」
「それはどういうことですか?」
「今の新羅王は英名な君主です。我々が本気で戦う姿勢を見せれば、新羅王は今の状況をよく理解して、すぐに任那から撤退することで和平を図るでしょう。結果的にはそれほど大きな戦闘にはならないと思われます。」
「なるほど、それはあるでしょうね。」
「はい。繰り返しになりますが、人を動かす力は目に見える実績より生じます。太子には知恵と評判があり、人々の改革の期待を受けておられますが、それだけでは改革を実施することはできません。どうか力をおつけください。今回のことが失敗したら臣がすべて責任を負います。」
「兄上、我々はこの国に平和と幸福をもたらした兄上を誇りに思っております。どうかその徳をもって、倭国だけでなく三国の民をもお導きください。」
「このままでは国連が割れます。どうかご決断を。」
「そうか・・・心より賛成というわけではないが、仕方あるまい。新羅王の英明な決断に期待することにしよう。」
時に推古八年(600)正月のことであった。
(その②「隋への遣使」に続く)