<隋への遣使>
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隋書倭国伝にいう。
「開皇二十年(600年)、倭王あり、姓はアマ、字はタリシヒコ。オオキミと号す。使いを遣わして長安に詣る。文帝は担当役人に命じてその風俗を尋ねさせた。(後略)」
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600年正月、新羅征討実施に先だって、厩戸は推古に奏上し、隋に使者を派遣した。
当時の隋皇帝・文帝が海外経営に消極的であったのは先に述べた。しかしそれでも隋の影響力は強く、特に朝鮮は二年前に隋が遠征を行った地域でもある。虎が仕留め損なった獲物を横取りした形になれば後がこわい。いらないとわかっていても、とりあえずは一言断りを入れて置いた方が無難である。そのための使者であった。
「今でこそ新羅に滅ぼされてしまいましたが、任那はもともと新羅とは別の国であり、倭国の兄弟国でもありました。倭国のこのたびの出兵は任那を復興させるためであり、決して貴国のうちたてている国際秩序に反抗するものではございません。」
この倭からの書面に対して、文帝は関心なさげな目をして、(ミマナ?、そんな地域あったっけ?)と思っただけであった。何しろ隋から見れば、一昨年に遠征した高句麗の先の、さらにその先の地域の出来事である。勝手にすれば、というのが正直な気持ちであって、支持も反対もする気はない。
「ふーん、ところで倭国ってどこだっけ?」
「古い記録によりますと、新羅の東南の海の中に浮かぶ島国のようです。いにしえには盛んに中国に朝貢して東方地域における覇権を認めてもらっていたようですが、ここしばらくはそれも絶えており、今、使者が来たのは100年ぶりになります。」
「ほう、100年ぶりなのか。」
そう言って文帝は差し出された記録に目を通した。
「なるほど、かつては朝鮮地域の覇王を称したこともある国なのか。それで今は倭国はどうなっているのだ。尋ねて参れ。」
その文帝からの使いに対し、倭の使者は答えた。
「倭国では君臨しておられるお方のことをアマタリシヒコと申します。天神の子孫でございます。実際に行政をされるお方のことはオオキミと称します。オオキミとはこちらでいう”大王”の意味でございます。」
「・・?、よくわからんが、要するに天帝の子孫を名乗る者が天に代わって王として支配しているのだな?」
「いいえ、オオキミはどちらかと言えば太陽であって、天ではございません。」
「天も太陽もいっしょではないか。」
「いいえ、我が国では天と太陽は別でございます。例えれば天が姉で太陽は弟になります。」
「・・?、それで結局は、倭国の支配者はどっちなのだ。」
「もちろん、えらいのは天にあたるお方であり、その身の回りには数百人の侍女がお仕えしております。ただ、そのお方の役割は天地世界の運行を見守ることのみです。そのお方は日がまだ昇らないうちに起床してまつりごとを行い、日が昇れば太陽のほうに政治をまかされます。」
「・・・、よくわからんが、それでちゃんと政治ができているのか?」
「はい、現在オオキミ代行をつとめておりますワカミホトリは優れたお方でございます。ワカミホトリとはこちらでいう皇太子のことです。」
その使者は首をかしげながらも文帝に報告した。
「あの倭人のいうことは要領を得なくてよくわからなかったのですが、どうも今の倭王はアマ=タリシヒコという名で、国内ではオオキミという称号を用いているようです。皇太子のことはワカミタフラといって有望な人物のようです。
倭王の後宮には数百人もの女がいるそうです。また倭国では天を兄、日を弟としており、倭王自身は兄として日が昇らぬうちから政務をはじめ、日が昇ると『さあ、あとは弟に任せよう』といって休むそうです。」
それを聞いた文帝はあきれながら言った。
「いくらなんでもそりゃメチャクチャだ。倭人は文明がなくて常識を知らないのであろう。ここは一つ、親切がてら、物の理をよく教えてやるとするか。」
一月後、倭の使者は帰国した。その持ち帰った書にはこう書かれていた。
「天とは太陽のことであり、万民に恵みをもたらす存在です。王とは民を代表して太陽を祀る存在です。それゆえ日が出ている時間くらいは起きて政庁にいるように心がけなさい。それにあなたぐらいの大きさの国が数百人も妾をかかえこんで、昼間から楽しみにふけるようでは人民のためによくないでしょう。そういうものは数人もいれば十分ことは済むはずです。かくいう朕はたった一人の妻ですましています。そもそも王の責任は重大であり果たすべき役割は多いものです。倭王よ、よくよく努力して、立派な王となるように。」
これを読んだ推古は目を丸くした。
「いったい、いつ誰が何をして楽しんでいるというのですかっ!」
厩戸は吹きだした。多分、言葉の行き違いがあったのだろうが、それにしてもどういういきさつで、こんなトンチンカンなことになったのであろうか。使者にも詳しく尋ねてみたが、「さあ、私にもさっぱり」、というばかりでよくわからなかった。
馬子が言う。「まあ、内容はともかく、こちらから問尋ねた任那や新羅の件には一言も触れられていませんな。否定も肯定もしない。隋は干渉する気はないということですな。」
その言葉に厩戸と推古が深く頷いた。
倭国では遠征の準備が急ピッチですすめられていた。
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隋書倭国伝にいう。
「開皇二十年(600年)、倭王あり、姓はアマ、字はタリシヒコ。オオキミと号す。使いを遣わして長安に詣る。文帝は担当役人に命じてその風俗を尋ねさせた。
使者は言った。
「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴きカフして坐し、日出ずればすなわち理務を停め、いう、我が弟に委ねんと」と。
文帝曰く、「これ大いに義理なし」と。ここにおいて訓えてこれを改めしむ。
王の妻はキミと号す。後宮に女六、七百人あり。太子を名付けてワカミタフリという。(後略)
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(その③「演説」に続く)
補足・解説
600年の遣隋使
隋書倭国伝には600年に倭王が隋に使者を送ったことが記されている。隋書に記載されたその内容はまことに他愛なく、倭国の使者が倭王の近辺について説明をして、それについて文帝が教え諭した、ということのみである。だが時期からいって遣使の目的は、朝鮮出兵に関することであろうと推測される。
しかしながら日本書紀には600年の遣使の記事はない。このことについて、「大国・隋に相手にされなかった」「屈辱的な内容であったため記載しなかった」などの説がある。それもそうであろうが、あるいは単に「仁義をきっておいた」だけであって正式に国交樹立を求めたわけではなかったので国史には記載されなかった、という面もあるかもしれない。現代においても、「仁義をきっておいた」ことを記録しておくことはしないであろう。
本文では以上のような説をそれぞれ反映させた内容とした。
百年ぶり
中国南北朝時代には、倭王がたびたび南朝に朝貢していた。このころの倭王は日本~朝鮮地域の国々の盟主を自称し、それを中国から認めてもらうための使者であった。最後の使者は502年である。
文帝の妻
隋の文帝の皇后・独孤(どっこ)氏は非常に気位の高い女性であり、文帝は彼女を恐れるあまり他の女性に手を出すことができなかった。
もともと文帝の出身の家柄は彼女のそれよりも下であった。現代風に言えば、重役の娘を娶って、その力を背景に社長にまで上り詰めた関係をイメージすればよい。
ある時、文帝は皇后の目を盗んで後宮の若く美しい一人の女性を愛した。それを知った皇后はその女性を殺してしまう。怒った文帝は単騎、城を飛び出して山の中に駆け入った。
驚いた大臣は文帝を追いかけて、「どうかお戻りください」と説得した。
それに対して文帝は言った。
「吾、貴きこと天子たり、而るに自由を得ず。」
(現代語訳:私は皇帝であるのに、ちょっとのつまみぐいも許されない。こんなバカなことがあろうか。もう皇帝などやめた。勝手にせい。)
それに対し大臣は言った。
「陛下、あに、一婦人を以て天下を軽んぜんや。」
(あなたは皇帝でございます。天下人民を安んずる義務がございます。それなのに一人の婦人のことばかりで心を悩ませて、天下のことを軽んじてよいものでしょうか。)
こうしてようやくにして文帝を説得し城に連れ帰ることができた。(ちなみにその大臣は、皇后のことを「一婦人」と言ったことを後に咎められて、皇后によって処刑された)
皇帝稼業もなかなか大変なのである。っていうか、文帝さんいい人だよね。
そのような背景を知っていれば、”文帝が「これ大いに義理なし!」と言って、それを改めるようにわざわざ訓示した”というのは、倭国の風俗のどの部分に反応したのかは明らかであろう。
「なんとうらやま・・・・いや、そうじゃなくて、(皇后の方をちらっと見ながら)なんとけしからん!、朕が訓示することにしよう(もう一度横目で見て反応を確認)」とみたいにしている文帝の姿が目に浮かぶようである。