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日本書紀にいう。
「推古8年(600年)、境部臣に大将軍を命じられ、穂積臣を副将軍として、任那のために新羅を撃つことになった。新羅を目指して船出した。(後略)
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600年6月未明、任那の沖合、墨色の海面を一隻の小舟が音もなく岸に向かって進んでいた。海岸には砂浜が広がっている。小舟はその砂浜に乗り上げると、中にいた数人の人影が降りて砂地の闇の中へと消えていった。
浜の一角が急に明るくなった。松明を灯したようだ。人影が浮かび上がった。松明を持つ男は海上に向けてそれを円を描くように大きく振り回す。ややあって、彼方の海上でもかすかな光が揺れた。男はそれを見ると松明を消した。浜に再び闇が戻る。海上の光も消えていた。
空が白み始めた。山々の形がくっきりと浮かびあがる。突然、海鳥がけたたましく騒ぎ出した。その下に何十もの影があった。みな舟である。速い、瞬く間に海岸に接近する。見ると沖合にも黒々とした固まりが広がっていた。
境部摩利勢率いる六百の部隊が任那の地を踏んだのは夜明けと同時であった。周りに敵の姿はない。摩利勢はすぐに兵士らに命じて空となった舟を陸に揚げうつぶせにさせた。その周りに土を盛り柵をたてて簡単な陣地とした。
「油断するな、いつ敵兵が現れるかわからないぞ。」
波打ち際では次の部隊の上陸が始まっていた。半分ほど上陸したときが一番あぶない。
すこし先の方に丘があった。あの上ならばここら一帯を見渡せそうである。
「蝦夷よ、二百ばかりを率いて、あの丘を占拠しろ。」
摩利勢は上陸してきたばかりの蝦夷にそう命じた。
その蝦夷の部隊が丘陵に陣地を構築し始めたとき、突然、あたりに太鼓の音が鳴り響き、一帯の山陰や森の中から兵がわき出した。
摩利勢はあわてなかった。約三千というところか。蝦夷の陣地はまだ全然完成していない。
「蝦夷は引かせろ、こちらの陣地でくい止める。」
摩利勢は退却の鉦を鳴らさせ、同時に後ろに伝令を送った。
「敵はわれわれがくい止める。後続の部隊には、あわてることなく手順通りに上陸をつづけろ、そう伝えろ。」
蝦夷にもぬかりはなかった。敵兵が出現するとすぐに配下をまとめ、鉦の音と同時に全速力で丘を下り、海岸の陣地に向けて走った。後ろからは新羅兵が追ってきていた。
「将軍!」
部下の声に振り返ると、丘陵の上に二十名ほどが取り残されていた。しまった、連絡が届かなかったか、それともはぐれたか・・・既に新羅兵が丘の麓にとりつきつつある。
「将軍、救出にもどりましょう。」
蝦夷は一瞬、躊躇したが、すぐに無理だ、と思った。
「もう間に合わん。今引き返せばよけいに被害が大きくなる。」
「しかし、将軍。」
「くどい、陣地までたどり着くことだけを考えろ。」
そういいつつ、蝦夷は先を駆けた。
「蝦夷のバカめ、見捨てる気か。」
様子を眺めた摩利勢はそう叫ぶと、急いで息子の雄摩呂を呼んで命じた。
「お前が行って来い。騎兵隊を使え。」
直ちに本陣の門が開き、重甲に身を包んだ100騎の騎兵隊が突入していった。
それを見送りながら蝦夷はうめいた。
「救出しようというのか、無茶だ。」
案の定、その突入した騎兵隊は新羅兵に取り囲まれ丘に近づくこともできず、大きな被害を出して後退した。その間に丘の上の兵たちも全滅していた。
「いわんこっちゃない。貴重な騎兵隊を・・・・。将たる者は感情的に動いてはならない。将に求められるのは冷静な判断力だ。叔父上にはそれがわからないのか。」
そう嘆きつつ蝦夷は開いた門を駆け抜けた。
その陣地にも新羅兵が近づいてきた。摩利勢が命ずる。
「ありったけの矢を放て。いちいち狙いはつけなくてよい。とにかく敵を近寄らせるな」
兵士達は必死で射つづけた。しかし新羅兵も傷つきながらも同胞の屍を踏み越えて迫ってくる。
「守れ、守りきれ。我々には後がないぞ、あいつらをうち破らないかぎり我々に行く場所はないのだ。」
その言葉に兵士達の目が据わった。弓を鉾に持ち替え号令を待つ。
「かかれーっ!」
その言葉に一丸となって飛び出していった。
同時にその突撃を助けるため、摩利勢は横合いから援護射撃を行わせた。新羅兵の気が横にそれる。そこへヤマト兵の一団がすさまじい勢いで突入した。中には味方の矢にあたって倒れる兵もいる。それでもヤマトの兵士たちは鉾を振るい続けた。ようやく新羅兵も浮き足立ち、百メートルほど後退する。
「ようしっ、よくやった。」
摩利勢も深追いさせず兵を呼び戻し、再び矢の雨を降らせた。新羅兵の突撃はずいぶん弱くなっていた。
そのうちに後続の部隊も上陸し陣地の守りが固まった。摩利勢が命ずる。
「東西の別働隊もそろそろ上陸を終える頃であろう。急使を出せ。包囲しろ、と。」
一方、新羅軍も倭軍の別働隊の上陸に気がついた。包囲されることを恐れた新羅軍は攻撃をやめて退却を始めた。
「よしっ、追撃をかけろ、一兵も逃すな。」
陣地から兵たちが一斉に歓声をあげて飛び出していった。
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左翼の別働隊を率いていたのは尾張粟原であった。その数は東海兵三千。
開戦前夜、慣れない船底に身を沈めながら、粟原はなかなか寝つかれなかった。東海兵の強さには自信があるし、粟原自身もこれまでに賊の討伐や政変に何度も参加したことがあり、自分の武勇には疑いを抱いていない。だが国家規模での戦闘は初めてのことであった。明日の戦闘がどう展開するのかを考えると緊張がおさまらなかった。あるいは興奮していたこともあるかもしれない。
いつのまにか夜が明けていた。舳先にたつと目の前に朝鮮半島の陸地があった。
「いよいよか・・・」
その陸地がだんだんと目一杯にひろがり、やがて上陸予定地とされた海岸が見えてきた。岸では数人の兵があわてふためいているのが遠目にもわかった。
「あれだけか。」
おそらく見張りの兵であろう。できれば通報される前に討ち取ってしまいたい。船頭に全速力を命じる。だが船が近づくよりも先にその兵たちは逃げ去った。
人っ子一人いない海岸に粟原らは無事上陸した。付近を偵察させていると急使がきた。
「現在、本隊は新羅軍の奇襲を受けて交戦中、左翼右翼は敵を包囲せよ。」
「了解した。直ちに向かうと伝えよ。」
粟原の血が騒ぐ。ただちに軍をまとめ中央軍の戦場へと急行した。だが到着したときにはすでに新羅兵は逃げ去った後であった。やったことと言えば、逃げ遅れた負傷兵数名を虜にしただけである。
「こんなものか」
粟原の初陣はあっけなく終わった。
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追撃命令を出した後、摩利勢自身は海岸に残って軍需物資の水揚げを指示した。しばらくすると追撃した将が戻ってきて言った。
「敵軍はバラバラになって逃げていきました。討ち取った数は500、我が軍の死傷者は150名ほど。敵の残りは城に立てこもった模様です。」
「うむ、緒戦はまずまずだ。だが油断するな。まだ警戒を解かずに待機せよ。」
摩利勢はそう命じると再び水揚げの指揮を取り始めた。
(その⑤「新羅からの使者」に続く)