日本書紀演義・斑鳩炎上(いかるがえんじょう)   作:TKF

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<関連史実>
600年2月 倭国が新羅に出兵し、任那復興を認めさせた。←前章
      この年、隋で皇太子廃嫡    ← 本章①:隋政変
  (秋?)新羅が背反         ← 本章②:境部摩利勢解任        
   5月、百済・武王即位        ← 本章③:三国同盟

601年2月 斑鳩宮建設開始        ← 本章④:斑鳩宮建設開始        
   3月 高句麗と百済に使者を遣わせた ← 本章⑤:高句麗との外交交渉(今回の話) 
   9月 新羅からスパイが来たので捕まえた
   11月 新羅攻略の作戦会議を開いた

602年2月 来目皇子を新羅征討の総大将として、2万5千の兵を預けた。
   4月 筑紫まで進出し、船舶と兵糧を集めた。
   6月 百済から使者が帰国した。
   8月 百済が新羅に侵攻開始
       (中略)
603年8月 高句麗が新羅に侵攻
       (後略)
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 三国(倭国連、百済、高句麗)共同作戦を行うにあたって、高句麗に外交交渉の使者を派遣するところが今回の話である。

 本小説は、もともとは私が若いころ(20年前ぐらい)に気まぐれに作ったものである。
 それは別に公開することもなく、そのまま旧パソコンとともに文字通りお蔵入りしていたのであるが、最近たまたま旧パソコンに保存されていたデータを取り出した際に、ついでにこちらの小説も取り出して読み直してみたら、けっこうおもしろいじゃん、と思って、せっかくだから公開してみて他の人の反応も見たいと思って、20年間の人生経験分リメイクを施して、こうして公開しているものである。

 で、今回の高句麗との外交交渉の話は、20年前の原盤では存在せず、ただ「戦争前の打ち合わせのために使者が派遣された」と1行でスルーしていたものであるが、リメイクにあたって新たに付け加えたものである。
 その理由は、というのを延々と書いてみたが、小説の前にそれを見てしまうと、小説部分を読む気がなくなってしまうかもしれないので、結局ほとんど消してしまった。

 あえて少しだけ言うと、(前バラシになってしまうが)今回の共同軍事作戦は竜頭蛇尾というか、構想時は立派だったけど結局は何の成果もなくグダグダで終わってしまうことになる。
 なので、読者の方は、戦争映画のような迫力ある戦闘シーンとか戦場の駆け引きとかを今後の展開に期待すると白けてしまうので避けてもらいたい。それよりも、経営とかマネジメントの視点から、この気宇壮大な三社共同プロジェクトがグダグダになっていく過程を楽しんでもらえたら幸いである。

 ということで小説パートに移る。



第二次朝鮮出兵 その⑤ 高句麗との外交交渉(601年3月)

<高句麗との外交交渉>

 601年3月、倭国連合は高句麗と百済に使者を派遣して、新羅を征討のために国連軍を編成することを伝えた。

 このときの実際の新羅征討の主体は百済なのだが、名目的には「任那の復興のため、国連加盟の各国(百済・高句麗を含む)が軍を派遣する」ということになっている。その形式を保つための使者であった。高句麗には大伴咋(おおとものくい)、百済には坂本糠手(さかもとのあらて)が遣わされた。

 

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日本書紀にいう

601年3月5日、大伴咋(おおとものくい)を高麗に遣わし、坂本糠手を百済に遣わし、詔して、「速やかに任那を救え」と言われた。

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 このときの高句麗の王は嬰陽王(えいようおう)という。3年前に高句麗が隋の侵攻を受けたときに、これを見事撃退した王である(もっともこの戦争は隋の自滅に近かったが)。

 

 ここで高句麗と倭国連合との関係を述べておくことにしたい。

 このときから百数十年前、西暦400~500年ごろの時代には、高句麗が強盛であり、百済・新羅への南下侵攻を繰り返していた。475年には百済の当時の首都であった漢城(ソウル)までもが陥落して百済王が敗死した。この後、残った南半分の国土で百済が復興されて、その後の百済に至る。

 百済が滅ぼされれば次は任那がやられる、危機を感じた倭国は何度も半島に派兵し、百済・新羅と共同して高句麗と戦ったのだが、高句麗の勢いの前に敗退を続け、高句麗の南下を止める事はできなかった。

 

 だが500年代になると、高句麗が内紛で混乱し、かつ復興した百済と新羅が国力を増したために、高句麗は逆に両国からの圧迫に苦しめられるようになった。それにより結果的に倭国連合と高句麗の対立関係はなくなっていた。

 

 さらに隋による中国統一(589年)後は、高句麗は隋からの圧迫も受けるようになっていた。そのため高句麗にとって倭国は是非とも友好関係を確実に維持しておきたい重要な相手であった。高僧・慧慈を倭国に派遣したのもこのころである。また3年前の際に倭国がこれまでの態度と主張を変えず中立を守ったことにも嬰陽王は感謝していた。

 逆に百済に対しては嬰陽王は恨みを抱いていた。窮地の際に態度を豹変した友人は許すことができない、はじめから敵だった相手よりも憎い、逆に窮地の際にも態度を変えずにつきあってくれた友人は泣けるほどありがたい、そういうのは実際に窮地に陥った経験がある人だけがわかる感情であろう。

(もっともこれは高句麗側からの見方であり、百済から見れば、もともと漢城(ソウル)は百済の首都であったのを高句麗が強引に奪ったものなのだから、それを返してもらって何が悪い、ということになるだろう)

 

 それはさておき、そのような背景もあって、高句麗の首都・平壌に到着した大伴咋を嬰陽王は大いに歓待した。大伴咋としては両国が友好を続けること、新羅に共同であたること、隋とはうまくやること、百済とは注意してつきあうことなど、これまでの方針の維持を確認するだけでことが済んだ。

 

 高句麗との協議を終えた大伴咋は、坂本糠手(さかもとのあらて)と合流するために足早に百済へと向かった。

 




補足・解説

大伴咋(おおとものくい)
倭国連を支える四大連のひとつ、大伴氏の頭領。
日本書紀に見る経歴は以下の通り
 587 物部守屋討伐戦に参加
 591 崇峻天皇在世時に、新羅征討軍の将軍4人のうちの一人として筑紫に駐留
 601 高句麗に使者として派遣される(今回の話)
 602 百済から帰国(いつのまにか百済にいたらしい)
   (この後の事績が書かれていないが、おそらくそのまま新羅征討軍に参加したのだろう)
 608 新羅からの使者を出迎える

 後の世に定められた冠位十二階の制度では大徳(十二階の最高位)となる。
 後で詳細に説明するつもりであるが、冠位十二階は倭国連の職員の職位を表すものである。例えばヤマト王国の重臣である蘇我馬子や蝦夷、主要加盟国の代表である中臣方子、尾張粟原などは(国連職員ではないので)冠位十二階の制度上は無冠である。
 なので大徳は厩戸のスタッフの筆頭ぐらいにとらえればよく、それほど大きな政治権力や決定権が伴うわけではない。もっとも大伴咋の場合は、大徳位とは別に大伴氏の国力・軍事力を背景にした力を持っているがゆえに、上記の経歴にあるような重要な役目を担っていると思ってよい。



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