日本書紀演義・斑鳩炎上(いかるがえんじょう)   作:TKF

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<関連史実>
600年2月 倭国が新羅に出兵し、任那復興を認めさせた。←前章
      この年、隋で皇太子廃嫡    ← 本章①:隋政変
  (秋?)新羅が背反         ← 本章②:境部摩利勢解任        
   5月、百済・武王即位        ← 本章③:三国同盟

601年2月 斑鳩宮建設開始        ← 本章④:斑鳩宮建設開始        
   3月 高句麗と百済に使者を遣わせた ← 本章⑤:高句麗との外交交渉 
                     ← 本章⑥:百済との外交交渉(今回の話) 
   9月 新羅からスパイが来たので捕まえた
   11月 新羅攻略の作戦会議を開いた

       (後略)
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 今回は百済との外交に関する話である。もっとも大半は、この時代より90年前の「任那4県割譲事件(=百済が任那割譲を倭国連合に要求して、倭国連合がそれを認めざるを得なかった事件)」の解説となっている。

 前回と同様、今回の話も旧盤には存在せず、今回わざわざつけ加えたものである。 
 既におわかりかもしれないが、日本書紀の内容はかなり多くの部分が朝鮮半島関連となっており、この時代の歴史や国のあり方を考えるには、朝鮮半島との関係の歴史を前提知識としてちゃんと知っておく必要があるとの判断による。

 そんなわけで、小説というよりは歴史説明の話が続いてしまうが、今回取り扱う「任那4県割譲事件」は、日本と朝鮮の関係などを考えるうえで、重要な外せないエピソードであるし、それを入れ込むにはここしかなかったということで、お付き合い願いたい。




第二次朝鮮出兵 その⑥ 百済との外交交渉(601年4月)

 一方で、坂本糠手(さかもとのあらて)の方は難儀していた。

 百済・武王は、今回の作戦が成功した場合には、任那の支配権全部を百済に渡すように要求してきた。だがそれは半島地域の安定と任那の復興を理念とする国連としては、絶対に受け入れられないものであった。

 

 ここで知っておかなければならないのは、これより90年前にあった「任那4県割譲事件」というものである。

 概要を話すと、西暦512年に、百済が国連に対して、任那(全部でおそらく10県ほど)のうちの4県を百済領土に編入することを認めるように要求してきて、国連がそれを認めてしまった、というものである。

 

 この背景を説明すると、このころの百済は、高句麗に攻められて首都を陥とされる(475年)など亡国の危機にあったところから、何とか復興を果たしてきたところであり、また高句麗への対抗上、倭国連合と新羅も百済を応援しているという国際情勢であった。

 

 ただ、倭国内では506年にヤマト王国の大王位をめぐる大混乱が発生してしまい、この要求があったときには朝鮮半島にかまうことができなくなった。それに乗じて百済が露骨に領土を要求してきた、というのがあらましである。

 現代の感覚から言えば、倭国連合の援助で復興しておきながら、倭国連合の力が衰えるとそこから領土をたかろうとする百済の姿勢ははっきりいってどうかと思う。ちなみに日本書紀の中にも、「百済は信用できない国だ」みたいな発言が記されており、当時の日本人も同じように感じていたようである。

 

 だが、当時の人々がそう思っていたとしても、当時の国連としては百済の要求を認めざるを得なかった。上述の通りで倭国内の混乱が大きくて(内戦状態だったという説もあるほどである)朝鮮半島への国連軍派兵は全く無理であったし、百済の要求を拒否すれば、百済は新羅とともに力づくで任那地域を占領するつもりなのは目に見えていた。そうすれば国連から百済・新羅両国の離反となるし、また任那地区の全喪失となる。それよりはまだ、国連が百済の行動を承認した、ということにした方がいい。そういう判断であった。

 

 そして、この国連の判断は後に禍根を残す。大国が小国を力づくで併呑することを国連が認めたり取引材料に使ったりすれば、国連の存在意義がなくなってしまい、各国からの支持も信頼も失ってしまうのである。

 この後、任那地区では、国連に対する失望感が広がり、国連の求心力が急激に減退した。一方で百済は前述の国連の譲歩に対して感謝するどころか、「ゴマの油と倭国は絞れば絞るほどでるものなり」と認識して増長し、勝手な振る舞いをするようになる(まあ当然の結果ではあるが)。新羅についても同様で書くまでもない。

こうして、これ以降、任那地区の国連統治の崩壊が加速していき、やがて562年の任那地区滅亡へといたる。

 

 後知恵になることを承知で書けば、このときの百済の要求を国連は拒絶すべきであっただろう。それにより、いったんは任那は滅ぼされてしまうだろうが、国連としての大義名分と信頼は失われないので、後年に国連が力を取り戻した時に復興させることもできたであろう。

 

 なお、このきっかけとなった512年の「任那4県割譲事件」の際に、倭国連合を統率していたのが大連の大伴金村(おおとものかなむら)という人物であったが、これを機に求心力を失い、これが大伴氏凋落へとつながっていく。

 

 話を602年に戻す。

 このような過去のいきさつもあって、百済との交渉使であった坂本糠手(さかもとのあらて)は、百済・武王の要求をいっさい拒絶した。翌月には大伴咋(おおとものくい)が高句麗から百済に移動してきて合流したが、大伴咋も当然ながら任那割譲に断固として反対した。

 百済との交渉が長引く中、坂本糠手・大伴咋は、斑鳩にも使者を出して、経過報告をするとともに太子の指示を仰いだが、太子の判断もまた、「断固拒否せよ。どうしてもというなら倭国連合軍がお相手すると言え」という、これまた強硬なものであった。

 

 (続く)

 

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