本業の会社員の方で転勤があって、この1か月半は引っ越し作業に追われていました。先週にようやく引っ越しは終わりましたが、まだ荷解きが終わっておらず、本とか資料とかがどの段ボールに入っているかよくわからない状態です。
とはいえ、私の方も書きたい気持ちが溜まっているし、だいたいのストーリーはすでに頭の中にあるので、あえて資料を開封せずにネットだけで参照情報を集めながら、このままの勢いで書いてしまいます。
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<関連史実>
600年2月 倭国が新羅に出兵し、任那復興を認めさせた。←前章
この年、隋で皇太子廃嫡 ← 本章①:隋政変
(秋?)新羅が背反 ← 本章②:境部摩利勢解任
5月、百済・武王即位 ← 本章③:三国同盟
601年2月 斑鳩宮建設開始 ← 本章④:斑鳩宮建設開始
3月 高句麗と百済に使者を遣わせた ← 本章⑤:高句麗との外交交渉
← 本章⑥:百済との外交交渉
9月 新羅からスパイが来たので捕まえた← 本章⑦:間諜(今回の話)
11月 新羅攻略の作戦会議を開いた
602年2月 来目皇子を新羅征討の総大将として、2万5千の兵を預けた。
4月 筑紫まで進出し、船舶と兵糧を集めた。
6月 百済から使者が帰国した。
8月 百済が新羅に侵攻開始
(後略)
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今回は百済と倭国の交渉の最中に、新羅のスパイが倭国に侵入して来て捕まった(601年9月)、という記事をもとにした話です。
事前の構想では、スパイの話は数行であっさりと終わらせて、その後の作戦決定の記事(11月)と、それに基づいて尾張氏が東海兵を率いて斑鳩に出張する話(創作)まで書くつもりでしたが、描き始めてみるとスパイの話だけで1700字行ってしまって、1話分になってしまって、自分でもびっくりです。
引っ越しをしていた最近1カ月ほど(2025年10~11月)は、スパイ防止法や高市首相の答弁が世の中の話題になっているので、引っ越し作業をしながらも東アジアの国際情勢について自分でもいろいろ思うところがあったのかもしれません。
ということで、本文をどうぞ。
601年夏、坂本糠手(さかもとのあらて)、大伴咋(おおとものくい)らの百済での交渉はまだ続いていた。
交渉が難航したため、本国へも何回か経過を伝え指示をあおぐ使者を出さざるを得なかったが、そうすると1ヶ月以上待つことになる。それも時間がかかっている要因の一つでもあった。
このような軍事作戦の交渉は秘密裏にやるべきものであり、当然ながら使者の2人もそのようにして極力目立たないようにしていた。だが、このときは時間がかかりすぎた。数か月すると百済の宮廷内でも「倭国の使者が来て、なにやらずっと滞在して交渉しているらしい」という噂が広まっていた。
秋になると、新羅の真平王のもとにも、「倭国の使者が百済に長期滞在中」との情報が入った。倭国本国とのやりとりも何回か行っているらしい。それだけ重要な外交交渉をしているということである。聞いた真平王は、なるほど、と思った。
状況から言えば「百済と倭国、そしておそらく高句麗も加わって共同作戦をしようとしている」ということだろう。だとしたら、どのようなことが話し合われているか、いや、どのようなことで揉めて長引いているのだろうか、、、まあそれもだいたいは想像つくのだが、確実にするために、真平王は百済・倭国に向けて大掛かりな諜報活動を仕掛けた。
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日本書紀にいう
601年9月8日、新羅の間諜のカマタが対馬に来た。それを捕らえて朝廷に送った。そして上野国に流した。
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1ヶ月もすると真平王のもとにさまざまな情報が集まってきた。
その中でも衝撃的であったのは、情報そのものよりも、倭国に向かわせた間諜が、入口の対馬で捕まったということであった。
半島や中国では東海の島々に住む者たちを総称して倭国(わこく)と呼んでいるが、実態は各地に数多の王国がバラバラに存在しているのを、中心のヤマト王国が盟主としてゆるやかにまとめているだけであった。だから、これまでヤマト王国が、新羅からの間諜のとりしまりや交易制限(軍需物資など)を加盟国に指示しても、あまり守られず、間諜も入りたい放題だった。
それが今回は、倭国に入る水際で、まだ何もする前に捕らえられたのである。これは2つのことを表している。一つは対馬のような辺境でもヤマト王国の支配と統制が強まったということ、もう一つは新羅が間諜を出すことを倭国があらかじめ予想し警戒していた、ということである。ひょっとしたら倭国の間諜網が新羅にできている可能性も疑わなければなるまい。
いずれにせよ、「倭国は強化されている」、という事実を認めざるを得ないだろう。
もっとも間諜の報告がなくとも、倭国から来る交易船の数や交易品の量・種類・価格などを調べれば、倭国はまだ船や軍需物資の集積を始めてないことがすぐわかった。倭国としても、今の交渉がすぐにはまとまらず、今年中の出兵は無理だと考えているのであろう。
一方で百済から得られた情報は、「三国が軍事作戦の負担割合や戦後の分け前で揉めている」というものだった。予想通りであり、特段の驚きはない。
ただ面白かったのは、百済が「先の戦で新羅が任那6郡をあっさり返還したのは、倭国軍の背後に百済軍が控えていたためである。だから6郡のうち2郡は、その時点で百済に所属すべきものだったのだ」と百済が主張しているらしいことであった。
軍事的に言えばまさに百済が主張するとおりである。真平王自身がそのときにそう判断したのだから間違いない。倭国だって頭ではそれは理解できるだろう。
だが倭国の立場で言えば、その時のケンカに参加せず、黙って後ろで見ていただけの者が、ケンカの後で戦利品の分け前を要求してきても、感情的には容認しがたいだろう。あのときに百済が少しの部隊だけでもいいから参加していれば、違っていたかもしれないが・・・
この調子では、三国からの攻撃は早くとも来年の夏以降になりそうである。新羅にとっては防衛の準備にたっぷりと時間をかけられてありがたいことである。
結局はあのときに仕掛けた二虎競食の計が効いていたということになる。いや、倭王も計を仕掛けられたことには気づいていたようだが、気づいても防げないのが人の性というものだろう。
真平王が思わずつぶやく。
「同盟というものは、勝った後で破綻するものなのだな。あのとき、我々が気前よく負けてやった時点で、今回の百済と倭国の敗北は決まっていたということか。」
周囲が、はあ、と怪訝そうな表情をするなかで、一人だけクスッと笑ったものがいた。あの計を提案した臣であった。
補足・解説
新羅の間諜について
日本書紀には新羅の間諜に書いて書かれた記事が2つある。
一つは今回の記事であるが、もう一つは668年のものである。
その内容は、668年に一人の僧が、熱田神宮(in名古屋)にあった天叢雲剣(あまのむらくものつるき、別名、草薙剣)を盗んで、新羅に向かって逃げたが、途中で暴風雨に遭って日本に戻ってきてしまって失敗した、というものである。(はっきりと新羅のスパイと書かれてはいないが、行動からいってその可能性が高いだろう)
『尾張国熱田太神宮縁記』という資料では、この部分がさらに詳しく書かれている。
「道行という新羅僧が、草薙剣を盗んで本国に渡ろうとしたが、一度目は神剣が勝手に熱田神宮に戻ってしまった。再び盗んで摂津国より出港したが、海難にあって難波に漂着した(筆者注:まったく進んでいない、というか出港した直後に難破したらしい)。道行は神剣を投げ捨てて逃亡を図ったが(筆者注:ということは、日本側もようやく盗難に気づいて神剣の行方を捜索していて、港も見張られていたということか。ということは、あえて嵐の日にすきをついて出港したのかもしれない)、神剣が身から離れず、しかたなく自首して死罪となった。」
この資料は後の世(鎌倉時代)に書かれたものであり、創作が含まれているかもしれないが、日本書紀にはない1度目の失敗も書かれているので、そのような話が熱田神宮に伝わっていたのかもしれない。
ここでわかるのは、668年になって中央集権が進んだ時代でも、日本への入国・出国が文字通りにフリーパスだったということである。その後の平安時代というならともかく、668年といえば、白村江の戦い(660年、唐・新羅連合と、倭国・百済連合が戦った)の直後であり、その後665年に和平が成立したとはいえ、平和ボケにはなるのは早すぎるのに、である。
中国みたいな城塞都市では、かなりの古代から(少なくとも春秋戦国時代には)門のところに門番がいて、あやしい人物の出入りを監視しているのが常識なのだが、日本という国は、そういう警戒心がとにかく抜けているのが特徴なのである。
そういうことを踏まえると、逆に601年のときにスパイを捕まえられたことがびっくりなのである。しかも入国時にである。
これが「倭国内でいろいろあやしい動きをしていた」とか「神剣を盗んで逃亡しようとした」とかいう者を国内で捕まえたのならまだわかる。だが入国時に捕まえたというなら、行き来する船の荷物や乗客をすべてチェックしていたのだろうか?。そうだとしても、スパイの側も当然、交易船の船員とか、親戚に会いに行く者とかを装うだろうから(注:日羅の記事で分かる通り、このころは半島から倭国に移住したり、逆に半島に移住したりする者も多かった)、それをどうやって見抜いたのかだろうか?
私が歴史を勉強したり調査分析したりするときに、本小説のように、いったん小説にしてみることを重視しているのは、まさにその点である。
新羅のスパイを対馬で捕まえるシーンを小説化しようとすると、
〇倭国連合の出張組織が対馬に設けられて、国境の出入りを厳しくチェックしていた
(少なくとも数十人は駐在していて、交替制ということになるだろう)
〇新羅がスパイを送ってくることを予想して警戒態勢にあった(おそらく事前に情報を得たのだろう)
みたいな設定を考えざるを得なくなる。そうすると、このときが他の時代と違って、異様に厳しい統制と警戒態勢にあったんだ、ということに気づかされる。
まとめると、「新羅のスパイが対馬に来たので捕まえた」という一文だけから、これだけのことがわかるのが小説化ということである。
なお、実際の小説化にあたっては、大取物のシーンをいきいきと長々と書いてもあまり意味がなさそうなので、上のことに真平王が気づいて驚愕した、ということに簡潔にまとめておいたのは、本文のとおり。