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<関連史実>
600年2月 倭国が新羅に出兵し、任那復興を認めさせた。←前章
この年、隋で皇太子廃嫡 ← 本章①:隋政変
(秋?)新羅が背反 ← 本章②:境部摩利勢解任
5月、百済・武王即位 ← 本章③:三国同盟
601年2月 斑鳩宮建設開始 ← 本章④:斑鳩宮建設開始
3月 高句麗と百済に使者を遣わせた ← 本章⑤:高句麗との外交交渉
← 本章⑥:百済との外交交渉
9月 新羅からスパイが来たので捕まえた← 本章⑦:間諜
11月 新羅攻略の作戦会議を開いた
602年2月 来目皇子を新羅征討の総大将として、2万5千の兵を預けた。
4月 筑紫まで進出し、船舶と兵糧を集めた。
6月 百済から使者が帰国した。 ←本章⑧:開戦前夜(今回の話)
8月 百済が新羅に侵攻開始
(後略)
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今回は601年11月から602年6月までの、記事4つ分を一気にカバーしてすすめる。
ようやく三国共同作戦の内容が決まり、それに向けて各国が戦争準備を開始しているところである。
これまでの600年から601年9月までの記事は、過去の因縁や当時の国内状況などを踏まえながら、「なぜそんなことをしたのか、そんなことになったのか」を解説しなければならなかったので、なかなかすすまなかったのであるが、601年11月にようやく作戦概要が決まってからは、戦争に向けて物事が着々と進んでいく状況になるので、「なぜそんなことをしたのか」という理由も明確であるがゆえに解説も少なくて済み、その分一気に記事を進められることになった。
なお、予定していた「尾張氏が東海兵を率いて斑鳩まで行軍する話」は、次回にすることにした。理由は、作戦概要が決まって各国で戦争に向けた流れが加速していく状況を一気に書いてしまいたかったからである。
それでは本編をどうぞ。
<作戦決定>
601年11月、三国共同作戦の内容がようやく以下のように決定した。
① 来年(602年)春、倭国が大軍を筑紫に駐屯させ、新羅に圧力をかけ、兵を動員させる
②・秋、新羅が疲れたところを、百済が大軍をもって新羅に攻め込み対峙する
③・新羅が身動きがとれないところを、さらに高句麗が北から攻めて攪乱する。
④・新羅が混乱したところで、百済と倭国が総攻撃を加える。
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日本書紀にいう
601年11月、新羅を攻めることを謀った。
注:倭国からの使者は三月に出立しているので、十一月にいきなり謀ったわけではなく、ずっと交渉をしていたのが十一月にようやく決まったということだろう。
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<厩戸了解>
12月、大伴咋からの使者が斑鳩にて報告を行った。その報告書に目を通しながら厩戸が言った。
「大臣よ、どうであろうか?」
「作戦としては上出来かと思います。」
「そうか。ところで大伴咋はどうして帰って来ないのだ。」
それに対し咋の使者が答えた。
「それが、武王に『細部の調整と、倭国との連絡と相談に必要だから』と、強く要請されたため、もうしばらく百済に留まることになりました。」
「ほう・・・武王め、なかなかやるではないか。」
武王がそこまでやるとは、厩戸にとって意外であった。やられたという悔しさよりも、武王の執念を感じ、あきれる思いがした。それでも厩戸はすぐ気を取り直し、遠征の準備にとりかかるよう左右に命じた。
<出兵と大伴喰の帰国>
翌602年2月、来目皇子を大将軍とする2万5千の遠征軍が編成された。さらに予備軍として尾張栗原、秦河勝らが率いる三千が斑鳩に配置された。倭国の国力からして限界までの動員であった。
4月、遠征軍は筑紫に到着し、そこに本拠を定め、渡海のための船舶と兵糧を集めた。倭国の全力の出兵を確認した百済・武王は大伴咋の帰国を許可した。
6月、大伴咋の帰国を確認した来目皇子は、病気と称して軍を停めた。
(急ぐ必要はない。ここに我々が駐屯するだけで、十分に新羅に対しての圧力となる。あとは百済と疲弊した新羅とに争わせて、我々は漁夫の利を得ればよい。)
すでに百済軍も集結中という。来目皇子は、はやる気持ちを抑えながら、対岸に火事がおこるのを待った。
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日本書紀にいう
602年春二月一日、来目皇子を新羅攻略の将軍とした。多くの神職および国造、伴造らと軍兵二万五千を授けられた。
夏四月一日、将軍来目皇子は筑紫に赴いた。さらに進んで嶋郡に駐屯し、船舶を集めて兵糧を運んだ。
六月三日、大伴連咋、坂本臣糠手が、共に百済から帰った。このとき来目皇子は病にかかり、征討の役を果たせなくなった。
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<新羅の戦争準備>
新羅でも戦争準備がすすんでいた。前回に説明したとおり、百済を中心に三国が侵攻準備中との情報は、早いうちから新羅にもたらされていたし、十分に予想していたことでもあった。
602年夏、真平王は新羅軍の主だった将を参集し、戦争前の最後の作戦会議を行った。
「百済は全軍四万と推測されます。進攻ルートや軍の編成、司令官なども特定済みです。これに対しては国境の城を基点に防備を固めれば簡単に撃退できるでしょう。高句麗については、隋に要請して背後から牽制してもらえば、それほど思い切った行動はとれなくなることでしょう。」
「問題は倭国の動きです。上陸が予想される地点については、現在、砦などの防御施設を構築しているところでありますが、上陸地点の絞り込みができないため多数の地点で進めねばならず、財政的にも労働力的にも負担が大きくなっているところです。」
「そうだな」、と真平王が応える。
水軍を相手にするときのやっかいなところであった。陸上ならば、山川などの地形によって進攻ルートは意外と限られている。そしていったん進攻を始めると、後から進攻ルートや時期を変更することは難しくなる。だが海上は移動を制限するものがなく、天候さえ許せば、新羅側の防衛状況を見ながら、進攻ルートや時期を自在に変更できるのである。さらに、倭国での情報統制が今までになく厳しくなっていることが、倭国軍の動きをさらに読みづらくさせていた。
「まあ、賢明な倭王のことだ。さっさと百済・高句麗を撃退しておけば、あえて侵攻してくることはないだろうが、念のためということで、無理のない範囲ですすめておけ。」
新羅には真平王が秘かに心血を注いで作り上げた騎兵隊があった。選び抜かれた一騎当千の専門軍人によって構成され、山中すらものともせずに行軍することができた。
ちなみにこの時代は、騎兵隊を編成するということは一大事業であった。農業国家が騎兵隊を持とうと思ったら、常時、騎兵隊の人員とそれを上回る数の馬を訓練しておかなければならないが、生産力の低い古代に、そのような非生産人口を養うのは財政的にかなりしんどいのである。
例えば日本でも、後に防人という常備軍が北九州に(だけ)置かれることになるが、その規模は三千を超えることはなく、その中身もほとんどが動員された農民であって、騎兵でもなければ、専門軍人でもなかった。それでもなお防人の制を維持するための負担は重く、そのうち実施されなくなってしまうのである。
ともあれ、真平王はこの騎兵隊を竜騎兵と名付け、実戦に投入するその時を楽しみに待っていた。
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新羅本紀にいう
真平王二十四年(602)、使者として大奈麻(冠位)の上軍(人名)を派遣し、隋に行って特産物を進貢させた。
注:記事には「特産物を進貢させた」としか書いていないが、大戦直前の遣使だから当然、その話もするだろうし、隋にとって目障りな高句麗に対して隋が牽制をしかけることも合意することはたやすかったであろう。
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