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日本書紀にいう。
崇峻四年(591)十一月、紀男麻呂宿禰、巨瀬猿臣、大伴噛連、葛城烏奈良臣を大将軍に任じ、(中略)二万余の軍を従えて筑紫に出兵した。
吉士金を新羅に遣わし、吉士木蓮子を任那に遣わせて任那のことを問わせた。
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<任那問題>
ここで、出兵によって崇峻が解決しようとしていたもう一つの問題・任那問題について説明しておきたい。
西日本地域の安全保障を担う日本国連には、一応、朝鮮半島の国々(高句麗・百済・新羅)も加盟していた。そのほうが自国が攻められて窮地に陥った時などに有利になるためである。
これらの国々は日本に所属するという意識は少なく、「日本国連をうまく利用してやろう」という思惑によるものであった。
国連本部があるヤマトから半島は遠すぎたため、半島南端部の任那地方には国連の停戦監視組織と少数の国連軍があり、停戦の監視を担っていた。
他の地域の小国家の統合が進み、高句麗・百済・新羅の3国にまとまっていく中で、任那地域は監視が強かったために統合が進まず、多数の小国家が併存している状態で残り、国連直轄地域のようになっていた。
6世紀後半になると、百済・新羅は、勝手に任那の小国家のいくつかを武力制圧することが相次いだ。対する西日本国家は、この時期、大乱や疫病で疲弊しており、なかなか国連軍を派遣することができなかった。
崇峻が北九州出兵にこだわったのは、このような背景も存在していたのであった。
<出兵>
「出兵の準備状況はどうか?」
2~3ヶ月の間、崇峻はそればかりを気にしていた。
秋が終わり冬が深まったころ、各国・各氏族の兵が集結してきた。その数は約二万三千。
中でも紀氏、巨瀬氏といった、蘇我馬子に親しいはずのヤマト王国の有力豪族が、命令を無視せずに、きちんと兵を連れてきたことがうれしかった。
「これで馬子の勢力を割ることができるな。」
崇峻は集まった兵を眺めながらほくそ笑んだ。
軍が集結を終えたのを見計らって、崇峻は将軍達に命じた。
「筑紫まで進出し、農地の回復や開墾を行いながら、次の指令を待て。」
続いて半島問題に詳しい吉士氏の者を新羅に遣わせて、任那地域の占領地から撤退するように要求した。国境に大軍を展開して交渉を有利にすすめる典型的な圧力外交である。
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日本書紀にいう。(再掲)
崇峻四年(591)十一月、紀男麻呂宿禰、巨瀬猿臣、大伴噛連、葛城烏奈良臣を大将軍に任じ、(中略)二万余の軍を従えて筑紫に出兵した。
吉士金を新羅に遣わし、吉士木蓮子を任那に遣わせて任那のことを問わせた。
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<新羅・真平王の対応>
この時の新羅の王は真平王といった。新羅紀には沈着・剛毅にして明敏・活達であったと最高級の評価にて記されている。
その真平王は対岸に居座り続ける国連軍を見ても冷静であった。日本の各国は数年前の疫病の被害が甚大であり、北九州に軍を駐屯させるだけでもしんどいはず。どうせ春になればひきあげるだろうと思い、新たに城を建造して防衛を強化しつつ、外交の方はのらりくらりと言い逃れして時を稼ぎ続けた。
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新羅本紀にいう。
591年7月 南山城を築いた。
593年7月 明活城を改築した。西兄山城を築いた。
(注:3つの城とも新羅の首都がある慶州市周辺にある。外に膨張を続ける新羅がこの時期だけは首都防備を強化する必要に迫られたことを示している。ちなみに真平王の治世54年のなかで、城を築いたり改修したりした記事はこの3つだけである)
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<ヤマトの疲弊>
逆にヤマトの方は疲弊がはなはだしかった。
崇峻の思惑通り、確かに北九州では農地の拡大がすすみ、大量の難民を受け入れ定住させることに成功していたが、そこから税収を増やしたり、兵隊を徴発できるようになるのは、まだ2~3年先である。
一方で働き手とわずかな蓄えを拠出させられた他の地域では、田畑が荒れ、飢え死にするものも現れだした。それでいて新羅からは何の譲歩も得られなかったために、ヤマト王国の群臣や各国の王の不満は高まり、「もう遠征を中止すべきだ」という声も高まってきた。
周囲の目が冷たくなったのを感じた崇峻は、自らの威厳を示すために、ささいな罪を犯した群臣をあえて厳罰に処したりするようになった。それにより、あえて不満を述べる者はいなくなった。
(その⑤「武器庫」につづく)
補足・解説
新羅(しらぎ)古代に朝鮮半島東南部に存在した国。このころ成長著しく、隣の任那地域を併合し、周辺諸国にとって脅威の種となっていた。ところで、”新羅”は本当はシンラと読むらしいが、日本では慣習的にシラギと読まれている。
吉士氏(きしうじ)大和時代に朝鮮外交によくたずさわった氏族。比較的新しい時期の渡来系豪族と考えられる。
任那(みまな)古代の朝鮮半島南端部の地域。任那がどのような存在であったのかは諸説あり、本小説での設定は仮説である。