日本書紀演義・斑鳩炎上(いかるがえんじょう)   作:TKF

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593厩戸摂政就任を書こうとしましたが、当時の政治情勢が複雑だし、関係者も多くて書いても混乱すると思われたので、後まわしにして、さきに厩戸皇子(聖徳太子)の成長について書き進める事にしました。




595-596 厩戸修業時代
595 厩戸修業時代 その① 太子引きこもり


<太子、引きこもり>

「皇太子はどうしたのです?」

厩戸が皇太子となって三年目の夏、ついに推古は馬子にそう尋ねた。

 あれほど本人が望み、周りにも期待されて国連摂政の地位に就任した厩戸が、これといった目立った活躍を見せようとしないのである。

 就任一、二年目はそこそこ働いてはいた。期待されていた国連改革の方は大きな前進はなかったが、いろいろと考えがあるのだろう、と推測して特に催促はしなかった。だが今年に入ってからは、活躍しないどころか朝廷に出仕することもしなくなったのである。

 

 もとより、この時代の国連の業務はそれほど多いわけではない。

 主なものは軍事と外交、それに土木事業であるが、とくに戦争などがなければ毎日出勤しなければならないということはない。

 参考までに、これから四十年ほど後の時代に、

「役人たちが怠けている。これからはチャイムを鳴らして、午前六時出勤、午前十時(午後ではない)以降退出の規定を守らせよう」と、進言する者がいたという記録があるが、つまりは午前10時を待たずに退出する役人が多かったということであり、そのことからも推して知るべしである。

 

 役割分担で言えば、儀式は推古の担当だし、実務については二十年以上勤めてきた馬子の方がよく知っている。

 厩戸に期待されている役割は、毎朝の朝会に出席して議論をとりまとめ、基本方針の形成に関わる、というものであるが、いなければいないで特に困ることもない。

 とはいえ、摂政の地位にある者が全く出仕しないというのはやはり異常である。群臣へのしめしもつかないし、とやかく言うものもあるだろう。

「大臣よ、足労だが、皇太子の様子を見て参れ。」

推古はそう命じた。

 

 馬子にはだいたい予想がついていた。

 いわゆる理想と現実のギャップ――自分の考えていたとおりには現実がすすまなくて落ち込んでしまう――というものであろう。厩戸のように、本人の理想も周りの期待も特に高い者にとっては、なおさらに苦しいはずである。

 そうわかっていても馬子はこれまで何もせずに放っておいた。馬子も国連改革が数年やそこらで成るとは思っていないし、厩戸もまだ若いのだから、あせらずゆっくりと悩み考えてくれればよい。それにこれは、あくまでも厩戸自身が乗り越えるべき問題であるし、厩戸にとってもいい経験になるであろう、そう思っていたからである。

 

 しかし推古に命じられたとなれば行かねばなるまい。それにたまには様子見しておいた方がいいであろう、そう思って馬子は厩戸の館へと向かった。

 

 

 

 予想通り厩戸の顔は暗くやつれていた。体調がすぐれぬ、とも言った。

 馬子は言葉を慎重にした。こういうときに出仕を促したり、責任を問いつめたりすると、かえって落ち込ませてしまうであろう。推古に命じられたことは伏せ、ちょっと近くまで寄ったついでに厩戸の顔も見たくなったから、ということにして、厩戸との会話を続けた。

 

「もう世の中につきあうのがいやになった。」

と、厩戸が言いだしたとき、馬子はやはりそうか、と思ったが、それは表に出さず、ただ

「それはどういうことでしょうか。」

とだけ聞いた。

「人は私に改革の実行をせがむが、いざ自分の懐が傷むとなると猛烈に反対して妨害しようとする。なんと自分勝手で私利私欲にまみれた連中ばかりであろうか。もっと高い志、高尚な精神を持った者はいないのか。私はもうあんな連中のためには働きたくない!」

「なるほど、そういうことですか。」

「私はもう摂政をやめる。陛下にもそう申し上げてくれ。」

「太子のお気持ちはよくわかりました。ですが摂政の職については、推薦した私の方の面子もございますので、いましばらくお留まりくださるわけにはいきませんでしょうか。特に出仕せねばならない、ということではなく、形だけで結構でございますので・・・」

「大臣がそう言うのならばそれに従いましょう。だが、私はもう二度とあんな連中とはつきあうつもりはない、絶対にだ。」

「それで結構でございます。」

 

 馬子は宮殿への道を戻りながら、(太子はしばらく都を離れた方がいいな)と考えた。

 宮殿に帰りつくと馬子は推古に言った。

「太子は、これからの国連のあるべき姿を考えこみすぎて悩んでおられます。ちょうど筑紫での国連事業がもうすぐ終了するところなので、気分転換に筑紫まで視察に行っていただき、そのついでに各地を見て回られて見聞を深めていただくことをすすめられるのがよろしいかと存じます。」

「そうか、そのようにはからいなさい。」

と、あっさり認められて、馬子は少し困った。

まるで左遷のようにとられては困る。それにもう少し厩戸皇子にも情愛みたいなものを示してくれてもよいのに・・・

そう思いつつ、あわてて

「これは単なる物見遊山の旅行ではなく、しかるべき相談役をつけた上での特別研修にしたく存じます。戻られるころには立派な政策構想を携えて来られることでしょう。」

と言い添えた。

 

 自宅に引き上げた馬子はその相談役となるべき人選を考えた。

 太子の相談役ともなれば、相当な知識や思想を持っていなければ務まらない。それに特定の豪族や団体の利益を代表するような者はできるだけ避けたい。

 僧がいい、そう思った。この時代の仏教はあくまでも修養と精神の安定を目指すものであり、世俗の権力との結びつきは少ない。それに学者や研究者という職業がまだ発生していないこの時代においては唯一ともいうべき知識人でもあった。

 このときヤマト朝廷には一人の客人がいた。名は慧慈(えじ)という。この年の五月に高句麗より派遣されてきた高僧であり、馬子もその高潔な人格と高い識見に惹かれていた。馬子はこの慧慈を相談役にすることにした。

 

 翌日、馬子はさっそく厩戸をたずね、上記の件について厩戸に勧めた。厩戸は、なんで?、という顔をしつつも、まあこの機会に有名な伊予の道後温泉を見てみるのもよいか、ぐらいの気持ちで了承した。

 さらに馬子は慧慈を厩戸に紹介し、外交とヤマトの案内をかねて同行してくれるよう頼んだ。

 

 なお参考までにいうと、この時期、高句麗は大国・隋からの侵攻を間近に控えており、何がなんでも倭国との友好関係を構築しておく必要があった。そのような時期に高句麗が自国の文化レベルを疑われるような人物を派遣するはずはない。つまり慧慈は、高句麗王が国運を賭けて、身銭を切る思いで送り込んだ当代屈指の名僧なのである。

 

 もっとも、ここしばらく出仕していなかった厩戸は、そこまでの背景は知らない。ただ旅のつれづれに話相手がつけられた、ぐらいに思っていた。

 

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日本書紀にいう。

 推古三年(595)五月十日、高麗の僧、慧慈が帰化した。皇太子はそれを師とされた。

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(その②「道後温泉にて」に続く)

 

 

 




補足・解説
慧慈 えじ ?~622 7世紀前半の高句麗僧。595年に来日し聖徳太子の師となる。太子とともに日本における仏教振興に尽力した。615年に高句麗に帰国した。

(筆者補足)
 慧慈について、日本書紀は仏教面での活躍を伝えるばかりであるが、来日・帰国した時期から考えて、高句麗王から派遣してもらった外交顧問という面もあると思われる。
 なおこの時期の渡来僧は仏教以外にも、さまざまな知識や技術を伝えている。単なる伝教者ではなく、大使兼お雇い外国人というイメージで見た方がよいであろう。


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