オブスキュラに閉じ込めたい   作:多治見国繁

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第12話 よみがえる希望

 

その後も、私はずっと佐野さんを抱きしめていた。

 

静まり返った工場の奥。

天井の高い空間に、古びた鉄骨が軋む音がわずかに響き、

錆びついた金属の匂いと、夕暮れの風が、わたしたちの間をそっと通り抜けていく。

 

埃と油の匂いが染みついたその場所で、

私たちはまるで世界から切り離されたかのように、ひっそりと寄り添っていた。

 

佐野さんは、小さく震えていた。

震えというより、呼吸のたびに細かく、擦れるように体が揺れていた。

その揺れが、どれだけ深く、どれだけ長く閉じ込められていた記憶に由来するのかを思うと、

私の喉は何度も詰まり、涙がこみ上げてきそうになった。

 

それでも私は、声をかけなかった。

「大丈夫」と言ってしまえば、あまりに軽くなってしまいそうだった。

だからただ、彼女の背中を、そっと撫でた。

一定のリズムで、繰り返し、優しく、壊れないように。

 

願わくば、この手のひらが彼女にとって初めての“安心”になってほしい。

そう思いながら。

 

——あの日の佐野さんは、きっと、こんなふうに誰にも抱きしめてもらえなかった。

 

誰かを信じて、ただ遊んでいた小さな女の子。

褒められたかっただけで、笑っていた。

「可愛いね」「綺麗だね」と言われて、嬉しくなって、もっと笑った。

そして、その笑顔のまま、連れてこられて、服を脱がされて——

自分でも知らないままに、すべてを壊されてしまった。

 

「……佐野さん……」

 

名前を呼んだその瞬間、彼女の指先が、かすかに私のシャツの裾をつかんだ。

震えながら、でも、確かにしがみついてきた。

 

その重みが、胸に痛いほどの感情を流し込んでくる。

 

——私はずっと、佐野さんを「怖い」と思っていた。

 

得体が知れない。表情がない。なにを考えているのかわからない。

でも違った。

わたしはただ、「知らなかった」だけだ。

彼女の背景も、叫びも、過去も、何一つ——知ろうともしなかった。

 

だから私は、そっと目を閉じて呟いた。

 

「……ごめんね……」

 

それは、軽い謝罪の言葉なんかじゃなかった。

彼女の痛みに触れてしまった今、もう私は元には戻れない。

責任を持って寄り添う。

彼女がかつて誰にも届かなかった声を、今度こそ——聞き取ってみせる。

 

私の胸に寄りかかる佐野さんの体は、まだ小刻みに震えていたけれど、

その震えの奥には、どこか、安堵のような温もりも宿り始めていた。

 

夕日が、ゆっくりと工場の窓から差し込み、

二人の影を、長く、細く、床に落としていった。

 

——このまま、ほんの少しでいい。

時間が止まってほしいと思った。

 

それほどまでに、この沈黙は、

いびつで、脆くて、それでも確かに——愛おしいものだった。

 

工場の薄闇の中で、佐野さんの体温がほんの少しだけ温かくなっていた。

それは、たった今まで冷えきっていた心が、ようやく少しずつ人の温もりに触れた証のようだった。

 

私の腕の中で、彼女がぽつりと呟く。

 

「……私が……押し付けただけ……」

 

その声はかすれていて、耳を澄まさなければ掻き消えてしまいそうだった。

でも、言葉のひとつひとつが確かに重たく、心の奥に沈んでいく。

 

「……勝手に……星野さんに、話して……」

「……こんなこと、聞かせるつもりじゃなかった……」

 

肩が、また小さく震えた。

でも、それは寒さや恐怖というより——自分への戸惑い、そして後悔のように感じられた。

 

私は何も言えなかった。

「いいんだよ」なんて軽々しく言えるはずがない。

「私は平気」だなんて、今の佐野さんの痛みを前にして口にする資格は、きっと私にはなかった。

 

だから私は、ただ彼女の背中を抱く腕に、ほんの少しだけ力を込めた。

 

——それだけでも、何かが伝わっていてほしい。

 

沈黙の中、佐野さんがそっと顔を上げた。

その瞳が、夕暮れの差し込む薄明かりの中でわずかに揺れている。

深い夜の湖のような目。静かで、冷たくて、それでも奥には、震える決意が宿っていた。

 

「……お願いがあるの……」

 

佐野さんは、小さな声で言った。

 

私は息を詰めたまま、彼女の言葉を待った。

 

「……私に……上書きしてほしいの……」

 

上書き。

その言葉の意味を、私はすぐには理解できなかった。

でも、佐野さんはゆっくりと続きを紡いだ。

 

「……あのときの記憶が……そのまま私の中に残ってる……」

「……ずっと、あの人の手の跡が……声が……肌に、心に……染みついてる……」

 

彼女の呼吸が乱れるたびに、声がかすれていく。

でも、それでも彼女はやめなかった。

吐き出さなければならないものが、きっと、彼女の中に山ほど積もっている。

 

「……でも……」

 

一瞬、言葉が途切れた。

そのあとに続いた声は、わずかに熱を帯びていた。

 

「……星野さんなら……少しずつでも、消せる気がする……」

 

「……あのときと違って……ちゃんと優しくて……ちゃんと“私”を見てくれるから……」

 

「……私の中にある、汚いものを……塗り替えてほしいの……」

 

塗り替える——

それは彼女が望む“救済”の形なのだと、私はようやく理解した。

自分の手で拭い去ることもできず、ただひたすらに残されてしまった「記憶」を、

誰かの手で、そっと別の色に塗り替えてほしいと。

 

佐野さんは、言い終えると私の胸にそっと顔をうずめた。

 

細い肩が、かすかにすくむ。

私は、震える背中をもう一度強く抱きしめた。

 

「……うん」

 

ようやく搾り出すように出た声は、思っていたよりも小さかった。

でも、それは私の決意のすべてだった。

 

どんな意味を持つ言葉だったとしても、

全部を理解しきれなかったとしても——

私は、もう目を逸らさない。

 

この人の傷も、罪悪感も、過去の闇も。

全部、受け止めるって決めた。

 

たとえその重さに潰されそうになっても。

たとえ正解がわからなくても。

 

私は、逃げずにここにいる。

 

それが、佐野さんが求めた唯一の「居場所」になるのなら——。

 

工場の奥、夕暮れに沈んでいく世界の中で。

 

私はまだ、佐野さんを抱きしめていた。

 

さっきまで夕焼けだった空は、すでに色を失いかけていて、窓の隙間から入り込む光も、赤みを帯びた灰色に変わっていた。

崩れかけた梁の影が、私たちのまわりに静かに落ちていて、この世界からすっかり取り残されたような、そんな気がしていた。

 

佐野さんは、ずっと小さく震えていた。

背中に当たる骨が細くて、かすかに感じる呼吸があまりに頼りなくて、今にも壊れてしまいそうだった。

まるで、ずっと昔から誰にも抱きしめられたことがなかったみたいに。

 

私の腕の中で、佐野さんはそっと呟いた。

 

「……私が……押し付けただけ……」

 

かすれた声だった。

 

「……勝手に……星野さんに……話して……こんなこと……聞かせるつもりじゃ……なかったのに……」

 

ぽつり、ぽつりと落とされる言葉には、感情があまりに削がれていて、それがかえって切なかった。

涙が溢れるでもなく、嗚咽を漏らすわけでもない。ただ、沈黙の中に長い時間を封じ込めてきた人の声だった。

 

私は、何も言わず、ただ彼女の背中をなで続ける。

言葉にすれば壊してしまいそうで、声に出すことさえ憚られた。

 

だけど、佐野さんはほんの少しだけ顔を上げて、私の胸元に視線を落とした。

 

その目は、まだ無表情だった。

 

でも、ほんの一滴だけ、濡れていた。

 

「……お願いがあるの……」

 

佐野さんの声が、ふわりと宙に溶けていくように響いた。

 

「……私に……“上書き”してほしいの……」

 

私は、息を詰めた。

 

「……あの時の記憶が……私の中にずっと残ってる……」

 

「何年経っても……消えてくれない……あの時の声も、手も、匂いも……」

 

「……ずっと私の中に……染みついてて……」

 

「だから……本当の意味で、生きてる気がしなかった……」

 

佐野さんの細い指が、そっと私の服を掴む。

 

「……でも……星野さんなら……“私”を少しずつでも、書き換えてくれる気がして……」

 

「怖くないふうちゃんで、優しいふうちゃんで……ちゃんと私を見てくれるふうちゃんで……」

 

「だから……私に残ったものを……少しずつでいいから、塗り替えてほしいの……」

 

その瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。

これは、甘えなんかじゃない。これは——救いを求める声だ。

 

やっと言えた、心の奥底からの「たすけて」の言葉だった。

 

「……わたしで……いいの?」

 

そう尋ねると、佐野さんは小さく、でもはっきりとうなずいた。

 

「……うん……」

 

その顔は、まだ笑っていなかった。けれど、もう無表情ではなかった。

涙とも微笑みともつかない、揺れた感情がそこにあった。

 

「……ずっと……一緒にいてくれるの……?」

 

震える声で、もう一度。

 

私は彼女の手を握った。

 

「……もちろん。どんな佐野さんでも、全部……受け止めるよ」

 

「これから一緒に“新しい記憶”作ろう。何年かかってもいい。一つずつ、あたたかくて、優しいものにしていこう」

 

佐野さんの目が、わずかに見開かれた。

 

それから——

 

ほんの、ほんの少しだけ。

 

その口元が、震えるように緩んだ。

 

涙ではなかった。笑顔でもなかった。

 

でも、確かにその表情には「希望」が宿っていた。

 

私たちは、しばらくの間、何も言わず、そこにいた。

 

静かな工場の中で、夕闇が落ちる。

 

この時間は、きっと一生忘れない。

 

——私は今、彼女の「闇」に触れた。

でも同時に、そこにかすかに差し込む光を、見つけた気がした。

 

そしてそれは、私自身にとっても、戻れない夏の始まりだった。

 

でも——

 

私は、心の奥で小さく呟いた。

 

本当にこれで、いいの……?

このまま、佐野さんの手を取り続けてもいいの……?

 

頭では分かっていた。

彼女がどれだけ傷ついてきたか。

どれほど助けを求めていたか。

あのとき、私の腕の中で小さく震えていた身体が、そのすべてを語っていた。

 

それでも——迷いは消えなかった。

 

理由は、ひとつだった。

 

——梨乃。

 

佐野さんの弱さを知ってしまった今、放っておくなんて無理だ。

無理だって、思いたい。

あの子の「お願い」が、頭から離れない。

「上書きして」って、あんなふうに願われたら……。

 

それがどんな意味であっても。

どんな覚悟を必要とすることであっても。

私は、見捨てられなかった。

 

あの人をまた孤独の中に押し返すようなこと、できなかった。

 

けれど、その一方で——

どうしても、ある一人の子の顔が、胸の奥を締めつける。

 

「……梨乃……」

 

その名前を思い出すだけで、心臓がきゅうっと痛くなる。

 

あの子は、何も知らない。

私が今、誰のそばにいて、どんな秘密を共有しているのか。

今この瞬間、夕暮れの空の下、どこで何を考えているのかも。

 

——知るはずがない。

 

夏休み前、あれほど楽しそうに笑っていた。

他愛もないことで笑い合って、水着の話をして、お祭りに行こうって決めて。

部屋で一緒にアイスを食べながら、「今年の夏は絶対に楽しくしようね」って、何度も約束した。

 

その“約束”が、いま、私の掌の中で、溶けていく。

 

佐野さんと向き合うということは、梨乃を裏切ることかもしれない。

明確に言葉にしなくても、心のどこかでは気づいている。

——彼女は、私が“変わった”ことを、もう感じ取ってる。

 

目が合ったとき、ほんの少しだけ目を細めたあの表情。

それが何を意味していたのか、私にはもう分かってしまう。

 

きっと梨乃は、こう言う。

 

「ふうちゃんは、やっぱり私より、あの子を選ぶんだね」

 

もし、そう言われたら——私は何て返せばいいの?

 

……返せない。

 

だって、そうなのだから。

私は、今、梨乃じゃなくて、佐野さんを選ぼうとしている。

過去を背負い、声も出せずに孤独に沈んできた、佐野さんを。

 

でも、怖い。

梨乃に嫌われるのが。

私の“普通の夏”が、もう戻ってこないのが。

 

梨乃の笑顔が、遠ざかっていく未来が。

 

怖いよ……本当に。

 

けれど、それでも。

 

私は、佐野さんの望みを捨てることはできなかった。

 

無理やりでも、ずるくても。

彼女は言った。「助けて」って。

「そばにいて」って。

 

私だけに——あんな風に。

 

あの声を、無視できるわけがなかった。

私がここで手を離せば、彼女はまた沈んでいく。

暗い底へ、二度と誰の目にも届かない場所へ。

 

それだけは、絶対に嫌だった。

 

だから私は、心の中で、もう一度だけ確かめた。

佐野さんの手のぬくもり。

あの夜の、震える声。

そして、彼女の瞳の奥で、ほんの一瞬だけ灯った「希望」。

 

——それら全部が、私をここに縛りつけている。

 

私は、佐野さんのそばにいると決めた。

 

たとえ、それが誰かを傷つけることになっても。

たとえ、梨乃の心を裏切る結果になったとしても。

 

——私は、あの子をひとりにしない。

 

この手を離さない。

 

涙を浮かべて訴えたあの声を、私は一生、忘れない。

 

もう逃げない。

もう、見て見ぬふりはしない。

 

——私は、佐野衣織の「救い」になる。

 

たとえその代償が、今までの私の全部だったとしても。

 

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