オブスキュラに閉じ込めたい   作:多治見国繁

14 / 16
第13話 今はただ隣にいたい

その後もしばらく、私は佐野さんと一緒にいた。

 

錆びついた鉄骨の匂い。

ほこりが積もったコンクリートの床。

打ち捨てられた機械たちが、静かにその命を終えたまま、私たちの周囲に沈黙をまとって佇んでいる。

 

外の空はじわじわと色を失い、茜色が黒に染まり、気がつけば世界は夜の帳に包まれ始めていた。

けれど私は、その変化にほとんど気づいていなかった。

 

時間の流れが、どこか歪んで感じられた。

 

時計の針が止まってしまったかのような静寂の中で、

私の世界は、たったひとつの“存在”に向かって収束していく。

 

——佐野衣織。

 

今、この場にいるのは、私と彼女だけ。

だからこそ、私は「私」として、彼女と向き合いたかった。

 

梨乃のことは……いまは考えない。

思い浮かべるたびに、胸の奥が痛くなる。

あの子の無垢な笑顔や、手を繋いで歩いた帰り道のことを思い出すたびに、罪悪感のような何かが心に滲む。

 

でも、それをいま真正面から見つめたら、私はきっと立ち止まってしまう。

だから今だけは、それを一度、棚の上にそっと置いておこうと思った。

 

逃げているわけじゃない。

ただ、この瞬間だけは——

この壊れかけた少女のそばにいたい。

 

佐野さんは、私の隣で静かに座っていた。

 

最初に抱きしめたときよりも、少しだけ体の力が抜けている。

けれど、瞳の奥に沈む影は、まだ消えていなかった。

その影ごと、私はまっすぐに見つめていた。

 

何を言えばいいのか、分からなかった。

でも、何か言わずにはいられなかった。

 

言葉にしなければ、この時間がただの沈黙になってしまう気がして。

だから、私はそっと口を開いた。

 

「……佐野さん、私……」

 

声が、工場の空間にかすかに反響する。

その小さな響きが、自分の声とは思えないほどに遠く感じた。

 

「私、本当に……佐野さんのこと、知りたいって思ってるんだよ」

 

言いながら、心が少しだけ熱くなるのを感じる。

 

「最初は……怖かったよ。

無表情で、何を考えてるか全然分からなくて……

まるで、どこか別の場所から来た人みたいで……」

 

それは、嘘じゃない。

 

あのときの佐野さんは、冷たくて、感情が読めなくて、

どこか“この世界のものじゃない”みたいな不気味さすらあった。

正直言って、怯えていた。

 

けれど——

 

「……でも、今は違う」

 

私は、佐野さんの横顔を見つめながら言った。

 

「いまのあなたは、“誰かを求めていた”って……ちゃんと分かるから。

あんなに震えて……傷ついて……

それでも、ずっと一人で耐えてきたんだって」

 

「だから……知りたいの。

あなたがどんなふうに生きてきたのか。

嘘も演技もない、ほんとの“佐野衣織”を——私だけに、教えてほしいの」

 

言葉の途中で、思わず声が掠れた。

 

それでも目を逸らさずに、彼女の顔を見つめる。

逃げないと決めたから。

 

佐野さんは、何も言わなかった。

ただ、沈黙の中で、私の言葉を全て受け止めてくれている気がした。

 

鉄骨の隙間をすり抜けた風が、工場の内部に入り込み、

私の頬をかすかに撫でていく。

 

夜の空気は、少しずつ涼しくなっていく。

それでも、彼女の隣にいるこの場所は、どこよりも温かかった。

 

「……お願い。教えてほしい。あなたのこと。

……あなたのすべてを、私だけに」

 

私の声は、願いだった。

そして、祈りだった。

 

それが、彼女の傷に届くようにと、そっと祈った。

 

その瞬間、佐野さんの目が、わずかに揺れた。

それは、風のせいじゃなかった。

 

私は、確かにその目の奥にある“感情”を見た気がした。

 

——彼女は、確かにこの言葉を、ずっと、誰かに言ってもらいたかったんだ。

 

心の奥で、そう確信した。

 

たとえ、言葉に出さなくても、

あの小さく震える肩が、今のすべてを物語っていた。

 

私はそっと、自分の指先を彼女の手の上に重ねる。

 

佐野さんの手は冷たかった。

でも、その冷たさに、私の温度が少しでも伝わることを信じて——

私は、そっとその手を握った。

 

ふと、胸の奥に、ひとつの疑問が浮かんだ。

 

——そういえば。

 

「……ねえ、佐野さん」

 

私は、声を潜めるようにして、そっと口を開いた。

 

「……どうして……私のメールアドレスとか、電話番号、知ってたの?」

 

問いを口にした瞬間、佐野さんの手がわずかに止まった。

 

ゆっくりとこちらを振り返る。

その瞳は夜の湖のように静かで、深くて、どこか濁りのない冷たさをたたえていた。

 

一拍、二拍、間があく。

佐野さんは何も言わず、ただ私の目を見つめていた。

 

そのまなざしは、返事を探しているようにも、私の“覚悟”を測っているようにも思えた。

 

やがて——

 

「……知りたいの?」

 

囁くような声で、彼女は問い返してきた。

 

問いというよりも、それは確認だった。

 

——お前は、どこまで踏み込むつもりなの?と。

 

その瞬間、背筋にひやりとしたものが走る。

 

直感で分かってしまった。

これは、軽い気持ちで聞いてはいけない種類の問いだった。

 

でも、私は——

 

「……うん。知りたい」

 

しっかりと頷いた。

もう逃げないと決めたから。

知りたいと思ってここまで来たのだから。

 

佐野さんは、まぶたをゆっくりと伏せて、そして——

 

「……聞いただけ、だよ……」

 

「……別に……珍しいことじゃない……」

 

静かにそう言った。

 

——聞いただけ?

 

私は一瞬、理解が追いつかなかった。

でも、すぐにその言葉の裏に潜む“異常さ”に気づく。

 

聞いただけで、電話番号やアドレスが分かる?

 

それって……どういうこと?

 

まさか、学校の成績管理システムに侵入した?

それとも、私のスマホを盗み見た?

あるいは、もっと得体の知れない手段で私を監視していた……?

 

胸の奥がざわつく。

 

「……どうやって?」

 

思わず問い返すと、佐野さんは小さく首を傾げた。

 

「……私のこと……なんだと思ってるの……?」

 

その言葉には、少しだけ呆れたような響きが混じっていた。

 

「……あなたの友達に……教えてって言っただけ……」

 

その一言に、私は思わずまばたきする。

 

「……え?」

 

ぽかんとしたまま、反射的に声が漏れる。

 

あまりにもあっけなくて——拍子抜けした。

 

私の中で膨らんでいた仰々しい妄想。

不法侵入、クラッキング、監視カメラ、GPS盗聴……

それらは全部、一瞬でしぼんでいった。

 

「……梨乃に、聞いたの……?」

 

一応聞いてみると、佐野さんは小さく首を横に振った。

 

「……違う……たぶん、日下部さん……って子だった……」

 

——日下部さん。

 

確かに、クラスメイト。

仲は良い方だし、悪気はないけど、ちょっと口が軽い。

「ふうちゃんってね〜」と何でも話してしまうタイプ。

佐野さんが「アドレス知りたい」と言えば、きっと普通に教えてしまうだろう。

 

……それだけのことだったんだ。

 

「……なーんだ……」

 

私は思わず、小さく笑ってしまった。

 

それは、肩透かしの笑いだった。

けれど、心の奥では——少しだけ、安心していた。

 

「もう……びっくりさせないでよ……」

 

私の声に、佐野さんはほんのわずかに瞬きをしてから、ぽつりと呟いた。

 

「……ごめん」

 

「謝らないで……私が勝手に、怖がってただけだよ」

 

私は微笑みながら言った。

 

そう——少しずつ。

ほんの少しずつだけれど。

 

佐野衣織という存在の輪郭が、

ようやく“人間”として、私の中に形作られていくのを感じていた。

 

ずっと“異質な存在”だと思っていた。

怖くて、近寄りがたくて、何を考えているか分からなくて。

でも、こうして話してみると、案外あっけないくらい「普通」の面も持っている。

 

人との距離感がうまくつかめないだけで——

彼女は、私たちと同じ「女の子」なんだ。

 

それが、なんだか嬉しかった。

 

そして同時に、その“普通さ”を奪った出来事があったことを、改めて胸の中に痛みとして感じた。

 

だからこそ、私は——

 

この子と、もっとちゃんと関わっていきたいと思った。

 

笑わせたい。

泣かせたい。

怒らせたい。

驚かせたい。

 

——“人間”として、生きてるってことを、もっと彼女に思い出させたい。

 

私はそっと、もう一度、佐野さんの手に触れた。

 

その手は、少しだけ温かくなっていた。

 

工場の中は、静かだった。

 

遠くで虫の音が微かに聞こえる。

埃っぽい空気の中に、夏の夜の気配がじわりと沁みていく。

あたりを照らしていた夕焼けの光は、とうに影へと変わり、

今はもう、空全体が夜の帳に包まれていた。

 

窓の隙間から吹き込む風が、薄く、ひやりとしている。

昼間の蒸し暑さは和らぎ、皮膚の表面を撫でるその感触が、

まるで現実感を奪うようだった。

 

どこか、夢の中にいるような気がしていた。

 

時間も空間も、輪郭を失っていく。

いま、ここにあるのは私と——佐野さん。

ただ、それだけだった。

 

そんな静けさの中で、佐野さんがぽつりと口を開いた。

 

「……帰らなくていいの?」

 

その声は、風に乗って届いたように小さくて、でも確かだった。

 

私は、ふと横を見る。

 

佐野さんの顔は、相変わらず感情の読めない無表情だったけれど——

その瞳の奥には、何かを探るような微かな揺らぎがあった。

 

私は少しだけ考えてから、ゆっくりと首を横に振った。

 

「……帰りたくない」

 

その言葉は、私の中から自然と出てきた。

嘘じゃない。

誰かの目を気にした言葉でもない。

心の底から、本当に、まだここにいたいと思っていた。

 

佐野さんは、少し驚いたように瞬きをして、

それから目を伏せ、小さく——けれどはっきりと頷いた。

 

その仕草が、どこか嬉しそうにも見えて、私は胸の奥がふわっと温かくなるのを感じた。

 

それから、ふたりはしばらく無言のまま、工場の床に座り込んでいた。

 

埃っぽく、少しひんやりとしたコンクリートの感触。

その上に、私たちの小さな足跡が並んで残る。

ただそれだけのことが、不思議と心に残っていた。

 

この場所は、佐野さんにとって——

10年前の痛みが深く沈殿した、忘れられない“場所”だった。

 

けれど、今、ここに私がいて、彼女がいて。

ふたりで静かに座って、何も起きない時間をただ過ごしている。

 

そのことが、きっと、意味を持つ。

 

私は願っていた。

この場所に、少しでも優しい記憶を重ねることができたら。

ひとりきりで苦しんでいた佐野さんの“過去”に、

ふたりで分け合う“今”を、そっと上書きできたなら——

 

「……ねえ、佐野さん」

 

私はぽつりと声を落とす。

 

「ここが全部じゃないよ。あなたの人生の記憶が、あの時だけで終わったわけじゃない。今日、こうして一緒にいた時間も、ちゃんと“記憶”だよ」

 

佐野さんはすぐには返事をしなかった。

けれど、その横顔は、どこか遠くを見つめているようで——

それでいて、ほんの少しだけ、表情が柔らかくなっていた。

 

私は、それが見間違いじゃなければいいと願った。

 

そう思った瞬間、私はなにかを残したくなった。

 

ふと、指先で床にそっと線を描く。

埃が指にまとわりつく感触。

ただ一本、何の意味もない直線。

 

隣にいた佐野さんが、それを見ていた。

 

そして——

 

彼女もまた、自分の指先を動かし、私の線に続けるように、別の線を描いた。

 

やがて、それが曲線になり、円になり、何かのかたちになっていく。

 

描いているうちに、ふたりで自然と笑ってしまった。

 

何を描いたかは覚えていない。

意味のある絵ではなかったと思う。

 

でも、それでもよかった。

その行為そのものが、大切だった。

 

傷の記憶が焼きついた場所に、

新しい線を引いていくように——

ふたりで、新しい足跡を残すことができたのだから。

 

この工場は、もう“あの日”だけの場所じゃない。

そう言えるようになるために、ほんの小さな一歩を踏み出した夜だった。

 

そして、私の心にも——

同じように、佐野さんと過ごしたこの時間が、

確かに一つ、優しく刻まれていった。

 

やがて、私たちはそれぞれ家路に着いた。

 

工場を出るころには、空はすっかり夜の色に染まり、街灯が足元を照らしていた。遠くで虫の声がしていて、時折吹く風に夏の夜の匂いが混じっていた。

 

佐野さんとは、特別な言葉は交わさなかった。

でもそれでよかったと思う。

あの静かな時間が、きっと私たちにとっての“会話”だったから。

 

彼女が最後にふっと見せた、あの小さな笑みみたいなもの。

それが、今日の全ての答えだった気がして——私は、それだけを胸にしまい込んだ。

 

自転車を漕いで家に帰るころには、時計の針はもう夜の9時を回っていた。

 

玄関のドアを開けた瞬間——

 

「もう!どこ行ってたのよ、楓花!」

 

お母さんの声が飛んできた。

やっぱり、待ってたんだ。

 

キッチンからは、冷めた味噌汁と煮物の匂い。

テーブルにはラップのかかったおかずが並んでいて、お茶碗もそのまま置かれていた。

 

「ごめんごめん〜!」

 

私は慌てて靴を脱いで、笑いながらリビングに飛び込む。

 

「あのね、友達と話してたら、ちょっと夢中になっちゃって……! 気づいたら真っ暗でさ〜、やばいやばいって思って帰ってきた!」

 

そう言って「あははー」と笑うと、お母さんは少し呆れたようにため息をついた。

 

「もう……せめて一言連絡しなさいって言ってるでしょ。夜なんだから危ないのよ」

 

「ごめんね、今度はちゃんとする!」

 

私はぺこりと頭を下げる。

その仕草に、お母さんは仕方ないわねと首を振りながら、テーブルを指さした。

 

「ほら、晩ご飯。冷めちゃってるけど、温める?」

 

「ううん、自分でやる〜。ありがと!」

 

台所で味噌汁を温めて、お茶を入れて——席についた。

でも、食べながらも、頭の片隅にはまだ佐野さんのことが残っていた。

 

さっきまでいた場所の匂いや空気、彼女の声。

それらが、まだ胸の奥に静かに滲んでいた。

 

ご飯を食べ終えると、お風呂に入って、髪を乾かして、ようやくベッドに倒れ込む。

 

制服のまま、天井を見上げて——

 

ゆっくり目を閉じる。

 

まぶたの裏に浮かぶのは、あの工場の景色だった。

錆びた壁。埃をまとった机。吹き抜ける風の音。

そして、そっと寄り添うようにいた佐野さんの姿。

 

静かだった。

でも、その静けさの中には確かに“あたたかさ”があった。

 

私の心にも、同じように静かなあたたかさが灯っていた。

 

今日、私は佐野さんの中にある痛みに触れた。

それは簡単に抱えられるものじゃない。

だけど——

 

それでもいいと思えた。

私は、あの人のそばにいたいと思った。

 

どこまでも深く、どこまでも複雑な感情が渦巻いているはずなのに——

 

それでも、今の私は、少しだけ前より強くなれた気がした。

 

そっと目を閉じると、ようやく眠気がやってくる。

 

——おやすみ。

 

そう心の中でつぶやきながら、私は、佐野さんの声の余韻を抱いたまま、眠りへと落ちていった。

 

つづく

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。