オブスキュラに閉じ込めたい   作:多治見国繁

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第14話 逃げずに向き合え

その夜、私は夢を見た。

 

佐野さんと一緒に過ごす夏——

 

まるで映画のシーンをつなぎ合わせたみたいに、断片的な光景が次々と目の前に流れていく。

 

誰もいない午後の教室で、机を並べてぼんやりと外を眺めるふたり。

放課後のカフェで、クリームソーダを飲みながらストローで氷をつつく佐野さん。

真夏の陽射しの下、駅前の古本屋を冷やかしながら、思いがけず手に取った詩集の一節を小声で読み合う私たち。

何を観るか散々迷って選んだ洋画を、映画館の一番後ろの席で黙って見つめて——

帰り道のコンビニでアイスを1本だけ買って、交代で一口ずつかじりながら歩いた。

 

どの場面の私も、笑っていた。

佐野さんも、少し照れたように微笑んでいた。

いつものような無表情じゃない。

ちゃんと、あたたかい表情だった。

 

手が少しだけ触れて、それに気づいても、どちらも離さなかった。

声を出さずに笑い合って、ただ隣にいることを確かめるような、そんな夏の日。

 

——でも、どこかがおかしかった。

 

夢の中の景色は、確かに明るくて、穏やかで、優しい。

なのに、胸の奥がじわじわと苦しくなっていく。

何かが足りない。

何かを忘れているような気がする。

 

そして——気づいてしまった。

 

この視点は、私じゃない。

 

この夢の光景は、「私と佐野さん」を誰かが見ている。

第三者の視点。

外から見つめる、少しだけ遠くて、少しだけ冷たい目線。

 

——梨乃だ。

 

そうだ。これは、梨乃の目から見た夢なんだ。

 

どこにもいない。

どこにもいないのに、ちゃんと“見ている”。

 

心の奥がひやりとした。

 

私は——梨乃のことを、避けていた。

 

佐野さんを放っておけない。

そう言い聞かせて、佐野さんとの関係に逃げ込んでいた。

「仕方ない」「放っておけない」

それを理由にして、梨乃の気持ちを、ずっと後回しにしていた。

 

でも、梨乃もまた、私にとって——大切な、唯一の“親友”だった。

 

夏休みが始まる少し前。

「今年の夏は絶対に忘れられない夏にしようね!」って笑いながら、

お祭りに行こう、浴衣を着よう、海に行こう、泊まりがけで遊ぼう——

そんな他愛のない計画を、あの子は真剣に話していた。

 

その約束を、私は……どうするつもりなんだろう。

 

夢の中で私は、黙って佐野さんの隣に立っている。

梨乃の気配が、遠くからずっとそれを見つめている気がする。

声はない。表情もない。

それでも、伝わってくる。

 

——悲しいんだ。

——寂しいんだ。

——気づいてほしいんだ。

 

私はその場から動けなかった。

 

夢なのに、身体が重くて、足が前に出なかった。

 

佐野さんを選んだ。

選ばなきゃいけなかった。

でも、それは同時に、何かを置いてきてしまうことでもあった。

 

私は、ちゃんと向き合わないといけない。

 

佐野さんだけじゃない。

梨乃とも、ちゃんと——

 

この夏をどう過ごすのか。

この夏、誰とどう生きるのか。

誰かの傷に寄り添うということは、誰かを置き去りにすることかもしれない。

 

そんな覚悟も、ちゃんと持たなきゃいけないんだ。

 

私は夢の中で、静かに涙を流していた。

 

その涙が、目覚める直前の頬を、ほんの少しだけ濡らした気がした。

 

目が覚めた。

 

カーテン越しに射し込む夏の光が、ぼんやりとしたままの私を包み込む。

夢の内容はもう輪郭があいまいになっているのに、胸の奥にはまだ、ずっしりとした感情が残っていた。

ひどく、切ない感情。

 

涙が頬に一筋、乾きかけていた。

 

私は静かに指でそれを拭って、ベッドの上で身体を起こす。

 

——そうだ。

 

夢の中で、私は佐野さんと一緒にいた。

笑って、アイスを食べて、ふざけて、笑い合って——でも、どこか違和感があった。

何かが足りなかった。何かが、違った。

 

……梨乃だ。

 

あの夢は、梨乃の目から見た世界だったのかもしれない。

私は、佐野さんとばかり一緒にいて、梨乃のことを後回しにしていた。

それが、どこか悲しくて、遠くて、夢なのに突き刺さるようにリアルだった。

 

私は自分に言い訳していた。

 

——佐野さんを放っておけないから。

——今は、あの子の方が大変だから。

——仕方がないことだと。

 

でも、それって本当に“仕方がない”の?

 

私は、佐野さんと向き合おうとしていた。

そのこと自体は、嘘じゃない。

でも同時に——私は梨乃と向き合うことから逃げていた。

あの子の優しさに甘えて、全部を“あとで”にしてきた。

 

これは、私の悪い癖だ。

大切なことほど、「あとで」「今じゃない」って棚の上に置いてしまう。

 

でももう、それはやめよう。

 

私は静かに呼吸を整え、そっと呟いた。

 

「……よし。絶対、今日話そう」

 

それは、佐野さんの過去を語ることじゃない。

そんなこと、勝手に話してはいけない。

話すべきじゃない。

 

だから、私が話すのは——

 

「私が何を感じて、何を思って、どう変わっていったのか」

「佐野さんとの関係の中で、私がどういう気持ちになったのか」

「そして、今、梨乃のことをどう思ってるのか」

 

それだけでいい。

それだけでも、私の誠意は伝えられるはず。

 

私はゆっくりとベッドを下り、制服を取り出して、鏡の前に立った。

 

目元に少し赤みが残っていたけれど、ちゃんと前を向けている気がした。

 

今日——私は、大切な誰かときちんと向き合う。

 

もう逃げない。

後回しにしない。

 

この夏を、自分の意志で選ぶために。

 

リビングに行くと、今日もまた——

予想通り、お兄ちゃんがニヤニヤした顔でこっちを見ていた。

 

「おっ? おぉ〜? どうした楓花?今日はなんかやけに気合入ってない?ポニテもバッチリ決まってるし、なんか……やけに自信満々って感じ? ってか、うん、普通に可愛いぞ!」

 

箸を持ったまま、椅子にふんぞり返るような姿勢で、わざとらしく目を細めてじっと見てくる。

 

「……は?」

 

思わず口を開けたまま固まってしまう。

 

「いやいやいや、なんかこう……“決意の朝”って雰囲気、出てんのよ。なんかあったの?告白でもするの? ん?ん〜?」

 

「ちっ、違うしっ!ていうか、朝からやめてよ、そういうの!」

 

「ふ〜ん? でも可愛いじゃん。黄色いリボン、いつもよりちょっと高めだよな。絶対気合入ってるでしょ?俺の目はごまかせませんな〜」

 

「うるさいっ!」

 

私はサッと椅子を引いて座り、味噌汁を勢いよくすすった。

でも——頬が、少し熱い。

 

……気づかれてる。やっぱり、分かる人には分かるんだ。

 

お兄ちゃんのからかいは、いつも通りの“日常”のはずだった。

だけど、今日はその軽口の中に、なぜだか少しだけ“優しさ”の色が混ざっているように感じた。

 

「……なんかさ、最近の楓花、いい意味で変わったよなぁ〜」

 

ご飯をかきこみながら、お兄ちゃんがぽつりと呟いた。

 

「楓花ってさ、バカでしょ?なんか何にも考えてないんだろうなぁって思ってたんだ。でもさ、最近の楓花、ずっと悩んでる顔してた。お母さんも俺も、お父さんも……たぶん、みんな気づいてたよ」

 

私は箸を止めた。心臓が、どくんと鳴った。

 

「でもさ、楓花ならきっと、自分で乗り越えるって、どこかで思ってたんだよな。……だから、何も言わなかったんだよ」

 

お兄ちゃんの声は、いつもの調子だった。

軽口を叩くその口調は変わらないのに、不思議と重みがあった。

 

そして——少しだけ真顔になったお兄ちゃんが、私の方をまっすぐに見て言った。

 

「だけどな、楓花。なにも、何でもかんでも抱え込むことはないんだぞ?」

 

一拍置いて、ゆっくりと続ける。

 

「ちゃんと困ったら、俺でもいいし、お母さんでもお父さんでもいいけど……なんでも言ってくれよ。俺たちは家族なんだからさ。力になるからさ」

 

——あぁ、ずるいな。

 

そんなふうに、急に優しいこと言うなんて。

 

言葉が喉の奥でつかえて、返せなかった。

ありがとう、って言いたかったのに、なんだか照れくさくて、顔を上げられなかった。

 

私は、黙ってうなずいた。

 

それでも、ちゃんと伝わったと思う。

この家に帰ってきてよかった——そう思える、温かさがそこにあった。

 

ご飯の湯気が、ほんの少しだけ、目を滲ませた。

 

「だけどな、楓花。なにも、何でもかんでも抱え込むことはないんだぞ?」

 

一拍置いて、ゆっくりと続ける。

 

「ちゃんと困ったら、俺でもいいし、お母さんでもお父さんでもいいけど……なんでも言ってくれよ。俺たちは家族なんだからさ。力になるからさ」

 

——あぁ、ずるいな。

 

そんなふうに、急に優しいこと言うなんて。

 

言葉が喉の奥でつかえて、返せなかった。

ありがとう、って言いたかったのに、なんだか照れくさくて、顔を上げられなかった。

 

私が黙ってうなずくと、お兄ちゃんは少しだけ笑って、ご飯をかきこみながら、続けた。

 

「俺もさー、楓花くらいの時、たくさん悩んだんだよ」

 

「……え、お兄ちゃんも?」

 

思わず聞き返してしまった。

 

「そりゃあな。進路のこととか、友達のこととか。まあ俺の場合、部活の仲間と揉めたりとかそんなんだけどよ」

 

そう言って、お兄ちゃんはちょっとバツが悪そうに頭をかいた。

 

「でもさ、女の子なんて尚更じゃないか? 男なんてさ、割と単純なんだよ。怒って殴ってスッキリ、とか。ほんとバカだろ? でも女の子って、もっと色んなことに気を遣って、誰かのこと思って、傷ついて……」

 

少し言いよどんで、また箸を動かす。

 

「……だからこそ、ちゃんと誰かに頼っていいんだよ。自分で全部背負い込むな。俺はお前がバカでもアホでも、ちゃんと強くなろうとしてるの見てるからさ」

 

「……なにそれ、結局バカって言ってるじゃん……」

 

ぼそっと言い返しながらも、私は思わず笑っていた。

 

「でも、ありがと。お兄ちゃん」

 

それは、照れと一緒に混ざった本音だった。

 

お兄ちゃんは「へっ」と鼻で笑って、もう一杯おかわりをよそいに立ち上がった。

 

その背中を見て、私はまた一口ご飯を食べた。

 

胸の奥が、ふわっとあたたかかった。

 

——ちゃんと見てくれてる人がいる。

 

それだけで、少しだけ、背筋を伸ばしたくなった。

 

今日は、本当に久しぶりに——

ご飯が美味しく感じた気がする。

 

口の中に広がる白米の甘さ。

味噌汁のだしの香り。

焼き魚の香ばしさや、卵焼きのやわらかな甘み。

 

どれもが、ちゃんと“味”として自分の中に入ってきた。

昨日までの私は、ただ義務のように箸を動かしていたのに。

 

あぁ、こういうの——

すごく、久しぶりかも。

 

そう思った瞬間、胸の奥に、じんわりとしたあたたかさが広がる。

 

きっとうまくいく。

 

ふいに、そんな言葉が心の中に浮かんだ。

 

根拠なんて、どこにもない。

でも、不思議とその言葉には芯があった。

 

なにかが劇的に変わったわけじゃない。

悩みが消えたわけでもない。

 

でも今の私は、自分の足で、ちゃんと前に進もうとしている。

それだけで、世界の色が少しだけ違って見えた。

 

食べ終えた私は、台所に食器を運び、鏡の前にもう一度立った。

 

ポニーテールは、さっき結んだときのまま、しっかりとまとまっている。

その根元には、お気に入りの黄色いリボン。

今朝、ちょっとだけ高めの位置で結び直したやつだ。

 

それを確認して、私はふっと笑った。

 

「……よし」

 

制服の襟元を軽く整えて、バッグを手に取る。

 

毎日持ち歩いている、くたびれた紺色の通学バッグ。

もうすっかり、手になじんだ相棒みたいな存在。

 

玄関で靴を履いて、深呼吸をひとつ。

扉のノブに手をかけたその瞬間、胸の奥が静かに高鳴る。

 

「いってきます!」

 

私は、いつもより少しだけ大きな声でそう言って、勢いよく扉を開けた。

 

朝の光がまぶしい。

蝉の声が、どこか遠くから響いている。

 

——扉の向こうには、きっと、あの子がいる。

私の友達、一番の親友の梨乃がいる。

 

そう思った瞬間、私の心臓がひとつ、跳ねた。

 

つづく

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