その夜、私は夢を見た。
佐野さんと一緒に過ごす夏——
まるで映画のシーンをつなぎ合わせたみたいに、断片的な光景が次々と目の前に流れていく。
誰もいない午後の教室で、机を並べてぼんやりと外を眺めるふたり。
放課後のカフェで、クリームソーダを飲みながらストローで氷をつつく佐野さん。
真夏の陽射しの下、駅前の古本屋を冷やかしながら、思いがけず手に取った詩集の一節を小声で読み合う私たち。
何を観るか散々迷って選んだ洋画を、映画館の一番後ろの席で黙って見つめて——
帰り道のコンビニでアイスを1本だけ買って、交代で一口ずつかじりながら歩いた。
どの場面の私も、笑っていた。
佐野さんも、少し照れたように微笑んでいた。
いつものような無表情じゃない。
ちゃんと、あたたかい表情だった。
手が少しだけ触れて、それに気づいても、どちらも離さなかった。
声を出さずに笑い合って、ただ隣にいることを確かめるような、そんな夏の日。
——でも、どこかがおかしかった。
夢の中の景色は、確かに明るくて、穏やかで、優しい。
なのに、胸の奥がじわじわと苦しくなっていく。
何かが足りない。
何かを忘れているような気がする。
そして——気づいてしまった。
この視点は、私じゃない。
この夢の光景は、「私と佐野さん」を誰かが見ている。
第三者の視点。
外から見つめる、少しだけ遠くて、少しだけ冷たい目線。
——梨乃だ。
そうだ。これは、梨乃の目から見た夢なんだ。
どこにもいない。
どこにもいないのに、ちゃんと“見ている”。
心の奥がひやりとした。
私は——梨乃のことを、避けていた。
佐野さんを放っておけない。
そう言い聞かせて、佐野さんとの関係に逃げ込んでいた。
「仕方ない」「放っておけない」
それを理由にして、梨乃の気持ちを、ずっと後回しにしていた。
でも、梨乃もまた、私にとって——大切な、唯一の“親友”だった。
夏休みが始まる少し前。
「今年の夏は絶対に忘れられない夏にしようね!」って笑いながら、
お祭りに行こう、浴衣を着よう、海に行こう、泊まりがけで遊ぼう——
そんな他愛のない計画を、あの子は真剣に話していた。
その約束を、私は……どうするつもりなんだろう。
夢の中で私は、黙って佐野さんの隣に立っている。
梨乃の気配が、遠くからずっとそれを見つめている気がする。
声はない。表情もない。
それでも、伝わってくる。
——悲しいんだ。
——寂しいんだ。
——気づいてほしいんだ。
私はその場から動けなかった。
夢なのに、身体が重くて、足が前に出なかった。
佐野さんを選んだ。
選ばなきゃいけなかった。
でも、それは同時に、何かを置いてきてしまうことでもあった。
私は、ちゃんと向き合わないといけない。
佐野さんだけじゃない。
梨乃とも、ちゃんと——
この夏をどう過ごすのか。
この夏、誰とどう生きるのか。
誰かの傷に寄り添うということは、誰かを置き去りにすることかもしれない。
そんな覚悟も、ちゃんと持たなきゃいけないんだ。
私は夢の中で、静かに涙を流していた。
その涙が、目覚める直前の頬を、ほんの少しだけ濡らした気がした。
目が覚めた。
カーテン越しに射し込む夏の光が、ぼんやりとしたままの私を包み込む。
夢の内容はもう輪郭があいまいになっているのに、胸の奥にはまだ、ずっしりとした感情が残っていた。
ひどく、切ない感情。
涙が頬に一筋、乾きかけていた。
私は静かに指でそれを拭って、ベッドの上で身体を起こす。
——そうだ。
夢の中で、私は佐野さんと一緒にいた。
笑って、アイスを食べて、ふざけて、笑い合って——でも、どこか違和感があった。
何かが足りなかった。何かが、違った。
……梨乃だ。
あの夢は、梨乃の目から見た世界だったのかもしれない。
私は、佐野さんとばかり一緒にいて、梨乃のことを後回しにしていた。
それが、どこか悲しくて、遠くて、夢なのに突き刺さるようにリアルだった。
私は自分に言い訳していた。
——佐野さんを放っておけないから。
——今は、あの子の方が大変だから。
——仕方がないことだと。
でも、それって本当に“仕方がない”の?
私は、佐野さんと向き合おうとしていた。
そのこと自体は、嘘じゃない。
でも同時に——私は梨乃と向き合うことから逃げていた。
あの子の優しさに甘えて、全部を“あとで”にしてきた。
これは、私の悪い癖だ。
大切なことほど、「あとで」「今じゃない」って棚の上に置いてしまう。
でももう、それはやめよう。
私は静かに呼吸を整え、そっと呟いた。
「……よし。絶対、今日話そう」
それは、佐野さんの過去を語ることじゃない。
そんなこと、勝手に話してはいけない。
話すべきじゃない。
だから、私が話すのは——
「私が何を感じて、何を思って、どう変わっていったのか」
「佐野さんとの関係の中で、私がどういう気持ちになったのか」
「そして、今、梨乃のことをどう思ってるのか」
それだけでいい。
それだけでも、私の誠意は伝えられるはず。
私はゆっくりとベッドを下り、制服を取り出して、鏡の前に立った。
目元に少し赤みが残っていたけれど、ちゃんと前を向けている気がした。
今日——私は、大切な誰かときちんと向き合う。
もう逃げない。
後回しにしない。
この夏を、自分の意志で選ぶために。
リビングに行くと、今日もまた——
予想通り、お兄ちゃんがニヤニヤした顔でこっちを見ていた。
「おっ? おぉ〜? どうした楓花?今日はなんかやけに気合入ってない?ポニテもバッチリ決まってるし、なんか……やけに自信満々って感じ? ってか、うん、普通に可愛いぞ!」
箸を持ったまま、椅子にふんぞり返るような姿勢で、わざとらしく目を細めてじっと見てくる。
「……は?」
思わず口を開けたまま固まってしまう。
「いやいやいや、なんかこう……“決意の朝”って雰囲気、出てんのよ。なんかあったの?告白でもするの? ん?ん〜?」
「ちっ、違うしっ!ていうか、朝からやめてよ、そういうの!」
「ふ〜ん? でも可愛いじゃん。黄色いリボン、いつもよりちょっと高めだよな。絶対気合入ってるでしょ?俺の目はごまかせませんな〜」
「うるさいっ!」
私はサッと椅子を引いて座り、味噌汁を勢いよくすすった。
でも——頬が、少し熱い。
……気づかれてる。やっぱり、分かる人には分かるんだ。
お兄ちゃんのからかいは、いつも通りの“日常”のはずだった。
だけど、今日はその軽口の中に、なぜだか少しだけ“優しさ”の色が混ざっているように感じた。
「……なんかさ、最近の楓花、いい意味で変わったよなぁ〜」
ご飯をかきこみながら、お兄ちゃんがぽつりと呟いた。
「楓花ってさ、バカでしょ?なんか何にも考えてないんだろうなぁって思ってたんだ。でもさ、最近の楓花、ずっと悩んでる顔してた。お母さんも俺も、お父さんも……たぶん、みんな気づいてたよ」
私は箸を止めた。心臓が、どくんと鳴った。
「でもさ、楓花ならきっと、自分で乗り越えるって、どこかで思ってたんだよな。……だから、何も言わなかったんだよ」
お兄ちゃんの声は、いつもの調子だった。
軽口を叩くその口調は変わらないのに、不思議と重みがあった。
そして——少しだけ真顔になったお兄ちゃんが、私の方をまっすぐに見て言った。
「だけどな、楓花。なにも、何でもかんでも抱え込むことはないんだぞ?」
一拍置いて、ゆっくりと続ける。
「ちゃんと困ったら、俺でもいいし、お母さんでもお父さんでもいいけど……なんでも言ってくれよ。俺たちは家族なんだからさ。力になるからさ」
——あぁ、ずるいな。
そんなふうに、急に優しいこと言うなんて。
言葉が喉の奥でつかえて、返せなかった。
ありがとう、って言いたかったのに、なんだか照れくさくて、顔を上げられなかった。
私は、黙ってうなずいた。
それでも、ちゃんと伝わったと思う。
この家に帰ってきてよかった——そう思える、温かさがそこにあった。
ご飯の湯気が、ほんの少しだけ、目を滲ませた。
「だけどな、楓花。なにも、何でもかんでも抱え込むことはないんだぞ?」
一拍置いて、ゆっくりと続ける。
「ちゃんと困ったら、俺でもいいし、お母さんでもお父さんでもいいけど……なんでも言ってくれよ。俺たちは家族なんだからさ。力になるからさ」
——あぁ、ずるいな。
そんなふうに、急に優しいこと言うなんて。
言葉が喉の奥でつかえて、返せなかった。
ありがとう、って言いたかったのに、なんだか照れくさくて、顔を上げられなかった。
私が黙ってうなずくと、お兄ちゃんは少しだけ笑って、ご飯をかきこみながら、続けた。
「俺もさー、楓花くらいの時、たくさん悩んだんだよ」
「……え、お兄ちゃんも?」
思わず聞き返してしまった。
「そりゃあな。進路のこととか、友達のこととか。まあ俺の場合、部活の仲間と揉めたりとかそんなんだけどよ」
そう言って、お兄ちゃんはちょっとバツが悪そうに頭をかいた。
「でもさ、女の子なんて尚更じゃないか? 男なんてさ、割と単純なんだよ。怒って殴ってスッキリ、とか。ほんとバカだろ? でも女の子って、もっと色んなことに気を遣って、誰かのこと思って、傷ついて……」
少し言いよどんで、また箸を動かす。
「……だからこそ、ちゃんと誰かに頼っていいんだよ。自分で全部背負い込むな。俺はお前がバカでもアホでも、ちゃんと強くなろうとしてるの見てるからさ」
「……なにそれ、結局バカって言ってるじゃん……」
ぼそっと言い返しながらも、私は思わず笑っていた。
「でも、ありがと。お兄ちゃん」
それは、照れと一緒に混ざった本音だった。
お兄ちゃんは「へっ」と鼻で笑って、もう一杯おかわりをよそいに立ち上がった。
その背中を見て、私はまた一口ご飯を食べた。
胸の奥が、ふわっとあたたかかった。
——ちゃんと見てくれてる人がいる。
それだけで、少しだけ、背筋を伸ばしたくなった。
今日は、本当に久しぶりに——
ご飯が美味しく感じた気がする。
口の中に広がる白米の甘さ。
味噌汁のだしの香り。
焼き魚の香ばしさや、卵焼きのやわらかな甘み。
どれもが、ちゃんと“味”として自分の中に入ってきた。
昨日までの私は、ただ義務のように箸を動かしていたのに。
あぁ、こういうの——
すごく、久しぶりかも。
そう思った瞬間、胸の奥に、じんわりとしたあたたかさが広がる。
きっとうまくいく。
ふいに、そんな言葉が心の中に浮かんだ。
根拠なんて、どこにもない。
でも、不思議とその言葉には芯があった。
なにかが劇的に変わったわけじゃない。
悩みが消えたわけでもない。
でも今の私は、自分の足で、ちゃんと前に進もうとしている。
それだけで、世界の色が少しだけ違って見えた。
食べ終えた私は、台所に食器を運び、鏡の前にもう一度立った。
ポニーテールは、さっき結んだときのまま、しっかりとまとまっている。
その根元には、お気に入りの黄色いリボン。
今朝、ちょっとだけ高めの位置で結び直したやつだ。
それを確認して、私はふっと笑った。
「……よし」
制服の襟元を軽く整えて、バッグを手に取る。
毎日持ち歩いている、くたびれた紺色の通学バッグ。
もうすっかり、手になじんだ相棒みたいな存在。
玄関で靴を履いて、深呼吸をひとつ。
扉のノブに手をかけたその瞬間、胸の奥が静かに高鳴る。
「いってきます!」
私は、いつもより少しだけ大きな声でそう言って、勢いよく扉を開けた。
朝の光がまぶしい。
蝉の声が、どこか遠くから響いている。
——扉の向こうには、きっと、あの子がいる。
私の友達、一番の親友の梨乃がいる。
そう思った瞬間、私の心臓がひとつ、跳ねた。
つづく