オブスキュラに閉じ込めたい   作:多治見国繁

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第15話 大切な友達

「おはよう。ふうちゃん」

 

朝の光の中で、梨乃はいつものように、家の前で私を待っていた。

制服のリボンをきちんと結び、少し風になびく髪。

変わらない笑顔がそこにある。

 

……なんだろう、この感じ。

見慣れたはずなのに、胸の奥がふわっとあたたかくなる。

ああ、やっぱり——

私、この子のこと、大好きなんだな。

 

「うん! おはよう! 梨乃!」

 

思わず声が弾んだ。

自然に笑顔になれたのは、久しぶりだったかもしれない。

 

たったこれだけの、なんでもないやりとり。

でも私にとっては、それがとても嬉しくて、懐かしくて、少し泣きそうになるほどだった。

 

昨日の夜、枕を濡らした涙。

あの涙と一緒に、胸の奥にあった重たくて、触れるのも怖かったものが、少しだけ流れ落ちてくれた気がしていた。

 

大丈夫。

今日はちゃんと話せる気がする。

梨乃なら、きっとわかってくれる。

だって、私たちは——

 

「親友」だから。

 

……だけど、それでも、きっと簡単なことじゃない。

話す内容が軽くないことも分かってる。

佐野さんとのこと。

そして、自分自身の気持ち。

 

あの人の過去のことを、全部は言えない。

言うべきじゃない。

それでも、どうしても話したいことがある。

それだけは、ちゃんと伝えたいと思った。

 

私は肩にかけた通学バッグのストラップをギュッと握り直す。

 

今日の私は、「逃げない私」。

この夏のことを、自分の言葉でちゃんと話す私。

 

一歩ずつ。だけど、確かに前へ。

 

梨乃と並んで歩き出す。

朝の風が制服の裾をやさしく揺らす。

いつもの通学路。

だけど今日は、少しだけ違って見えた。

 

そもそも、簡単なことだった。

 

何日も悩んで、ぐるぐる考えて、夜も眠れないくらいに不安になって。

でも、本当はそんなに複雑なことじゃなかったのかもしれない。

 

だって、私たちは——親友なんだ。

 

言葉にしなくたって伝わることがある。

笑顔や空気や、ちょっとした沈黙からだって、感じ取れることがたくさんある。

それが、私と梨乃の関係だった。

 

でも、それでも——

伝えなきゃいけないことがあるって、私はようやく気づいた。

 

黙ってるだけじゃ、伝わらないことがある。

言葉にしなきゃ、すれ違ってしまうことがある。

“きっと分かってくれる”じゃ、足りないことがある。

 

私は、ずっと怖がっていた。

梨乃を傷つけてしまうんじゃないかって。

自分勝手だって、責められるんじゃないかって。

何より——

私の気持ちを話したら、梨乃に嫌われてしまうかもしれないって、それが怖くて。

 

だから、私はずっと自分を守ることばかり考えていたんだ。

“友情を壊したくないから言わない”って、

“相手のため”みたいな顔をして。

でも、本当は——私が傷つきたくなかっただけ。

 

そんなの、本当の友達じゃないよね。

 

梨乃は、ずっと私のことを見ていてくれた。

何も言わず、そっと寄り添ってくれていた。

学校で、放課後で、家の前で、いつも笑顔でいてくれた。

 

……本当は、気づいていたのかもしれない。

私が何かを抱えていたってことに。

でも、梨乃はそれを責めたりしなかった。

待ってくれてたんだ、私がちゃんと向き合うのを。

 

だから——今度は、私の番。

 

私はちゃんと、自分の言葉で話す。

逃げない。

ごまかさない。

自分の中にあるこの気持ちを、まっすぐ伝えたい。

 

この夏をどう過ごしたいのか。

誰と、どんなふうに歩んでいくのか。

そして、そこに梨乃がどう関わっていてほしいのか。

 

全部、自分の声で届けるんだ。

 

私は、もう決めたから。

 

——佐野さんと過ごすってことも。

——でも、梨乃との関係を大切にしたいって気持ちも。

どちらも嘘じゃないし、どちらも大事なんだってことを。

 

隣を歩く梨乃の横顔を、そっと見る。

朝の光が彼女の頬を柔らかく照らしていた。

何度も見てきたはずなのに、今日のその表情は少しだけ遠く感じた。

それが、ちょっとだけ怖くて。

でも、その不安さえも、今の私なら受け止められる気がした。

 

私は、小さく深呼吸をする。

肺の奥に、新しい朝の空気をいっぱいに吸い込んで——

そして、歩幅をほんの少しだけ、早めた。

 

「ねえ、梨乃」

 

声が自然と口からこぼれる。

振り向く梨乃の目を、ちゃんと見て言おう。

私の中の、全部を。

 

今日こそ——ちゃんと伝えるから。

 

——大事な親友として。

——そして、自分自身のためにも。

 

「なに? ふうちゃん」

 

梨乃がふと立ち止まり、私の方に向き直った。

 

朝の光が、彼女の髪をやさしく照らしている。

そのまなざしは、いつものようにまっすぐで、嘘も飾りもなかった。

隠しごとなんて一つもない——そんな目だった。

 

……なのに、私は。

 

私は、ほんの一瞬、視線を逸らしてしまった。

足元のアスファルトを見つめながら、ゆっくりと小さく息を吸う。

 

心臓の音が、うるさいくらいに響いてる。

鼓膜の裏側で鳴ってるみたいに、ドクンドクンって、震えていた。

 

「……あのね、聞いてほしいことがあるの」

 

声が、思ってたよりも少しだけかすれた。

けれど梨乃は、何のためらいもなく「うん」と頷いてくれた。

 

その仕草が、まるでいつも通り過ぎて。

私は逆に少しだけ胸が締めつけられた。

 

「ずっと、隠してたことがあるんだ」

 

「うん」

 

梨乃の表情は変わらない。

信じているからこそ、問い詰めたり、揺らいだりしない。

 

でもだからこそ——怖かった。

こんな優しい人を、私はずっとだましていたんじゃないかって。

その事実に、改めて気づかされる。

 

「……実はね、私、ずっと、佐野さんと会ってたの」

 

言った瞬間、胸の奥にズクンと重たい痛みが走った。

 

罪悪感。

不安。

そして、どこかにあった“裏切り”という言葉の影。

 

でも、言葉が空気の中に溶けていくにつれて、肩の力が少し抜けた気がした。

それだけで、こんなにも苦しかったんだと気づく。

 

梨乃は、数秒だけまばたきをした。

目に映る彼女の顔が、少しだけ動揺しているようにも見えた。

 

だけど——そのあと、ゆっくりと微笑んだ。

 

「……そっか。うん、知ってたよ。なんとなく、だけど」

 

「……え?」

 

「ふうちゃん、最近ちょっと、いつもと違ったもん。笑ってても、心ここにあらずっていうか……ううん。むしろ、すごく考えてる顔してた」

 

梨乃の声は、変わらず静かで優しい。

責めるような言葉も、怒りの気配も、そこにはなかった。

 

「怒ってない……の?」

 

私は小さく尋ねた。

自分でも、子どもみたいな聞き方だと思ったけど——でも、そう聞くしかなかった。

 

「怒るわけないじゃん」

 

梨乃は、少し笑ってみせた。

 

「ふうちゃんが誰と会ってても、どこに行ってても、私はふうちゃんの味方だよ。……それは、変わらないよ」

 

その言葉に、心の奥がじんわりと熱くなる。

まるで、見えない毛布をかけられたみたいに、あたたかくて、優しくて。

思わず、涙が出そうになる。

 

「でも……話してくれて、ありがとう。私、すごく嬉しいよ」

 

梨乃の声は、まるで“抱きしめる”ようだった。

私は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。

 

それでも——

ほんの少しだけ、胸のどこかに“棘”のようなものが残っていた。

 

(ごめんね、梨乃……)

 

その言葉を口に出すことはできなかった。

それは、まだ“全部”を話したわけじゃないから。

 

衣織と過ごしたあの時間。

秘密にしていた、もっと奥の感情。

夏のはじまりと、これからの私の変化。

 

全部、まだ言えていない。

 

だからこそ、私は決めた。

 

今日、話すって。

逃げずに、ちゃんと——向き合うって。

 

梨乃のまなざしを正面から受け止めて、私は小さく、でもはっきりと頷いた。

 

ここから、私の夏が、ちゃんとはじまるんだ。

 

「それでね、私……この夏を、佐野さんと過ごしたいの」

 

その言葉を口にした瞬間、胸の奥に長く沈んでいた気持ちが、ふっと静かにこぼれ落ちていくような感覚がした。

まるで、自分の中に閉じ込めていた何かが、ようやく自由になったみたいだった。

 

梨乃は、黙ったまま私を見ていた。

何も言わず、ただその目で、私の言葉をすべて受け止めようとしてくれていた。

 

その視線に少しだけ勇気をもらって、私は続けた。

 

「佐野さんには……私からは詳しく言えない。でも、すごく昔に、とても辛いことがあったの。今も、たぶんずっと、それを一人で抱えてる」

 

言いながら、自然と目を伏せていた。

梨乃に“嘘”はついていない。でも、“全部”を話すこともできなかった。

それでも、この想いだけはきちんと伝えたかった。

 

「私、全部を理解できるわけじゃないし、何かを変えられるとも思ってない。でもね、それでも、どうしても……そばにいたいって思ったの」

 

声が少し震えていた。

けれど、それが本当の気持ちだった。

 

「一緒に笑ったり、くだらないことでふざけたり、アイス食べて頭キーンってなったり……そういう、なんでもない時間を、佐野さんと重ねたいって思ったの。大げさな理由じゃない。だけど、それが私にとっては、とても大事なことだったの」

 

静かな朝の光の中で、心の中の言葉を一つずつ拾い上げるように、私は語った。

 

「これは、誰かのためじゃなくて……私自身の“気持ち”なの。佐野さんの過去を背負いたいとか、守りたいとか、そんな大それたことじゃない。ただ、今の“佐野衣織”という人と、ちゃんと向き合いたいと思った」

 

言葉を終えて、私はまっすぐ梨乃の目を見た。

 

その瞳の奥に、どんな感情があるのか。

不安だったけれど、逃げずに、きちんと見届けようと決めていた。

 

「だからこの夏、私は……佐野さんと向き合うことを、選びたいの」

 

それが、私の選んだ“答え”。

 

そしてその選択を、誰よりも最初に伝えたかったのが、梨乃だった。

 

そして、梨乃の目を真っ直ぐに見て、はっきりと続けた。

 

「だからこの夏、私は——佐野さんと向き合うことを、選びたいの」

 

梨乃は少しだけ目を見開いた。

ほんのわずかにまつげが揺れた気がした。

その瞬間、私の心臓がひとつ、大きく跳ねる。

 

やっぱり驚かせたかな。

いや……傷つけたかもしれない。

私が一番に話すべき相手は、きっとこの子だったのに。

なのに、私はずっと——

 

けれど、梨乃はすぐに表情を和らげて、小さく微笑んだ。

 

「そっか。わかった。うん。……いいよ」

 

その声は、思っていたよりずっと穏やかで、優しかった。

 

「ふうちゃんがそう思ったんなら、きっとそれが正しいんだと思う。私、ふうちゃんのそういうところ、すごく好きだよ」

 

そう言って、梨乃は私の手をそっと取った。

 

「……でも、ひとつだけ約束して」

 

「え?」

 

「私は、ふうちゃんのこと、ずっと大切な友達だって思ってる。だから……どこかでちゃんと、私のことも忘れないでいてね」

 

その言葉が、胸に静かに沁みた。

 

「うん。絶対に忘れない」

 

私はそう言って、梨乃の手をぎゅっと握り返した。

 

ほんの少しだけ、瞳の奥が潤んだように見えたのは——

たぶん、私だけじゃなかった。

 

梨乃は一瞬、目を伏せた。

けれど、すぐに顔を上げて、少しだけ寂しそうに笑った。

 

「……そっか。ふうちゃんが、そう言うなら。私は……うん、応援する」

 

「梨乃……」

 

「ふうちゃんがその人のこと、ちゃんと見て、ちゃんと考えてるって分かるから。だったら、私は信じるよ。……昔からそうだったでしょ?そうやって自分でちゃんと決めて、ちゃんと動くときのふうちゃんって、なんだかんだ、一番まっすぐだから」

 

梨乃の声は優しかった。でも、その奥に、少しだけ張り詰めた何かがあるのを、私は感じた。

 

「……ありがとう」

 

私はそう言って、梨乃の目をまっすぐ見つめた。

梨乃は少しだけ目を細めて、それ以上は何も言わなかった。

 

だけど私は、その沈黙の中に、たくさんの気持ちを感じ取っていた。

 

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