「おはよう。ふうちゃん」
朝の光の中で、梨乃はいつものように、家の前で私を待っていた。
制服のリボンをきちんと結び、少し風になびく髪。
変わらない笑顔がそこにある。
……なんだろう、この感じ。
見慣れたはずなのに、胸の奥がふわっとあたたかくなる。
ああ、やっぱり——
私、この子のこと、大好きなんだな。
「うん! おはよう! 梨乃!」
思わず声が弾んだ。
自然に笑顔になれたのは、久しぶりだったかもしれない。
たったこれだけの、なんでもないやりとり。
でも私にとっては、それがとても嬉しくて、懐かしくて、少し泣きそうになるほどだった。
昨日の夜、枕を濡らした涙。
あの涙と一緒に、胸の奥にあった重たくて、触れるのも怖かったものが、少しだけ流れ落ちてくれた気がしていた。
大丈夫。
今日はちゃんと話せる気がする。
梨乃なら、きっとわかってくれる。
だって、私たちは——
「親友」だから。
……だけど、それでも、きっと簡単なことじゃない。
話す内容が軽くないことも分かってる。
佐野さんとのこと。
そして、自分自身の気持ち。
あの人の過去のことを、全部は言えない。
言うべきじゃない。
それでも、どうしても話したいことがある。
それだけは、ちゃんと伝えたいと思った。
私は肩にかけた通学バッグのストラップをギュッと握り直す。
今日の私は、「逃げない私」。
この夏のことを、自分の言葉でちゃんと話す私。
一歩ずつ。だけど、確かに前へ。
梨乃と並んで歩き出す。
朝の風が制服の裾をやさしく揺らす。
いつもの通学路。
だけど今日は、少しだけ違って見えた。
そもそも、簡単なことだった。
何日も悩んで、ぐるぐる考えて、夜も眠れないくらいに不安になって。
でも、本当はそんなに複雑なことじゃなかったのかもしれない。
だって、私たちは——親友なんだ。
言葉にしなくたって伝わることがある。
笑顔や空気や、ちょっとした沈黙からだって、感じ取れることがたくさんある。
それが、私と梨乃の関係だった。
でも、それでも——
伝えなきゃいけないことがあるって、私はようやく気づいた。
黙ってるだけじゃ、伝わらないことがある。
言葉にしなきゃ、すれ違ってしまうことがある。
“きっと分かってくれる”じゃ、足りないことがある。
私は、ずっと怖がっていた。
梨乃を傷つけてしまうんじゃないかって。
自分勝手だって、責められるんじゃないかって。
何より——
私の気持ちを話したら、梨乃に嫌われてしまうかもしれないって、それが怖くて。
だから、私はずっと自分を守ることばかり考えていたんだ。
“友情を壊したくないから言わない”って、
“相手のため”みたいな顔をして。
でも、本当は——私が傷つきたくなかっただけ。
そんなの、本当の友達じゃないよね。
梨乃は、ずっと私のことを見ていてくれた。
何も言わず、そっと寄り添ってくれていた。
学校で、放課後で、家の前で、いつも笑顔でいてくれた。
……本当は、気づいていたのかもしれない。
私が何かを抱えていたってことに。
でも、梨乃はそれを責めたりしなかった。
待ってくれてたんだ、私がちゃんと向き合うのを。
だから——今度は、私の番。
私はちゃんと、自分の言葉で話す。
逃げない。
ごまかさない。
自分の中にあるこの気持ちを、まっすぐ伝えたい。
この夏をどう過ごしたいのか。
誰と、どんなふうに歩んでいくのか。
そして、そこに梨乃がどう関わっていてほしいのか。
全部、自分の声で届けるんだ。
私は、もう決めたから。
——佐野さんと過ごすってことも。
——でも、梨乃との関係を大切にしたいって気持ちも。
どちらも嘘じゃないし、どちらも大事なんだってことを。
隣を歩く梨乃の横顔を、そっと見る。
朝の光が彼女の頬を柔らかく照らしていた。
何度も見てきたはずなのに、今日のその表情は少しだけ遠く感じた。
それが、ちょっとだけ怖くて。
でも、その不安さえも、今の私なら受け止められる気がした。
私は、小さく深呼吸をする。
肺の奥に、新しい朝の空気をいっぱいに吸い込んで——
そして、歩幅をほんの少しだけ、早めた。
「ねえ、梨乃」
声が自然と口からこぼれる。
振り向く梨乃の目を、ちゃんと見て言おう。
私の中の、全部を。
今日こそ——ちゃんと伝えるから。
——大事な親友として。
——そして、自分自身のためにも。
「なに? ふうちゃん」
梨乃がふと立ち止まり、私の方に向き直った。
朝の光が、彼女の髪をやさしく照らしている。
そのまなざしは、いつものようにまっすぐで、嘘も飾りもなかった。
隠しごとなんて一つもない——そんな目だった。
……なのに、私は。
私は、ほんの一瞬、視線を逸らしてしまった。
足元のアスファルトを見つめながら、ゆっくりと小さく息を吸う。
心臓の音が、うるさいくらいに響いてる。
鼓膜の裏側で鳴ってるみたいに、ドクンドクンって、震えていた。
「……あのね、聞いてほしいことがあるの」
声が、思ってたよりも少しだけかすれた。
けれど梨乃は、何のためらいもなく「うん」と頷いてくれた。
その仕草が、まるでいつも通り過ぎて。
私は逆に少しだけ胸が締めつけられた。
「ずっと、隠してたことがあるんだ」
「うん」
梨乃の表情は変わらない。
信じているからこそ、問い詰めたり、揺らいだりしない。
でもだからこそ——怖かった。
こんな優しい人を、私はずっとだましていたんじゃないかって。
その事実に、改めて気づかされる。
「……実はね、私、ずっと、佐野さんと会ってたの」
言った瞬間、胸の奥にズクンと重たい痛みが走った。
罪悪感。
不安。
そして、どこかにあった“裏切り”という言葉の影。
でも、言葉が空気の中に溶けていくにつれて、肩の力が少し抜けた気がした。
それだけで、こんなにも苦しかったんだと気づく。
梨乃は、数秒だけまばたきをした。
目に映る彼女の顔が、少しだけ動揺しているようにも見えた。
だけど——そのあと、ゆっくりと微笑んだ。
「……そっか。うん、知ってたよ。なんとなく、だけど」
「……え?」
「ふうちゃん、最近ちょっと、いつもと違ったもん。笑ってても、心ここにあらずっていうか……ううん。むしろ、すごく考えてる顔してた」
梨乃の声は、変わらず静かで優しい。
責めるような言葉も、怒りの気配も、そこにはなかった。
「怒ってない……の?」
私は小さく尋ねた。
自分でも、子どもみたいな聞き方だと思ったけど——でも、そう聞くしかなかった。
「怒るわけないじゃん」
梨乃は、少し笑ってみせた。
「ふうちゃんが誰と会ってても、どこに行ってても、私はふうちゃんの味方だよ。……それは、変わらないよ」
その言葉に、心の奥がじんわりと熱くなる。
まるで、見えない毛布をかけられたみたいに、あたたかくて、優しくて。
思わず、涙が出そうになる。
「でも……話してくれて、ありがとう。私、すごく嬉しいよ」
梨乃の声は、まるで“抱きしめる”ようだった。
私は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
それでも——
ほんの少しだけ、胸のどこかに“棘”のようなものが残っていた。
(ごめんね、梨乃……)
その言葉を口に出すことはできなかった。
それは、まだ“全部”を話したわけじゃないから。
衣織と過ごしたあの時間。
秘密にしていた、もっと奥の感情。
夏のはじまりと、これからの私の変化。
全部、まだ言えていない。
だからこそ、私は決めた。
今日、話すって。
逃げずに、ちゃんと——向き合うって。
梨乃のまなざしを正面から受け止めて、私は小さく、でもはっきりと頷いた。
ここから、私の夏が、ちゃんとはじまるんだ。
「それでね、私……この夏を、佐野さんと過ごしたいの」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に長く沈んでいた気持ちが、ふっと静かにこぼれ落ちていくような感覚がした。
まるで、自分の中に閉じ込めていた何かが、ようやく自由になったみたいだった。
梨乃は、黙ったまま私を見ていた。
何も言わず、ただその目で、私の言葉をすべて受け止めようとしてくれていた。
その視線に少しだけ勇気をもらって、私は続けた。
「佐野さんには……私からは詳しく言えない。でも、すごく昔に、とても辛いことがあったの。今も、たぶんずっと、それを一人で抱えてる」
言いながら、自然と目を伏せていた。
梨乃に“嘘”はついていない。でも、“全部”を話すこともできなかった。
それでも、この想いだけはきちんと伝えたかった。
「私、全部を理解できるわけじゃないし、何かを変えられるとも思ってない。でもね、それでも、どうしても……そばにいたいって思ったの」
声が少し震えていた。
けれど、それが本当の気持ちだった。
「一緒に笑ったり、くだらないことでふざけたり、アイス食べて頭キーンってなったり……そういう、なんでもない時間を、佐野さんと重ねたいって思ったの。大げさな理由じゃない。だけど、それが私にとっては、とても大事なことだったの」
静かな朝の光の中で、心の中の言葉を一つずつ拾い上げるように、私は語った。
「これは、誰かのためじゃなくて……私自身の“気持ち”なの。佐野さんの過去を背負いたいとか、守りたいとか、そんな大それたことじゃない。ただ、今の“佐野衣織”という人と、ちゃんと向き合いたいと思った」
言葉を終えて、私はまっすぐ梨乃の目を見た。
その瞳の奥に、どんな感情があるのか。
不安だったけれど、逃げずに、きちんと見届けようと決めていた。
「だからこの夏、私は……佐野さんと向き合うことを、選びたいの」
それが、私の選んだ“答え”。
そしてその選択を、誰よりも最初に伝えたかったのが、梨乃だった。
そして、梨乃の目を真っ直ぐに見て、はっきりと続けた。
「だからこの夏、私は——佐野さんと向き合うことを、選びたいの」
梨乃は少しだけ目を見開いた。
ほんのわずかにまつげが揺れた気がした。
その瞬間、私の心臓がひとつ、大きく跳ねる。
やっぱり驚かせたかな。
いや……傷つけたかもしれない。
私が一番に話すべき相手は、きっとこの子だったのに。
なのに、私はずっと——
けれど、梨乃はすぐに表情を和らげて、小さく微笑んだ。
「そっか。わかった。うん。……いいよ」
その声は、思っていたよりずっと穏やかで、優しかった。
「ふうちゃんがそう思ったんなら、きっとそれが正しいんだと思う。私、ふうちゃんのそういうところ、すごく好きだよ」
そう言って、梨乃は私の手をそっと取った。
「……でも、ひとつだけ約束して」
「え?」
「私は、ふうちゃんのこと、ずっと大切な友達だって思ってる。だから……どこかでちゃんと、私のことも忘れないでいてね」
その言葉が、胸に静かに沁みた。
「うん。絶対に忘れない」
私はそう言って、梨乃の手をぎゅっと握り返した。
ほんの少しだけ、瞳の奥が潤んだように見えたのは——
たぶん、私だけじゃなかった。
梨乃は一瞬、目を伏せた。
けれど、すぐに顔を上げて、少しだけ寂しそうに笑った。
「……そっか。ふうちゃんが、そう言うなら。私は……うん、応援する」
「梨乃……」
「ふうちゃんがその人のこと、ちゃんと見て、ちゃんと考えてるって分かるから。だったら、私は信じるよ。……昔からそうだったでしょ?そうやって自分でちゃんと決めて、ちゃんと動くときのふうちゃんって、なんだかんだ、一番まっすぐだから」
梨乃の声は優しかった。でも、その奥に、少しだけ張り詰めた何かがあるのを、私は感じた。
「……ありがとう」
私はそう言って、梨乃の目をまっすぐ見つめた。
梨乃は少しだけ目を細めて、それ以上は何も言わなかった。
だけど私は、その沈黙の中に、たくさんの気持ちを感じ取っていた。