オブスキュラに閉じ込めたい   作:多治見国繁

2 / 16
透明な檻
第1話 透明


梅雨が明けたその日は、朝から蝉の声が鳴り響いていた。

窓の外に広がる山々は陽炎に包まれ、ぼんやりと揺れて見える。照りつける日差しが教室の窓ガラスを熱し、廊下はまるで蒸し風呂かサウナのようだった。

 

「これが“整う”ってやつ? マジで暑くてやばいんだけど!」

 

クラスメイトの山本紗奈が、廊下と教室を行ったり来たりしながらケラケラと笑っている。暑さにやられながらも、やけに元気なその姿をぼんやりと眺めていると、不意に視界いっぱいに膨れっ面が飛び込んできた。

 

「もう! ふうちゃん、ちゃんと聞いてる!?」

 

耳に馴染んだ声。幼馴染の松田梨乃だった。

 

「あ、ごめんごめん。暑すぎて思考が溶けそうだった」

 

ぺろっと舌を出してごまかすと、梨乃はますます頬を膨らませる。

 

「もう! 人がせっかく話してるんだから、ちゃんと聞いてよ」

 

「悪かったってば。次はちゃんと聞くから! それに〜、そんなに怒ってるとおっぱい揉んじゃうよ?」

 

私はワシワシと両手を触手のように動かす。

 

「な、何言ってるの!? ふうちゃん! ほら、ちゃんと聞いて!」

 

「はーい」

 

私の軽い返事に、梨乃は小さくため息をつくと、仕方なさそうに話を再開する。私は適当に相槌を打ちながら、窓の外の揺らぐ景色に目を向けた。

暑い。まるで夏の空気が、じわりと肌にまとわりついてくるようだった。

 

──そのときだった。

 

廊下を横切る影が、視界の端を掠める。何気なく顔を上げると、その姿がゆっくりと奥へ消えていくところだった。

 

佐野衣織。

クラスの誰とも交わらず、静かに本を読み続ける少女。目立たないというより、存在感がない。そこにいるのに、気配すら感じさせない。まるで透明な膜に包まれたかのような子。

 

「……どこ行くんだろう?」

 

ぽつりと呟いた私に、梨乃が不思議そうに首を傾げる。

 

「え? ふうちゃん、何か言った?」

 

「あ、ううん。佐野さんが今、通ったんだけど……なんか気になって」

 

「どうして?」

 

「だって、あっち……トイレじゃないし」

 

言いながら、私は自然と彼女の後ろ姿を目で追っていた。

 

──その先にあるのは、美術準備室。

 

「ねえ、梨乃。今日って、美術の授業あったっけ?」

 

「ううん。今日はないよ」

 

梨乃は小さく首を横に振る。

 

──やっぱり。

 

じゃあ、佐野さんは何のために美術準備室へ?

休み時間は、もうすぐ終わる。

 

胸の奥に広がる小さな違和感。それが、私のエンジンに火を灯した。

別に、彼女がどこへ行こうが関係ない。けれど、いつも静かに本を読んでいる空気のような女の子が、訳もなく歩き回るとは思えなかった。

 

「ごめん、梨乃。その話、あとでもいい? ちょっと見てこようかな」

 

「え?」

 

梨乃が驚いたように私を見上げる。

 

「ちょっとだけ、様子を見てくるだけだから」

 

「もう……ふうちゃんって、ほんと好奇心旺盛だよね。でも、なんでも首を突っ込むのはちょっと心配……」

 

梨乃は困ったように眉を寄せる。

 

「大丈夫だって! 別に悪いことしようってわけじゃないし」

 

「……ほんとにちょっとだけだよ?」

 

梨乃は念を押すように言う。私は軽く手を振って応えながら、そっと席を立った。

佐野さんの後を追おうと廊下に出た。けれどすでにその姿はどこにもなかった。ほんの数秒遅れただけなのに、その姿はまるで霧のように消えてしまったみたいだ。

 

──とりあえず美術準備室に行こうかな。

 

足早に歩きながら、廊下を見渡す。誰もいない。聞こえるのは外から響く音と、遠くの教室から漏れ聞こえる笑い声だけだった。

 

静かすぎる。

 

普通なら、もうすぐチャイムが鳴るこの時間帯。トイレに向かう生徒や水飲み場で涼む子がいてもおかしくない。だけど、今日はまるで時が一瞬止まったみたいに、人の気配がない。

 

私は無意識に喉を鳴らした。

 

美術準備室の前に立つ。

 

美術準備室の扉の隙間から、そっと中を覗き込む。

 

──そこにいた。

 

佐野衣織。

 

彼女は部屋の中央に立っていた。

 

ゆっくりとスカーフを解く。

指先がセーラー服の裾へと伸び、慎重な動作で布地をつまむと、静かに持ち上げる。

腕をクロスさせるようにして、胸元の布を手繰り寄せると、白い肌が露わになった。

 

私は息を呑んだ。

 

静寂に包まれた室内。

外から響く蝉の声が遠くに聞こえる中で、佐野さんの動きだけが妙にゆっくりと見えた。

 

 迷いのない仕草で、彼女は上半身を覆っていた布を一気に引き上げる。

 セーラー服の裾が頬をかすめ、揺れる髪がわずかに乱れる。

 

窓から差し込む陽光が、まるで淡いヴェールのように室内を包み込んでいた。

その光は静かに広がり、塵の粒をきらめかせながら、佐野さんの肌を優しく撫でていく。

鏡に反射した光がさらに明るさを増し、彼女の肩のラインをなぞるように透き通る陰影を描く。

柔らかな輝きが、滑らかな肌に淡く宿り、濡れたような光沢を浮かび上がらせる。

 

 佐野さんはセーラー服を静かに床へと落とした。

 続いて、スカートのホックに指をかける。

 カチャリ。

 微かな音とともに、プリーツの揺らぎがほどけるようにして、青いスカートが滑り落ちる。

 

──何をしているの?

 

思考が追いつかないまま、私は佐野さんの姿に釘付けになった。

 

上下揃いの、白地にピンクのリボンのアクセントがついた下着。

繊細なレースが淡く光を受け、彼女の滑らかな腹部にほんのわずかに窪むおへそが浮かび上がる。

薄く張った肌は、静かな呼吸に合わせて緩やかに上下し、まるで彼女の存在そのものが淡く揺らいでいるかのようだった。

 

ピンクのリボンがワンポイントになったショーツ。

布地の淡い透け感が繊細な陰影を作り出し、おへそから下へと続くなめらかな肌が、布地の切れ目でさりげなく強調される。

腰のラインに添うレースのアクセントが、どこか幼さと色気を同時に感じさせた。

 

鏡の中に映る彼女の後ろ姿。

背後から見れば、腰のくびれからお尻へと続くラインが、柔らかく浮かび上がる。

ショーツに包まれた丸みは、形を際立たせながらも布地の質感でわずかに抑えられ、軽く姿勢を変えるたびにレースの縁が肌にぴたりと馴染んで、ほんのわずかに動く。

 

──息を呑む。

肌が隠されているはずなのに、余計に際立つ。

むしろ、このわずかな“隙間”が、強烈に意識を引き寄せてしまう。

 

生まれたままの姿とは違う、衣の奥に残された輪郭。

その曖昧な境界が、目に焼き付くほど鮮烈だった。

 

そのまま彼女は無言で、黒い箱のようなものを三脚にセットし始める。

その向こうに映るのは、彼女自身。

 

そして、細い指が、静かに何かを手に取った。

──細い紐のようなもの。

 

絡ませるようにして、それをそっと押す。

 

カシャ。

 

小さな音が空間を震わせる。

 

その音に合わせるように、佐野さんの手がゆっくりと背中へ伸びた。

指先がブラジャーのホックにかかる。

指がわずかに震え、ホックにかかる爪先がほんの一瞬だけ迷ったように止まる。

 

──次の瞬間。

 

滑るように肩から落ちる白い布。

静かに、柔らかく。まるで雪が溶けるように、それは彼女の身体から離れていく。

 

驚くほど、白い肌。

ただ白いのではなく、透き通るような質感。

窓から差し込む光が淡く反射し、繊細な陰影を描く。

 

華奢な鎖骨がわずかに浮かび、細い肩が小さく震える。

胸は小さく、それでも形の整った曲線を描いていた。

 

佐野さんの指が、静かにショーツの縁をなぞる。

その動きに合わせて、光がわずかに揺れる。

窓からの陽光が、彼女の腰のラインをぼんやりと浮かび上がらせ、肌の上を光の粒がすべるように煌めいた。

 

──やめて。

 

言葉にならない声が、喉の奥で掠れる。

それなのに、視線は逸らせなかった。

 

佐野さんの指が、静かにショーツの縁をなぞる。

布地を摘んだ指がわずかに沈み、微かに力をこめると、それはするりと滑り落ちていく。

 

──生まれたままの姿。

 

淡い光の中に浮かび上がる、彼女の白い肌。

透き通るように儚く、それでいて、目を離せないほど美しい。

 

鏡の中に映る彼女の後ろ姿。

細い背中から腰へと、しなやかなラインが描かれる。

わずかに角度を変えるたび、淡い光が柔らかな陰影を作り出していた。

 

腰のくびれから滑らかに続く丸み。

光を帯びた肌はなめらかで、影の落ち方がその柔らかさを際立たせる。

かすかに腰を揺らすたび、鏡の中の彼女が静かに形を変えるように見えた。

 

──息を呑む。

目を逸らさなければ、いけないのに。

この美しさを、目に焼きつけてしまいそうで。

 

──見てはいけない。

 

そう思うのに、身体は固まってしまった。

 

佐野さんは、何の迷いもなく、再び細い紐のようなものを手に取る。

細い指が、それを押し込む。

 

静かな呼吸に合わせて肌がわずかに上下する。

それに合わせて、汗の雫がきらめきながら頬を伝い、喉元へと消えていく。

それが佐野さんが決して彫刻ではなく、生きた儚い少女である生命の美しさを際立たせていた。

 

──そのときだった。

 

──視線が合った。

 

佐野さんの瞳が、まっすぐにこちらを捉える。

 

心臓が跳ね上がる。

 

けれど、逃げる間もなく──

 

ガラッ。

 

扉が開く音が響いた。

 

次の瞬間、腕を掴まれる。

 

「えっ──」

 

言葉を発するよりも早く、私は床に押し倒されていた。

 

間近に感じる息遣い。

重なる視線。

佐野さんの瞳は、深く、揺れていた。

 

「……見た……?」

 

囁くような声が耳を掠める。

私は僅かに喉を鳴らした。そして、そっと唇を動かす。

 

「……うん……見たよ……」

 

「……そう……」

 

佐野さんの囁きが、静かな室内に溶けるように響く。

 

「なら、お仕置き……罰をあげる……」

 

耳元で、ゆっくりと紡がれる言葉。

柔らかな声なのに、逃げ場のない響きを持っていた。

 

「へ……?」

 

気の抜けたような声が思わず漏れる。

それが、冗談なのか。本気なのか。

わからない。

けれど、佐野さんの瞳に迷いはなかった。

 

背筋に、冷たいものが走る。

 

ドクン──

 

胸の奥で心臓の音がやけに大きく響いた。

 

「私と、しよ?」

 

佐野さんの瞳が、静かに私を捉える。

深い湖の底のような、静かで揺らぎのない視線。

それなのに、どこか抗いがたい力があった。

 

「は……?」

 

頭がついていかない。

思わず、間抜けな声を漏らす。

 

「……エッチ、しよ」

 

さらりとした口調。

まるで、それが当たり前のことかのように。

 

喉が鳴る。

 

──この子は、本気で言っている。

 

「はぁぁぁぁ!? 何言ってるの!?」

 

理解が追いつかない。

反射的に、目の前の佐野さんを突き飛ばした。

 

「っ……」

 

小さく息を漏らしながら、佐野さんの身体がわずかに揺れる。

──それでも、怯まない。

私を見つめる視線は、相変わらず深く澄んでいた。

 

次の瞬間。

 

「……大人しくして」

 

私の手首を、ひどく静かな力で押さえ込む。

まるで、最初からこうするつもりだったかのように。

 

「いけない人……」

 

佐野さんは、仮面のように感情の読めない瞳で私を見下ろした。

その白く、しなやかな指が、私のスカーフへと伸びる。

細い指先が慎重に布を摘み上げ、静かに解いていく。

 

「やめてっ!」

 

声を張り上げ、佐野さんの手を払い除けようとする。

けれど、驚くほどの力で押さえつけられた。

小柄な体のどこにそんな力があるのか──身動きが取れない。

 

「……だめ……」

 

佐野さんの声は、どこか淡々としていた。

それなのに、耳元にじわりと絡みつくような、ひどく静かな響きを持っていた。

 

「星野さんは、罰を受けないと……」

 

私の手首を握る指に、わずかに力がこもる。

 

「勝手に見たんだから……」

 

このままでは、まずい。

本当に佐野さんに襲われる──。

 

背筋に冷たい汗が伝う。

抑えつけられたまま、もがこうとするが、動けない。

心臓が速く打ち始める。

 

──逃げなきゃ。

 

本能的な危機感が、喉を震わせた。

咄嗟に言葉が口をつく。

 

「お願い! 理由を教えてよ!」

 

必死に叫ぶ。

 

「なんで、私と……したいの?」

 

その瞬間だった。

佐野さんの肩が、ピクリと揺れる。

 

わずかに、手の力が緩んだ。

 

「……っ」

 

佐野さんは小さく息を呑む。

 

沈黙。

 

長い、長い沈黙のあと。

 

「……もういい……」

 

低く、掠れた声が降る。

 

「出てっていいよ」

 

佐野さんは、ふっと私の手を放した。

 

解放された途端、私は息を吸い込む。

鼓動が速い。肘をついたまま、荒い呼吸を整える。

 

佐野さんは、乱暴に制服を掴み、何もなかったかのように着直した。

素早い動作だったが、指先がほんのわずかに震えているように見えた。

 

私は、呆気に取られたまま、彼女の背中を見つめる。

 

──けれど、ここで引き下がれるほど、お人好しじゃない。

 

「納得できないよ! こんなことされて!」

 

思わず声を張り上げた。

 

佐野さんの動きが止まる。

深い瞳が、まっすぐに私を捉える。

 

「……っ」

 

唇がわずかに動く。

何かを言おうとして──けれど、その言葉を飲み込んだ。

 

短い沈黙。

 

そして。

 

「……出て行って」

 

ポツリと零れた声は、静かに、けれど確かに私を拒絶した。

 

──なにそれ。ふざけないでよ。

 

喉元まで出かかった言葉を、必死に飲み込む。

強く唇を噛んで、押し殺した。

 

──言い争うことに意味なんてない。

 

けれど。

それでも、どうしても確かめずにはいられなかった。

 

佐野さんは、ここで何をしていたのか。

 

「……わかった。教えてくれなくていい……」

 

一度、息を整えた。

 

「じゃあ、一つだけ教えて。ここで何をしてたの?裸で」

 

その問いに、佐野さんはほんの一瞬、瞬きをした。

けれど、驚くことも戸惑うこともなく、あっさりと答えた。

 

「写真、撮ってた。このカメラで」

 

そう言って、彼女は黒い箱のようなカメラを軽く撫でる。

古びた二つの眼があるカメラのレンズが、静かに光を反射していた。

 

「このカメラは、私そのもの……それだけ」

 

淡々とした言葉。

けれど、それが冗談でも、適当な返答でもないことは、彼女の瞳を見ればわかった。

 

──哲学的で、あまりにも美しい言葉だった。

 

私は思わず目を見開く。

 

「……そうなんだ」

 

静かに呟く。

そして、ふと口をついて出た言葉に、自分で驚いた。

 

「綺麗だったよ、佐野さん」

 

──何言ってるの、私!?

 

間違いなく、これはキモい。

言った瞬間、後悔が押し寄せる。

 

けれど。

 

佐野さんは、拒絶するわけでもなく、ただ素直に言葉を紡いだ。

 

「……ありがとう」

 

 その声は、ひどく静かだった。

 表情は相変わらず読めない。

 

 気まずい沈黙が落ちる。

 微妙な空気をなんとか変えようと、私は思わず口を開いた。

 

 「ねえ、そんなに私としたいの?」

 

 ──しまった。

 口にした瞬間、後悔する。

 

 けれど、佐野さんは即答だった。

 

 「うん」

 

 ──なんでこの子はこんなに積極的なの……!?

 

 呆れながらも、私は小さく息を吐いた。

 

「でも、嫌なんでしょ?」

 

佐野さんの言葉は、まっすぐだった。

だから、私もまっすぐに返した。

 

「嫌だ。今はね」

 

佐野さんが、小さく瞬きをする。

私は続けた。

 

「だって、全然ロマンチックじゃないもん」

 

その言葉に、佐野さんのまつげがわずかに揺れる。

しばらく沈黙したあと、ふっと小さく笑った。

 

「……星野さんって、意外とロマンチストなんだね」

 

淡々とした口調。

でも、その言葉の奥には、ほんの少しだけ興味が滲んでいるような気がした。

 

私は肩をすくめてみせる。

 

「そういうの、大事でしょ? 初めてなら、なおさら」

 

「……初めて、か」

 

佐野さんは、小さく呟いた。

そして、一度だけ視線を落とし、再び私を見つめた。

 

「じゃあ、条件」

 

私は、いたずらっぽく笑う。

 

「今年の夏、ずっと私と過ごそ?」

 

佐野さんが小さく眉を動かす。

 

「それでも、したいって思ったら──してあげる」

 

「私だって佐野さんのこと、何も知らないし」

「佐野さんも、私のこと何も知らないでしょ?」

 

言い終えた瞬間、佐野さんがふっと微笑んだ。

 

それは、ほんのわずか。

けれど、確かに見えた微笑だった。

 

「……わかった」

 

クスリと、小さく笑う。

唇の端に、どこか意味深な弧を描いて。

 

「契約成立だから」

 

そして、ゆっくりと囁くように言った。

 

「ふふっ……楽しみにしてる」

 

つづく

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。