オブスキュラに閉じ込めたい   作:多治見国繁

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第2話 不気味な影

教室へ戻る途中、私の頭の中は佐野さんのことでいっぱいだった。

 あまりにも強烈な出来事。

 今まで意識したことすらなかった同級生が、たった数十分の間にこんなにも鮮明な存在になってしまうなんて。

 

 ──なんなの、あれ……。

 

 考えがまとまらないまま扉を開けると、待ち構えていた梨乃が、頬をぷくっと膨らませて詰め寄ってきた。

 

 「ちょっと! ふうちゃん!? どこ行ってたの!? もう授業終わっちゃったよ!?」

 

 ぷんぷんと怒る声が、蒸し暑い教室に響く。

 しまった。休み時間がとっくに終わってるなんて、すっかり忘れていた。

 

 「……あれ?」

 

 間抜けな声が口をつく。

 梨乃は呆れたようにため息をつき、追い打ちをかけるように言った。

 

 「先生、カンカンだったよ! “職員室に来なさい” だって!」

 

 ──終わった。

 

 私は反射的に頭を抱えた。

 そういえば今日の次の授業、生活指導の怖い先生だったじゃん……!

 泣きそうな顔で梨乃を見つめると、彼女は呆れたように首を横に振る。

 

 ──すぐに謝ってきなさい。

 

 言葉にせずとも、梨乃の目はそう語っていた。

 

 せめて、佐野さんも一緒なら……と思い、教室を見渡す。

 一緒に怒られに行こうとしたが、すでに彼女の姿はどこにもなかった。

 

諦めて、勇気を振り絞り、一人で職員室へ向かう。

 大方の予想通り、「サボるとは何事か!」とこっぴどく叱られた。

 そして、夏休みの宿題にプラスしてレポート提出を命じられるという、最悪の結末を迎えたのだった。

 

 私はがっくりと肩を落としながら教室へ戻る。

 

 「あ! 楓花じゃん! どこ行ってたの!?」

 

 教室に入るなり、キンキン声の紗奈が駆け寄ってくる。

 

 「あはは……怒られちゃった」

 

 「そりゃそうでしょ! あんた勇気あるね! あの先生の授業サボるとか、マジでやばくない?」

 

 「おかげで夏休みの宿題に、レポートがプラスされちゃいました〜!」

 

 ぺろっと舌を出して頭を掻くと、紗奈は露骨に顔をしかめた。

 

 「うわぁ……つら……」

 

 同情のこもった視線を向けられる。

 ふと梨乃の方を見ると、彼女は腕を組みながら無言の圧をかけてきた。

 

 ──私は絶対に手伝わないからね。

 

 目がそう語っている。

 

 ──薄情者……。

 

 私は同じく目で返す。

 

 私は同じく目で返す。

 梨乃とは、いつもこうして軽口を叩き合う仲だ。

 呆れながらも、なんだかんだで助けてくれる、頼れる親友。

 

 席へ向かいながら、ふと無意識に佐野さんの姿を探していた。

 しかし、どこにもいない。

 まるで煙のように、跡形もなく消えてしまっていた。

 

 「ふうちゃん、もうサボっちゃダメだよ」

 

 「うん……反省してます……」

 

 肩を落として言うと、梨乃は大げさに肩をすくめて見せた。

 

 「もう! 本当に心配したんだからね!」

 

 叱りつつも、どこか優しさが滲む言葉。

 それから、梨乃はさっき途中だった話を再開した。

 そうだ、聞く約束だったんだ。

 

 でも——どうしても集中できなかった。

 言葉は耳に入っているはずなのに、意識は遠くへ漂ってしまう。

 無意識のうちに、脳裏をよぎるのは佐野さんのことばかりだった。

 

 「もう! ふうちゃん! 全然集中してないでしょ!」

 

 頬をぷくっと膨らませた梨乃が、じとっとした目でこちらを見る。

 

 「……佐野さんのこと?」

 

 ドキリとした。

 

 「あ……うん。ごめんね」

 

 梨乃には、こういうところを見抜かれる。

 誤魔化すつもりもなく、素直に頷いた。

 

 「佐野さん、どこに行ったか知らない?」

 

 「ううん、見てないよ」

 

 梨乃は首を傾げながら、少し考えるように目を伏せた。

 

 「佐野さん、たまにいなくなるよ」

 

 ぽつりと漏れた言葉に、私は思わず息を呑む。

 

 「そう……なんだ……」

 

 知らなかった。

 佐野さんはいつも静かに本を読んでいるだけの子だと思っていた。

 でも、本当は気づかないところで、ふっとどこかへ消えてしまうことがあるのかもしれない。

 

 「ねえ、ふうちゃん」

 

 梨乃の声が、少し低くなった。

 

 「今まで佐野さんのことなんて全然気にしてなかったじゃない。なのに、どうしてそんなに気にしてるの?」

 

 梨乃の視線がじっと私を捉える。

 まるで探るように、少しじんわりとした熱を帯びた目。

 

 「……それは……ちょっと言えないかも……」

 

 私は視線を逸らした。

 誤魔化すつもりなんてなかったのに、言葉が詰まる。

 どう説明すればいいのか、わからなかった。

 

 「言えないことなんだ……?」

 

 梨乃は、ますますじっとりとした目で私を見つめる。

 

 沈黙が落ちる。

 

 「……そっか」

 

 そう言いながらも、梨乃の視線はまだ私を探っていた。

 その目が、どこかもやもやとした感情を滲ませているような気がして、私は落ち着かなくなった。

 

 「と、とにかく!」

 

 私は慌てて手を振り、無理やり話を打ち切ろうとする。

 

 「何があったかは秘密!でも、私の親友は梨乃だから!」

 

 勢いよくそう宣言すると、梨乃はぽかんと目を丸くした。

 そして、すぐに怪訝そうな顔になる。

 

 「……なんで急にそんなこと言うの?」

 

 鋭い。

 梨乃は、本当に鋭い。

 

 誤魔化せていないと悟った私は、思考を瞬時に切り替えた。

 ここはもう、力技でいくしかない……!

 

 「疑う子はこうだ!!」

 

 ガシッ!!

 

 私は反射的に梨乃の胸を鷲掴みにした。

 

 「ひゃああっ!? ふ、ふうちゃん!?」

 

 梨乃が顔を真っ赤にしながら飛び跳ねる。

 

 「うわ、すごい弾力……梨乃って、ほんと成長したよねぇ〜」

 

 感触を確かめるように、わしわしと揉んでみる。

 

 「や、やめてよ!! も、もう! ふうちゃんのバカ!!」

 

 バシンッ!

 

 勢いよく私の手を振り払った梨乃は、頬をぷくーっと膨らませた。

 でも、その表情はどこか呆れ半分、安心半分といった感じだった。

 

「今度はもっと触らせてよ」

 

 ニヤリと笑みを浮かべ、梨乃の胸元をチラッと見る。

 

 「ふうちゃんのエッチ……」

 

 梨乃はジトっとした目で、ますます眉間に皺を寄せながら睨んできた。

 

 「それだけ、梨乃のおっぱいは魅力的なの!」

 

 私は堂々と胸を張る。

 

 「エッチ……」

 

 梨乃の視線がさらに冷たくなる。

 

 「だって、ふわふわで、プルンプルンで、ずっしりしてて……えへへ……」

 

 思わずニヤつきながら手をわきわきと動かしてみせると、梨乃はさっと後ずさる。

 

 「……本気で変態だよね?」

 

 「おっぱいは世界の宝だよ!」

 

 「ふうちゃんが言うと説得力がないんだよ!」

 

 バシッ!!

 

 梨乃の拳骨が容赦なく頭に落ちた。

 

「いったーい! 女の子がそんなことしちゃダメだよ!」

 

「ふうちゃんはこうでもしないと分からないでしょ!? 今度触ったら本気で怒るからね!?」

 

 梨乃は頬を赤らめながら、両手で胸をガードする。

 

 「むぅ……ケチ……」

 

 私が口を尖らせると、梨乃はさらに睨みをきかせた。

 

 「本当に反省してる!?」

 

 「……次はもっと優しく触るね?」

 

 「してないじゃん!!」

 

 バシッ!!

 

 再び拳骨が落ちる。私は頭を抱えながら、机に突っ伏した。

 

結局その日、佐野さんが教室に戻ってくることはなかった。どうやら途中で早退したらしい。

 

 授業が終わり、夕暮れに染まる帰り道。

私は梨乃と別れ、ひとりで歩いていた。

 

──そのときだった。

 

ふと、視線を感じる。

 

なんとなく顔を上げると、道の先に誰かが立っていた。

まっすぐに、私を見つめている。

 

佐野衣織。

 

夕日に照らされた影が、長く伸びる。

街灯がまだ点かない薄暮の時間。空気がじっとりと湿っている。

静かな夕闇の中で、彼女は無言で立っていた。

 

「えっ!? 佐野さん!? なんでここに……?」

 

驚きの声を上げる私をよそに、彼女はじっとこちらを見つめる。

表情は読めない。

でも、瞳の奥には、何か確かな意志のようなものが揺れていた。

 

私は、思わず足を止める。

ほんの数メートル先なのに、やけに距離が遠く感じた。

 

──引き寄せられる。

 

そんな感覚だった。

 

衣織が、一歩、ゆっくりと距離を詰める。

夕陽の逆光に照らされ、彼女の輪郭がぼんやりと揺れる。

 

「……条件。」

 

「え?」

 

「夏休み、私に付き合ってくれるんでしょ?」

 

「……言ったけど……」

 

「二つある。」

 

佐野さんの声は、静かに、けれど確実に私の鼓膜を圧迫する。

 

「一つは──いついかなる時でも、呼び出したらすぐに来ること。」

 

「そしてもう一つは──」

 

「どんな命令でも、絶対に聞くこと。」

 

その言葉が、夕暮れの空気に溶けていく。

 

私は、何も言えなかった。

 

「……それは……」

 

思わず、喉を鳴らす。

この条件を受け入れたら、私は──。

 

ためらう私を見て、衣織はわずかに首を傾げた。

そして、ゆっくりと近づいてくる。

 

気づくと、手首を掴まれていた。

 

「……嫌なら、ここでする?」

 

低く、静かな声。

まるで、何かを試すような響きだった。

 

「……それは、嫌だ……」

 

かすれた声で、そう答える。

それしか言えなかった。

 

衣織は、ほんの少しだけ目を細めた。

そして、そっと耳元で囁く。

 

「……じゃあ、受け入れて。」

 

小さな、けれど確かな圧を持った言葉。

甘い響きなのに、じわりと肌に染み込んでくるような声だった。

 

私は、喉を鳴らし、恐る恐る口を開く。

 

「……わかった……受け入れる……」

 

その瞬間だった。

 

衣織はふっと微笑む。

それは、どこか満足げで、それでいて背筋を凍らせるような笑みだった。

 

「……いい子。」

 

その指先が、私の首筋をなぞる。

ぞわりとした感覚が背筋を這い上がる。

 

「支配の象徴、用意するね。」

 

支配……象徴?

 

意味がわからない。

私は、一体、何をされるの?

 

戸惑いの色を浮かべる私の表情を見て、衣織はもう一度、柔らかく微笑んだ。

その笑みは、妙に穏やかで、それでいて、どこかひどく冷たい。

 

「……また明日。明日からだから。」

 

それだけ言うと、衣織はくるりと踵を返し、夕暮れの道をゆっくりと歩き去っていった。

 

長く伸びる影が、不気味に揺れる。

 

──その背中を、私はただ呆然と見送ることしかできなかった。

 

家までの道を歩きながら、私は自分の腕を撫でる。

衣織に掴まれていた部分が、まだじんわりと熱を持っているようだった。

 

気づくと、いつの間にか足が速くなっていた。

 

逃げたい。

 

でも、それはもう遅いのかもしれない。

 

衣織の言葉が耳の奥で反響する。

 

──「支配の象徴、用意するね。」

 

あの子は、一体、何を考えているの?

私は……どうなってしまうの?

 

ざわり、と風が木々を揺らす。

けれど、その音すら、まるで耳鳴りのように響いた。

 

やがて家に辿り着くと、勢いよくドアを開け、飛び込むように中へ駆け込む。

 

バタンッ!

 

扉を閉め、鍵をかける。

 

──これで、大丈夫。

 

それなのに。

 

まだ、背後に誰かが立っているような気がした。

 

恐る恐る振り返る。

 

……もちろん、誰もいない。

 

でも。

 

それでも。

 

「──また明日。」

 

あの言葉が、まるで呪いのように耳にこびりついて離れなかった。

 

ベッドに倒れ込むと、息を整えながら天井を見つめた。

 

──佐野さん。

 

この短時間で、私は完全に彼女に支配されていた。

 

たった数時間前まで、私は彼女のことをほとんど知らなかったのに。

今は、彼女の姿が、声が、瞳が、私の思考を締め付けて離さない。

 

思い出すのは、あの深い瞳。

 

どこまでも静かで、深くて、何も映していないようで──

それでいて、抗いがたい吸引力を持っていた。

 

「……おかしいよ、あの子……」

 

呟いた声は、自分でも驚くほど震えていた。

 

心臓の鼓動が、まだ収まらない。

まるで彼女に触れられた痕跡が、体に刻み込まれたかのようだった。

 

──”明日からだから”

 

その言葉が、脳の奥深くにこびりついている。

 

明日、私はどうなってしまうのだろう?

 

わからない。

だけど、確かなことがひとつだけある。

 

もう、私は彼女から逃げられない。

 

恐怖と不安に飲み込まれながら、私は強く目を閉じた。

 

けれど、閉じたまぶたの裏には、彼女の微笑みが焼き付いていた。

 

つづく

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