教室へ戻る途中、私の頭の中は佐野さんのことでいっぱいだった。
あまりにも強烈な出来事。
今まで意識したことすらなかった同級生が、たった数十分の間にこんなにも鮮明な存在になってしまうなんて。
──なんなの、あれ……。
考えがまとまらないまま扉を開けると、待ち構えていた梨乃が、頬をぷくっと膨らませて詰め寄ってきた。
「ちょっと! ふうちゃん!? どこ行ってたの!? もう授業終わっちゃったよ!?」
ぷんぷんと怒る声が、蒸し暑い教室に響く。
しまった。休み時間がとっくに終わってるなんて、すっかり忘れていた。
「……あれ?」
間抜けな声が口をつく。
梨乃は呆れたようにため息をつき、追い打ちをかけるように言った。
「先生、カンカンだったよ! “職員室に来なさい” だって!」
──終わった。
私は反射的に頭を抱えた。
そういえば今日の次の授業、生活指導の怖い先生だったじゃん……!
泣きそうな顔で梨乃を見つめると、彼女は呆れたように首を横に振る。
──すぐに謝ってきなさい。
言葉にせずとも、梨乃の目はそう語っていた。
せめて、佐野さんも一緒なら……と思い、教室を見渡す。
一緒に怒られに行こうとしたが、すでに彼女の姿はどこにもなかった。
諦めて、勇気を振り絞り、一人で職員室へ向かう。
大方の予想通り、「サボるとは何事か!」とこっぴどく叱られた。
そして、夏休みの宿題にプラスしてレポート提出を命じられるという、最悪の結末を迎えたのだった。
私はがっくりと肩を落としながら教室へ戻る。
「あ! 楓花じゃん! どこ行ってたの!?」
教室に入るなり、キンキン声の紗奈が駆け寄ってくる。
「あはは……怒られちゃった」
「そりゃそうでしょ! あんた勇気あるね! あの先生の授業サボるとか、マジでやばくない?」
「おかげで夏休みの宿題に、レポートがプラスされちゃいました〜!」
ぺろっと舌を出して頭を掻くと、紗奈は露骨に顔をしかめた。
「うわぁ……つら……」
同情のこもった視線を向けられる。
ふと梨乃の方を見ると、彼女は腕を組みながら無言の圧をかけてきた。
──私は絶対に手伝わないからね。
目がそう語っている。
──薄情者……。
私は同じく目で返す。
私は同じく目で返す。
梨乃とは、いつもこうして軽口を叩き合う仲だ。
呆れながらも、なんだかんだで助けてくれる、頼れる親友。
席へ向かいながら、ふと無意識に佐野さんの姿を探していた。
しかし、どこにもいない。
まるで煙のように、跡形もなく消えてしまっていた。
「ふうちゃん、もうサボっちゃダメだよ」
「うん……反省してます……」
肩を落として言うと、梨乃は大げさに肩をすくめて見せた。
「もう! 本当に心配したんだからね!」
叱りつつも、どこか優しさが滲む言葉。
それから、梨乃はさっき途中だった話を再開した。
そうだ、聞く約束だったんだ。
でも——どうしても集中できなかった。
言葉は耳に入っているはずなのに、意識は遠くへ漂ってしまう。
無意識のうちに、脳裏をよぎるのは佐野さんのことばかりだった。
「もう! ふうちゃん! 全然集中してないでしょ!」
頬をぷくっと膨らませた梨乃が、じとっとした目でこちらを見る。
「……佐野さんのこと?」
ドキリとした。
「あ……うん。ごめんね」
梨乃には、こういうところを見抜かれる。
誤魔化すつもりもなく、素直に頷いた。
「佐野さん、どこに行ったか知らない?」
「ううん、見てないよ」
梨乃は首を傾げながら、少し考えるように目を伏せた。
「佐野さん、たまにいなくなるよ」
ぽつりと漏れた言葉に、私は思わず息を呑む。
「そう……なんだ……」
知らなかった。
佐野さんはいつも静かに本を読んでいるだけの子だと思っていた。
でも、本当は気づかないところで、ふっとどこかへ消えてしまうことがあるのかもしれない。
「ねえ、ふうちゃん」
梨乃の声が、少し低くなった。
「今まで佐野さんのことなんて全然気にしてなかったじゃない。なのに、どうしてそんなに気にしてるの?」
梨乃の視線がじっと私を捉える。
まるで探るように、少しじんわりとした熱を帯びた目。
「……それは……ちょっと言えないかも……」
私は視線を逸らした。
誤魔化すつもりなんてなかったのに、言葉が詰まる。
どう説明すればいいのか、わからなかった。
「言えないことなんだ……?」
梨乃は、ますますじっとりとした目で私を見つめる。
沈黙が落ちる。
「……そっか」
そう言いながらも、梨乃の視線はまだ私を探っていた。
その目が、どこかもやもやとした感情を滲ませているような気がして、私は落ち着かなくなった。
「と、とにかく!」
私は慌てて手を振り、無理やり話を打ち切ろうとする。
「何があったかは秘密!でも、私の親友は梨乃だから!」
勢いよくそう宣言すると、梨乃はぽかんと目を丸くした。
そして、すぐに怪訝そうな顔になる。
「……なんで急にそんなこと言うの?」
鋭い。
梨乃は、本当に鋭い。
誤魔化せていないと悟った私は、思考を瞬時に切り替えた。
ここはもう、力技でいくしかない……!
「疑う子はこうだ!!」
ガシッ!!
私は反射的に梨乃の胸を鷲掴みにした。
「ひゃああっ!? ふ、ふうちゃん!?」
梨乃が顔を真っ赤にしながら飛び跳ねる。
「うわ、すごい弾力……梨乃って、ほんと成長したよねぇ〜」
感触を確かめるように、わしわしと揉んでみる。
「や、やめてよ!! も、もう! ふうちゃんのバカ!!」
バシンッ!
勢いよく私の手を振り払った梨乃は、頬をぷくーっと膨らませた。
でも、その表情はどこか呆れ半分、安心半分といった感じだった。
「今度はもっと触らせてよ」
ニヤリと笑みを浮かべ、梨乃の胸元をチラッと見る。
「ふうちゃんのエッチ……」
梨乃はジトっとした目で、ますます眉間に皺を寄せながら睨んできた。
「それだけ、梨乃のおっぱいは魅力的なの!」
私は堂々と胸を張る。
「エッチ……」
梨乃の視線がさらに冷たくなる。
「だって、ふわふわで、プルンプルンで、ずっしりしてて……えへへ……」
思わずニヤつきながら手をわきわきと動かしてみせると、梨乃はさっと後ずさる。
「……本気で変態だよね?」
「おっぱいは世界の宝だよ!」
「ふうちゃんが言うと説得力がないんだよ!」
バシッ!!
梨乃の拳骨が容赦なく頭に落ちた。
「いったーい! 女の子がそんなことしちゃダメだよ!」
「ふうちゃんはこうでもしないと分からないでしょ!? 今度触ったら本気で怒るからね!?」
梨乃は頬を赤らめながら、両手で胸をガードする。
「むぅ……ケチ……」
私が口を尖らせると、梨乃はさらに睨みをきかせた。
「本当に反省してる!?」
「……次はもっと優しく触るね?」
「してないじゃん!!」
バシッ!!
再び拳骨が落ちる。私は頭を抱えながら、机に突っ伏した。
結局その日、佐野さんが教室に戻ってくることはなかった。どうやら途中で早退したらしい。
授業が終わり、夕暮れに染まる帰り道。
私は梨乃と別れ、ひとりで歩いていた。
──そのときだった。
ふと、視線を感じる。
なんとなく顔を上げると、道の先に誰かが立っていた。
まっすぐに、私を見つめている。
佐野衣織。
夕日に照らされた影が、長く伸びる。
街灯がまだ点かない薄暮の時間。空気がじっとりと湿っている。
静かな夕闇の中で、彼女は無言で立っていた。
「えっ!? 佐野さん!? なんでここに……?」
驚きの声を上げる私をよそに、彼女はじっとこちらを見つめる。
表情は読めない。
でも、瞳の奥には、何か確かな意志のようなものが揺れていた。
私は、思わず足を止める。
ほんの数メートル先なのに、やけに距離が遠く感じた。
──引き寄せられる。
そんな感覚だった。
衣織が、一歩、ゆっくりと距離を詰める。
夕陽の逆光に照らされ、彼女の輪郭がぼんやりと揺れる。
「……条件。」
「え?」
「夏休み、私に付き合ってくれるんでしょ?」
「……言ったけど……」
「二つある。」
佐野さんの声は、静かに、けれど確実に私の鼓膜を圧迫する。
「一つは──いついかなる時でも、呼び出したらすぐに来ること。」
「そしてもう一つは──」
「どんな命令でも、絶対に聞くこと。」
その言葉が、夕暮れの空気に溶けていく。
私は、何も言えなかった。
「……それは……」
思わず、喉を鳴らす。
この条件を受け入れたら、私は──。
ためらう私を見て、衣織はわずかに首を傾げた。
そして、ゆっくりと近づいてくる。
気づくと、手首を掴まれていた。
「……嫌なら、ここでする?」
低く、静かな声。
まるで、何かを試すような響きだった。
「……それは、嫌だ……」
かすれた声で、そう答える。
それしか言えなかった。
衣織は、ほんの少しだけ目を細めた。
そして、そっと耳元で囁く。
「……じゃあ、受け入れて。」
小さな、けれど確かな圧を持った言葉。
甘い響きなのに、じわりと肌に染み込んでくるような声だった。
私は、喉を鳴らし、恐る恐る口を開く。
「……わかった……受け入れる……」
その瞬間だった。
衣織はふっと微笑む。
それは、どこか満足げで、それでいて背筋を凍らせるような笑みだった。
「……いい子。」
その指先が、私の首筋をなぞる。
ぞわりとした感覚が背筋を這い上がる。
「支配の象徴、用意するね。」
支配……象徴?
意味がわからない。
私は、一体、何をされるの?
戸惑いの色を浮かべる私の表情を見て、衣織はもう一度、柔らかく微笑んだ。
その笑みは、妙に穏やかで、それでいて、どこかひどく冷たい。
「……また明日。明日からだから。」
それだけ言うと、衣織はくるりと踵を返し、夕暮れの道をゆっくりと歩き去っていった。
長く伸びる影が、不気味に揺れる。
──その背中を、私はただ呆然と見送ることしかできなかった。
家までの道を歩きながら、私は自分の腕を撫でる。
衣織に掴まれていた部分が、まだじんわりと熱を持っているようだった。
気づくと、いつの間にか足が速くなっていた。
逃げたい。
でも、それはもう遅いのかもしれない。
衣織の言葉が耳の奥で反響する。
──「支配の象徴、用意するね。」
あの子は、一体、何を考えているの?
私は……どうなってしまうの?
ざわり、と風が木々を揺らす。
けれど、その音すら、まるで耳鳴りのように響いた。
やがて家に辿り着くと、勢いよくドアを開け、飛び込むように中へ駆け込む。
バタンッ!
扉を閉め、鍵をかける。
──これで、大丈夫。
それなのに。
まだ、背後に誰かが立っているような気がした。
恐る恐る振り返る。
……もちろん、誰もいない。
でも。
それでも。
「──また明日。」
あの言葉が、まるで呪いのように耳にこびりついて離れなかった。
ベッドに倒れ込むと、息を整えながら天井を見つめた。
──佐野さん。
この短時間で、私は完全に彼女に支配されていた。
たった数時間前まで、私は彼女のことをほとんど知らなかったのに。
今は、彼女の姿が、声が、瞳が、私の思考を締め付けて離さない。
思い出すのは、あの深い瞳。
どこまでも静かで、深くて、何も映していないようで──
それでいて、抗いがたい吸引力を持っていた。
「……おかしいよ、あの子……」
呟いた声は、自分でも驚くほど震えていた。
心臓の鼓動が、まだ収まらない。
まるで彼女に触れられた痕跡が、体に刻み込まれたかのようだった。
──”明日からだから”
その言葉が、脳の奥深くにこびりついている。
明日、私はどうなってしまうのだろう?
わからない。
だけど、確かなことがひとつだけある。
もう、私は彼女から逃げられない。
恐怖と不安に飲み込まれながら、私は強く目を閉じた。
けれど、閉じたまぶたの裏には、彼女の微笑みが焼き付いていた。
つづく