オブスキュラに閉じ込めたい   作:多治見国繁

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第3話 支配の幕開け

憂鬱だった。

 

学校に行くのがこんなに嫌だと感じたのは、たぶん初めて。

それもこれも──佐野さんのせいだ。

 

支配。

 

たった二文字のその言葉が、まるで呪いのように心の奥に巣食っている。

考えないようにすればするほど、支配されていく。

 

ベッドの上でゴロゴロしながら、悶々と考え込む。

 

──行きたくない。

 

でも、考えれば考えるほど、ますます頭が重くなる。

 

「楓花〜! 早く起きなさい! 学校に遅れるわよ!」

 

階下から、お母さんの声が響いた。

 

……うるさい。

 

仕方ない。

病気でもないのに休むなんて言えるわけがないし、お母さんが許すはずもない。

結局、私は渋々起き上がり、髪を整えて制服に着替えた。

 

リビングへ降りていくと、お兄ちゃんが朝ごはんを食べていた。

 

「遅かったな、楓花。……まさか太って制服入らなかったのか?」

 

……は?

 

今、それどころじゃないのに。

第一、女の子に向かってそんなこと言う? 信じられない。

 

「はぁ!? 何言ってんの!? バカお兄ちゃん!! そんなわけないでしょ!」

 

「あはは、冗談だよ。今日も楓花は可愛いよ。」

 

お兄ちゃんはまた茶化してきた。

たまにウザいけど、基本的には私大好きのシスコンだと思う。

何かと 「可愛い可愛い」 とうるさいし、悪い気はしないけど……少しキモい。

 

適当にあしらいながら朝食を食べる。

けれど、その間も 佐野さんのことばかり考えていた。

 

──頭の中まで、支配されてるみたい。

 

目の前のご飯の味がしない。

せっかくの朝ごはんなのに、ちっとも美味しくない。

 

もういい。無理やりお茶で流し込み、席を立った。

 

身支度を済ませ、学校へ向かう。

 

「じゃあ、行ってきます!」

 

お母さんに声をかけ、玄関の戸を開ける。

 

──その瞬間、心臓がドクンと跳ねた。

 

次の鼓動が異様に大きく響き、全身に広がる。

 

そこにいたのだ。

 

佐野さんが。

 

玄関の前に、静かに、まるで当然のことのように立っていた。

 

「……おはよう……」

 

その声が、朝の湿った空気に溶ける。

 

「……どうしてここにいるの?」

 

自分でも驚くほど、声が掠れた。

 

佐野さんは、じっと私を見つめたまま、静かに微笑んだ。

そして、まるで 既に決まっていたことを告げるように、 言葉を紡ぐ。

 

「……あなたは私を知らない。でも、私は知っているの」

 

心臓が跳ねる。

 

「……何が目的……?」

 

絞り出すように言うと、また微笑む。

けれど、それは “愛想笑い” ではなかった。

 

どこか、意味を持つ笑みだった。

 

「……家族を知った」

 

ゾクリと、寒気が背中を這い上がる。

 

──家族を、知った?

 

「……っ」

 

喉の奥がこわばる。何かが決定的に変わってしまった気がした。

 

「あら、おともだち?」

 

不意に、お母さんの明るい声が響く。

佐野さんに気づいたお母さんが、玄関の外へ出てきた。

 

「佐野……衣織です……」

 

佐野さんは、静かに頭を下げる。

 

「あら、楓花がいつもお世話になってます。この子、こんな子だけど、仲良くしてあげてね。よろしくね」

 

無邪気な声。

何の疑いも持たず、微笑むお母さん。

 

その横で、佐野さんは 何も変わらない微笑みを浮かべたまま、ぺこりと頭を下げる。

 

私だけが、息を詰めていた。

 

「ほら、学校に遅れるわよ!」

 

お母さんが背中を押すように促す。

 

仕方ない。

 

逃げられない。

 

私は、佐野さんと並んで歩き出した。

家の前から、学校へ向かって。

 

お母さんの視線がある間、佐野さんは何も言わなかった。

ただ、私の少し後ろを静かについてくる。

 

けれど、背後からの気配が妙に重い。

言葉にはならない、見えない圧力。

 

そして、お母さんの姿が見えなくなったその瞬間。

 

佐野さんは、何の感情もない声で言った。

 

「……余計なことを話したら、あなたが私の裸を見たこと、言うから。家族に」

 

時間が、一瞬止まる。

 

心臓が跳ねる。

 

体が、びくりと固まる。

 

振り向けない。

けれど、佐野さんの視線が、鋭い針のように突き刺さるのがわかる。

 

──冷静すぎる。

まるで、最初からこの展開を想定していたみたいに。

 

喉がカラカラに渇く。

 

「……っ」

 

言葉が出ない。

 

佐野さんは、そんな私の反応すら、どこか楽しんでいるようだった。

 

「……やめて……家族は巻き込まないでよ……」

 

絞り出すように言った。

けれど、自分の声がひどく弱々しく聞こえる。

 

拒絶の言葉なのに、説得力がない。

むしろ、怯えて縋るような響きになってしまった。

 

佐野さんは、まるで風が吹いた程度のことのように、微かにまばたきをする。

そして、冷たく、当たり前のように告げた。

 

「いずれあなたは……私を家に上げる……」

 

──何?

 

「……私はあなたを掴んでいる……

逃げられると思わないで……」

 

言葉が、カチリと音を立てて嵌まる。

まるで、最初から決められていた手順のひとつだったみたいに。

 

ぞわりと背筋を這う感覚。

 

「……抵抗するなら……」

 

佐野さんは、そこでふと、わずかに首を傾げた。

まるで、迷いのない刃物を手にしたまま、次の手を見せるかどうか考えているように。

 

そして、淡々と続けた。

 

「梨乃さんにも……話すから……」

 

心臓が跳ねる。

 

「あなたがしたこと……」

 

鼓動が、耳の奥でうるさく響く。

 

「……あなたの大切な親友、松田梨乃」

 

指先が、じんと冷たくなる。

 

「彼女の秘密も、全部……私は知ってる」

 

息が、止まった。

 

喉の奥がひりつくように乾いていく。

 

「……秘密って、何……?」

 

言葉を発しながら、自分の声が震えているのがわかった。

 

佐野さんは、ゆっくりと瞬きをする。

まるで、その問いを待っていたかのように。

 

そして、唇の端をわずかに持ち上げた。

 

「……あなたは、本当の梨乃さんを知らない……」

 

ぞくり、と悪寒が走る。

 

「彼女が何を望んでいるのか……」

 

その声は、淡々としているのに、

なぜかひどく甘い響きを帯びていた。

 

「……あなたの秘密を梨乃さんが知ったら……」

 

佐野さんは、小さく息をついて、ふっと笑う。

 

「ふふっ……」

 

楓花の背中を冷たい何かが這い上がる。

 

笑った。

 

──楽しんでる?

 

怖い。

 

「……っ」

 

言葉が出ない。

 

佐野さんは、そんな楓花の反応すら、どこか愛おしむように見つめていた。

 

「あなたは絶対逃さない。あなたは私の手段だから。やっと見つけた。」

 

佐野さんは、じっと私を見据えた。

静かで、淡々とした声。

それなのに、肌にじわりと張り付くような圧がある。

 

──手段?

 

意味がわからない。

でも、わからないままが一番怖い。

 

「……手段って、何……?」

 

喉の奥が乾く。

声を出した瞬間、もっと怖いことを聞かされる気がして、言葉が震えた。

 

佐野さんは、瞬きひとつせずに私を見つめている。

 

「……っ」

 

寒気がする。

なのに、動けない。

 

小さな女の子。

か細くて、どこにでもいるような静かな子。

それなのに──

 

── 怖い。

 

「……怖い……」

 

思わず、声に出してしまった。

 

佐野さんは、ほんのわずかに唇を持ち上げる。

 

「……ふふっ」

 

まるで、その言葉を待っていたかのように。

 

── 怖い。

 

無垢な顔の少女に、知らないところで好きにされることが。

 

気づかないうちに、

知らない間に、

どこかで決められていたみたいに、

私はこの子の計画の中に、組み込まれていたのかもしれない。

 

私の世界は、いつから彼女の掌にあったの?

 

ぞくりと、背筋が粟立つ。

 

「綺麗な首……きっと似合う……待ってて……」

 

佐野さんの指先が、そっと私の首筋に触れる。

その感触は驚くほど冷たく、けれど柔らかかった。

 

「やめて!」

 

私は反射的に叫び、肩をすくめる。

思わず後ずさろうとするが、佐野さんは微動だにせず、ただじっと私を見つめていた。

 

そして、意味ありげに、ゆっくりと笑う。

 

「……すぐにわかる。これからのあなたは、すぐにわかる」

 

囁くような声が、肌に絡みつく。

その言葉の意味は、わからない。

 

でも——わかりたくないと思った。

 

「壊されたくなければ、抵抗しないほうがいい。」

 

静かな声だった。

感情が込められていない、ただ淡々とした言葉。

なのに、それは鋭い刃のように私の意識を抉った。

 

逃げたい。

でも、逃げられない。

 

喉がひどく乾く。

舌が貼り付くようで、うまく言葉が出てこなかった。

 

「……わかったから……」

 

それを言うのが精一杯だった。

 

しばらく、沈黙が落ちる。

 

佐野さんは、じっと私を見下ろしていた。

まるで、私の「覚悟」を測るかのように。

 

静寂の中で、遠くで蝉の声が響く。

じりじりと肌を焦がす夏の陽射しが、私の背中に重くのしかかる。

だけど、佐野さんのそばだけは、妙に空気が冷たかった。

 

やがて、彼女はふっと微笑む。

 

「じゃあ、今日から楽しみにしてる。始まりだよ。全ての。」

 

——全ての?

 

その言葉の意味を考える間もなく、佐野さんはふっと踵を返した。

 

すっと、煙のように。

 

一瞬前までそこにいたはずなのに、気づけばもう姿は見えなかった。

まるで、存在そのものが幻だったかのように。

 

私は、ぽつんと一人、その場に取り残される。

 

足が動かない。

息をするのすら、忘れてしまいそうだった。

 

佐野さんが消えた方向を、ただ呆然と見つめる。

 

「……何なの……」

 

自分でも驚くほど小さな声が漏れた。

 

今起きたことは、現実?

それとも、何かの悪い夢?

 

地面に影が揺れる。

学校へ向かう生徒たちが、遠くを歩いているのが見える。

彼らにとっての「今日」は、いつもと変わらない日常の延長線上にあるのだろう。

 

でも、私にとっては違う。

 

私の「日常」は、今、確実に崩れた。

これまでの私と、これからの私は、きっと違う。

それを理解した瞬間、背筋に冷たいものが走る。

 

「……始まり、か……」

 

つぶやいて、思わず喉を鳴らす。

 

佐野さんの言葉は、ただの脅しではなかった。

彼女は、本当に「始める」のだ。

 

何かを。

 

そして、それに抗えないのだと、私はもう気づいていた。

 

けれど——

 

「本当に……逃げられないのかな……」

 

かすかな期待にも似た思いが、心の奥に芽生えた。

今なら、まだ間に合うかもしれない。

今なら、まだ。

 

でも、そう思った瞬間。

 

——カシャ。

 

不意に、小さな音が耳を打つ。

 

反射的に振り返る。

 

誰もいない。

 

でも、確かに聞こえた。

シャッターの音。

 

冷や汗が滲む。

 

……気のせい?

そんなわけない。

私は確かに、聞いた。

 

全身が粟立つ。

 

——見られている。

 

それだけは、確信できた。

 

佐野さんはもういない。

なのに、どこかで、誰かが私を見ている。

 

心臓が高鳴る。

さっきまでの夏の暑さが、嘘みたいに遠ざかる。

 

早く、学校に行かなきゃ——

いや、行って何になる?

 

佐野さんが「始める」と言ったのは、学校に行ったら終わる話じゃない。

どこにいても、私は逃げられない。

 

「……どうしろっていうの……」

 

誰に向けたわけでもなく、つぶやいた。

 

でも、その問いの答えは、きっともう決まっているのだろう。

 

佐野さんの言葉が、耳の奥で何度も反響する。

 

「……壊されたくなければ、抵抗しないほうがいい。」

 

——このまま、飲み込まれていくの?

 

それとも——

 

考えたくない。

 

私は、ぎゅっと拳を握りしめた。

 

空は、どこまでも青かった。

なのに、どこか遠くで、雨の音が聞こえたような気がした。

 

喉が詰まるような違和感が続く。

心臓が速く打ちすぎて、鼓動が痛い。

嫌な汗が背中を伝い、制服の生地がじっとりと肌に張りついている。

 

何かが違う。

 

私の世界は、もう元に戻らない気がする。

 

このまま学校に行けば、いつもと同じ教室、いつもと同じ授業が待っているはずなのに。

梨乃とお喋りして、他愛のないことで笑って——

そんな何気ない日常に、今日はどうしても馴染める気がしなかった。

 

ふと、自分の首に触れる。

 

佐野さんの手が触れた場所。

 

——あの手は、妙にしっくりきた。

 

冷たくて、柔らかくて、でも、それだけじゃない。

「違和感」と「納得」が同時に胸に込み上げる。

 

ぞくりと背筋が震える。

 

「……似合うって……何が……」

 

思わず呟いた声は、自分でも驚くほどかすれていた。

 

答えを知りたくない。

でも、何かが頭の奥で引っかかっている。

 

佐野さんが言った「始まり」。

「壊されたくなければ、抵抗しないほうがいい」。

 

それは、何を意味している?

何を——私に求めている?

 

まるで、すでに決められたレールの上を、気づかないうちに歩かされているような気がした。

 

視界の隅で、誰かが動いたような気がして振り返る。

 

——誰もいない。

 

けれど、胸の奥に重く沈んだ違和感は、消えなかった。

 

じわりと、指先が冷たくなる。

首筋に残る感触が、いつまでも消えなかった。

 

つづく

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