憂鬱だった。
学校に行くのがこんなに嫌だと感じたのは、たぶん初めて。
それもこれも──佐野さんのせいだ。
支配。
たった二文字のその言葉が、まるで呪いのように心の奥に巣食っている。
考えないようにすればするほど、支配されていく。
ベッドの上でゴロゴロしながら、悶々と考え込む。
──行きたくない。
でも、考えれば考えるほど、ますます頭が重くなる。
「楓花〜! 早く起きなさい! 学校に遅れるわよ!」
階下から、お母さんの声が響いた。
……うるさい。
仕方ない。
病気でもないのに休むなんて言えるわけがないし、お母さんが許すはずもない。
結局、私は渋々起き上がり、髪を整えて制服に着替えた。
リビングへ降りていくと、お兄ちゃんが朝ごはんを食べていた。
「遅かったな、楓花。……まさか太って制服入らなかったのか?」
……は?
今、それどころじゃないのに。
第一、女の子に向かってそんなこと言う? 信じられない。
「はぁ!? 何言ってんの!? バカお兄ちゃん!! そんなわけないでしょ!」
「あはは、冗談だよ。今日も楓花は可愛いよ。」
お兄ちゃんはまた茶化してきた。
たまにウザいけど、基本的には私大好きのシスコンだと思う。
何かと 「可愛い可愛い」 とうるさいし、悪い気はしないけど……少しキモい。
適当にあしらいながら朝食を食べる。
けれど、その間も 佐野さんのことばかり考えていた。
──頭の中まで、支配されてるみたい。
目の前のご飯の味がしない。
せっかくの朝ごはんなのに、ちっとも美味しくない。
もういい。無理やりお茶で流し込み、席を立った。
身支度を済ませ、学校へ向かう。
「じゃあ、行ってきます!」
お母さんに声をかけ、玄関の戸を開ける。
──その瞬間、心臓がドクンと跳ねた。
次の鼓動が異様に大きく響き、全身に広がる。
そこにいたのだ。
佐野さんが。
玄関の前に、静かに、まるで当然のことのように立っていた。
「……おはよう……」
その声が、朝の湿った空気に溶ける。
「……どうしてここにいるの?」
自分でも驚くほど、声が掠れた。
佐野さんは、じっと私を見つめたまま、静かに微笑んだ。
そして、まるで 既に決まっていたことを告げるように、 言葉を紡ぐ。
「……あなたは私を知らない。でも、私は知っているの」
心臓が跳ねる。
「……何が目的……?」
絞り出すように言うと、また微笑む。
けれど、それは “愛想笑い” ではなかった。
どこか、意味を持つ笑みだった。
「……家族を知った」
ゾクリと、寒気が背中を這い上がる。
──家族を、知った?
「……っ」
喉の奥がこわばる。何かが決定的に変わってしまった気がした。
「あら、おともだち?」
不意に、お母さんの明るい声が響く。
佐野さんに気づいたお母さんが、玄関の外へ出てきた。
「佐野……衣織です……」
佐野さんは、静かに頭を下げる。
「あら、楓花がいつもお世話になってます。この子、こんな子だけど、仲良くしてあげてね。よろしくね」
無邪気な声。
何の疑いも持たず、微笑むお母さん。
その横で、佐野さんは 何も変わらない微笑みを浮かべたまま、ぺこりと頭を下げる。
私だけが、息を詰めていた。
「ほら、学校に遅れるわよ!」
お母さんが背中を押すように促す。
仕方ない。
逃げられない。
私は、佐野さんと並んで歩き出した。
家の前から、学校へ向かって。
お母さんの視線がある間、佐野さんは何も言わなかった。
ただ、私の少し後ろを静かについてくる。
けれど、背後からの気配が妙に重い。
言葉にはならない、見えない圧力。
そして、お母さんの姿が見えなくなったその瞬間。
佐野さんは、何の感情もない声で言った。
「……余計なことを話したら、あなたが私の裸を見たこと、言うから。家族に」
時間が、一瞬止まる。
心臓が跳ねる。
体が、びくりと固まる。
振り向けない。
けれど、佐野さんの視線が、鋭い針のように突き刺さるのがわかる。
──冷静すぎる。
まるで、最初からこの展開を想定していたみたいに。
喉がカラカラに渇く。
「……っ」
言葉が出ない。
佐野さんは、そんな私の反応すら、どこか楽しんでいるようだった。
「……やめて……家族は巻き込まないでよ……」
絞り出すように言った。
けれど、自分の声がひどく弱々しく聞こえる。
拒絶の言葉なのに、説得力がない。
むしろ、怯えて縋るような響きになってしまった。
佐野さんは、まるで風が吹いた程度のことのように、微かにまばたきをする。
そして、冷たく、当たり前のように告げた。
「いずれあなたは……私を家に上げる……」
──何?
「……私はあなたを掴んでいる……
逃げられると思わないで……」
言葉が、カチリと音を立てて嵌まる。
まるで、最初から決められていた手順のひとつだったみたいに。
ぞわりと背筋を這う感覚。
「……抵抗するなら……」
佐野さんは、そこでふと、わずかに首を傾げた。
まるで、迷いのない刃物を手にしたまま、次の手を見せるかどうか考えているように。
そして、淡々と続けた。
「梨乃さんにも……話すから……」
心臓が跳ねる。
「あなたがしたこと……」
鼓動が、耳の奥でうるさく響く。
「……あなたの大切な親友、松田梨乃」
指先が、じんと冷たくなる。
「彼女の秘密も、全部……私は知ってる」
息が、止まった。
喉の奥がひりつくように乾いていく。
「……秘密って、何……?」
言葉を発しながら、自分の声が震えているのがわかった。
佐野さんは、ゆっくりと瞬きをする。
まるで、その問いを待っていたかのように。
そして、唇の端をわずかに持ち上げた。
「……あなたは、本当の梨乃さんを知らない……」
ぞくり、と悪寒が走る。
「彼女が何を望んでいるのか……」
その声は、淡々としているのに、
なぜかひどく甘い響きを帯びていた。
「……あなたの秘密を梨乃さんが知ったら……」
佐野さんは、小さく息をついて、ふっと笑う。
「ふふっ……」
楓花の背中を冷たい何かが這い上がる。
笑った。
──楽しんでる?
怖い。
「……っ」
言葉が出ない。
佐野さんは、そんな楓花の反応すら、どこか愛おしむように見つめていた。
「あなたは絶対逃さない。あなたは私の手段だから。やっと見つけた。」
佐野さんは、じっと私を見据えた。
静かで、淡々とした声。
それなのに、肌にじわりと張り付くような圧がある。
──手段?
意味がわからない。
でも、わからないままが一番怖い。
「……手段って、何……?」
喉の奥が乾く。
声を出した瞬間、もっと怖いことを聞かされる気がして、言葉が震えた。
佐野さんは、瞬きひとつせずに私を見つめている。
「……っ」
寒気がする。
なのに、動けない。
小さな女の子。
か細くて、どこにでもいるような静かな子。
それなのに──
── 怖い。
「……怖い……」
思わず、声に出してしまった。
佐野さんは、ほんのわずかに唇を持ち上げる。
「……ふふっ」
まるで、その言葉を待っていたかのように。
── 怖い。
無垢な顔の少女に、知らないところで好きにされることが。
気づかないうちに、
知らない間に、
どこかで決められていたみたいに、
私はこの子の計画の中に、組み込まれていたのかもしれない。
私の世界は、いつから彼女の掌にあったの?
ぞくりと、背筋が粟立つ。
「綺麗な首……きっと似合う……待ってて……」
佐野さんの指先が、そっと私の首筋に触れる。
その感触は驚くほど冷たく、けれど柔らかかった。
「やめて!」
私は反射的に叫び、肩をすくめる。
思わず後ずさろうとするが、佐野さんは微動だにせず、ただじっと私を見つめていた。
そして、意味ありげに、ゆっくりと笑う。
「……すぐにわかる。これからのあなたは、すぐにわかる」
囁くような声が、肌に絡みつく。
その言葉の意味は、わからない。
でも——わかりたくないと思った。
「壊されたくなければ、抵抗しないほうがいい。」
静かな声だった。
感情が込められていない、ただ淡々とした言葉。
なのに、それは鋭い刃のように私の意識を抉った。
逃げたい。
でも、逃げられない。
喉がひどく乾く。
舌が貼り付くようで、うまく言葉が出てこなかった。
「……わかったから……」
それを言うのが精一杯だった。
しばらく、沈黙が落ちる。
佐野さんは、じっと私を見下ろしていた。
まるで、私の「覚悟」を測るかのように。
静寂の中で、遠くで蝉の声が響く。
じりじりと肌を焦がす夏の陽射しが、私の背中に重くのしかかる。
だけど、佐野さんのそばだけは、妙に空気が冷たかった。
やがて、彼女はふっと微笑む。
「じゃあ、今日から楽しみにしてる。始まりだよ。全ての。」
——全ての?
その言葉の意味を考える間もなく、佐野さんはふっと踵を返した。
すっと、煙のように。
一瞬前までそこにいたはずなのに、気づけばもう姿は見えなかった。
まるで、存在そのものが幻だったかのように。
私は、ぽつんと一人、その場に取り残される。
足が動かない。
息をするのすら、忘れてしまいそうだった。
佐野さんが消えた方向を、ただ呆然と見つめる。
「……何なの……」
自分でも驚くほど小さな声が漏れた。
今起きたことは、現実?
それとも、何かの悪い夢?
地面に影が揺れる。
学校へ向かう生徒たちが、遠くを歩いているのが見える。
彼らにとっての「今日」は、いつもと変わらない日常の延長線上にあるのだろう。
でも、私にとっては違う。
私の「日常」は、今、確実に崩れた。
これまでの私と、これからの私は、きっと違う。
それを理解した瞬間、背筋に冷たいものが走る。
「……始まり、か……」
つぶやいて、思わず喉を鳴らす。
佐野さんの言葉は、ただの脅しではなかった。
彼女は、本当に「始める」のだ。
何かを。
そして、それに抗えないのだと、私はもう気づいていた。
けれど——
「本当に……逃げられないのかな……」
かすかな期待にも似た思いが、心の奥に芽生えた。
今なら、まだ間に合うかもしれない。
今なら、まだ。
でも、そう思った瞬間。
——カシャ。
不意に、小さな音が耳を打つ。
反射的に振り返る。
誰もいない。
でも、確かに聞こえた。
シャッターの音。
冷や汗が滲む。
……気のせい?
そんなわけない。
私は確かに、聞いた。
全身が粟立つ。
——見られている。
それだけは、確信できた。
佐野さんはもういない。
なのに、どこかで、誰かが私を見ている。
心臓が高鳴る。
さっきまでの夏の暑さが、嘘みたいに遠ざかる。
早く、学校に行かなきゃ——
いや、行って何になる?
佐野さんが「始める」と言ったのは、学校に行ったら終わる話じゃない。
どこにいても、私は逃げられない。
「……どうしろっていうの……」
誰に向けたわけでもなく、つぶやいた。
でも、その問いの答えは、きっともう決まっているのだろう。
佐野さんの言葉が、耳の奥で何度も反響する。
「……壊されたくなければ、抵抗しないほうがいい。」
——このまま、飲み込まれていくの?
それとも——
考えたくない。
私は、ぎゅっと拳を握りしめた。
空は、どこまでも青かった。
なのに、どこか遠くで、雨の音が聞こえたような気がした。
喉が詰まるような違和感が続く。
心臓が速く打ちすぎて、鼓動が痛い。
嫌な汗が背中を伝い、制服の生地がじっとりと肌に張りついている。
何かが違う。
私の世界は、もう元に戻らない気がする。
このまま学校に行けば、いつもと同じ教室、いつもと同じ授業が待っているはずなのに。
梨乃とお喋りして、他愛のないことで笑って——
そんな何気ない日常に、今日はどうしても馴染める気がしなかった。
ふと、自分の首に触れる。
佐野さんの手が触れた場所。
——あの手は、妙にしっくりきた。
冷たくて、柔らかくて、でも、それだけじゃない。
「違和感」と「納得」が同時に胸に込み上げる。
ぞくりと背筋が震える。
「……似合うって……何が……」
思わず呟いた声は、自分でも驚くほどかすれていた。
答えを知りたくない。
でも、何かが頭の奥で引っかかっている。
佐野さんが言った「始まり」。
「壊されたくなければ、抵抗しないほうがいい」。
それは、何を意味している?
何を——私に求めている?
まるで、すでに決められたレールの上を、気づかないうちに歩かされているような気がした。
視界の隅で、誰かが動いたような気がして振り返る。
——誰もいない。
けれど、胸の奥に重く沈んだ違和感は、消えなかった。
じわりと、指先が冷たくなる。
首筋に残る感触が、いつまでも消えなかった。
つづく