オブスキュラに閉じ込めたい   作:多治見国繁

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第4話 疑念

重い足取りのまま、学校に着いた。

 

体が鉛みたいに重い。

教室のドアを開ける瞬間、無意識に息を止める。

 

「……いる?」

 

恐る恐る、視線を滑らせる。

——いない。

 

佐野さんの姿は、どこにもなかった。

 

少しだけ、息を吐く。

それでも、心の奥にまとわりつくような違和感は消えなかった。

 

「ふうちゃん、おはよう!」

 

明るい声が、そんな私を引き戻す。

振り向くと、梨乃がいつも通りの笑顔で立っていた。

 

「……おはよう、梨乃」

 

ぎこちない声が出る。

そんな私を気にすることなく、梨乃は軽く髪を揺らしながら笑った。

 

「ふうちゃん、どうしたの? なんか元気ない?」

 

「……そう、かな?」

 

自分でも驚くほど、嘘が下手だった。

声が震えている。

表情も、多分、強張っている。

 

「うーん?」

 

梨乃がじっと私の顔を覗き込んでくる。

その距離感が、いつもよりほんの少しだけ近い気がした。

 

「そ、そうだ。今日の授業、なんだったっけ?」

 

誤魔化すように、話題を変える。

梨乃は一瞬だけ視線を細めたけれど、すぐに「えっとねー」と教科の話を始めた。

 

それを聞きながら、私はまた無意識に 「佐野さんを探している自分」 に気づいた。

 

教室の奥。

窓際の席。

廊下の先。

 

視線を彷徨わせながら、彼女がいないことに安堵するのと同時に、どこか「落ち着かない」自分がいるのが怖かった。

 

「……何やってんの、私」

 

そんな自問自答をしていたそのときだった。

 

「あ、楓花、おはよう!」

 

背後から、別のクラスメイトの声が響く。

 

「ねえ、さっきさ、佐野さんと何話してたの?」

 

——一瞬、心臓が跳ねた。

 

「え?」

 

喉がひりつく。

視界がぐにゃりと歪んだ気がした。

 

何の気なしに投げられた言葉。

それなのに、その言葉が耳に絡みつく。

 

——見られてた?

——どこで?

——どのくらい?

 

頭の中で、ぐるぐると考えが渦巻く。

 

その瞬間——

 

——じっとりとした、粘つくような視線を感じた。

 

「……」

 

ゆっくりと振り向く。

 

梨乃だった。

 

いつものように微笑んでいる。

けれど、その目は笑っていなかった。

 

深く、奥底を覗かれているような感覚。

まるで、すべてを見透かそうとするような。

 

「ふうちゃん?」

 

梨乃が、わずかに首を傾げる。

 

「……何?」

 

「あの子と、何話してたの?」

 

——何話してたの?

 

その言葉が、やけに頭の奥に刺さった。

 

心臓がドクン、と鳴る。

 

「……っ」

 

背中を流れるのは、冷たい汗。

 

逃げられない。

 

そんな感覚が、じわじわと首元に絡みついてきた——。

 

「えっと……」

 

私は一瞬、ためらう。

喉の奥がひりつくような感覚。

 

「昨日、佐野さん、途中で帰っちゃったじゃん?だから、授業のこと、教えてあげようと思って!」

 

なんとか笑顔を作りながら、必死に言い訳を並べる。

けれど、自分でもわかる。

声が、不自然に上ずっている。

 

梨乃は、相変わらず 「いつも通りの笑顔」 のままだった。

 

でも——

 

「ふーん、そうなんだね。」

 

その声が、やけに滑らかだった。

 

「でも、なんで楓ちゃんが、わざわざそんなことを?」

 

——心臓が跳ねる。

 

「え?」

 

「だってさ」

 

梨乃は、微笑んだまま、私の目をじっと見つめる。

 

「今までだって、佐野さん、何度も早退してたよね?」

 

ドクン、と心臓が鳴る。

 

「でも、ふうちゃんは一度もそんなことしなかったよね?」

 

「そ……それは……」

 

「なのに、どうして?」

 

微笑みながら、首をかしげる。

その目は、ひどく優しげで、だけど 底の見えない黒い湖のようだった。

 

「今まで、ふうちゃんにとって”透明人間”だった佐野さんを、突然気にかけるようになったのは、どうして?」

 

言葉が詰まる。

 

息が、苦しい。

 

「べ、別に、そんな……」

 

言い訳が見つからない。

 

「ううん、別にね?」

 

梨乃は、にこりと笑う。

 

「ふうちゃんが誰と仲良くなっても、私は全然構わないんだよ?」

 

その言葉が、やけにゆっくりと耳に落ちる。

 

「でもね、ふうちゃん。」

 

空気が変わった。

 

「どうして、ふうちゃんは あの日、佐野さんを追いかけて行ったの?」

 

背筋に冷たいものが這う。

 

「……え?」

 

「ふうちゃん、あの日、授業の時間になっても戻ってこなかったよね?」

 

梨乃の声は、いつもの優しいトーンのまま。

なのに、そこに 妙な圧 が滲んでいた。

 

「時間を忘れるくらい、佐野さんと何をしてたの?」

 

鼓動が、耳の奥で痛いくらいに響く。

 

「……」

 

「戻ってきた後、突然佐野さんを気にかけるようになったのは、どうして?」

 

喉が詰まる。

 

「ねえ、どうして?」

 

梨乃は、相変わらず笑っていた。

だけど、その 「問い」が、絶対に逃がさない意思 を持っていた。

 

追い詰められている。

 

「……」

 

返す言葉が、何も出てこなかった。

 

鐘の音が鳴る。

 

──助かった。

 

私は 「あとで答えるね」 とだけ答え、そそくさと席へ向かう。

背中に突き刺さるような視線を感じる。

 

梨乃は笑顔のままだった。

けれど、その目の奥の疑念はまるで消えていない。

 

──これは、間違いなく あとで詰められる。

 

喉がひりつくように乾く。

どうする?どう切り抜ける?

頭の中で必死に考えを巡らせるが、どの道も行き止まりのように感じた。

 

授業が始まる。

先生の声が遠くで響く。

黒板に書かれる文字。

窓の外に広がる青空。

 

──すべてが、妙に遠い。

 

今の私の意識は、教室にいない。

目の前の現実ではなく、 迫り来る未来の恐怖 に支配されていた。

 

梨乃は、必ずまた聞いてくる。

このままでは逃げられない。

 

──私はどうすればいいの?

 

心臓が小さく跳ねる。

冷や汗が背筋を伝う。

 

答えを出さなければいけない。

でも、その答えを間違えたら きっと私は壊される──。

 

それにしても、なんだったんだろう。

 

さっきの梨乃。

あんな梨乃は、見たことがない。

 

笑顔なのに、どこか冷たい。

優しいのに、どこか抑えている。

問い詰める言葉が、じわじわと首を絞めてくるみたいだった。

 

──佐野さんが言っていた、「梨乃の秘密」。

 

あれに関係するのだろうか?

梨乃の視線が、ただの疑念だけでなく、何か別の感情を孕んでいるように感じた。

 

でも、今はそんなことを考えている場合じゃない。

 

──なんとかしなきゃ。

 

このままじゃ、梨乃にまた問い詰められる。

次は、もっと深く、もっと鋭く。

誤魔化しきれないところまで、突き詰められるかもしれない。

 

「……どうしよう……」

 

かすかに唇を噛む。

ホームルームの時間で、何とか切り抜ける方法を考えなきゃ。

 

でも──

 

考えれば考えるほど、頭がぐちゃぐちゃになっていく。

まるで、蜘蛛の巣みたいに絡まって、出口が見えない。

 

佐野さん。

梨乃。

私の知らない秘密。

そして──私自身の立場。

 

「……っ」

 

頭を抱えたくなる。

 

どうしてこんなことになったんだろう?

 

少し前まで、何も考えずに過ごしていたはずなのに。

なのに、今は。

 

逃げられない。

巻き込まれてしまった。

 

──どうすれば、私はここから抜け出せる?

 

答えは、まだ見えなかった。

 

ホームルームの時間は、あっという間に過ぎ去ってしまった。

 

ずっと考えていたのに、結局、答えはまとまらないまま。

気がつけば、チャイムが鳴り、教室のざわめきが広がっていた。

 

──そして。

 

私は、気配を感じる。

 

梨乃が、私の机に近づいてくる。

 

足音は静かだった。

だけど、それがかえって鼓動を強くさせる。

 

「それで、なんだったの?」

 

何気ない調子。

笑顔のまま、梨乃は私を見下ろしていた。

けれど、その視線はどこかじっとりと絡みつくようで、逃げ場がない。

 

──何か言わなくちゃ。

 

私は、最後の最後まで考えて、決めた。

 

「う、うん。昨日、ちょっと話が盛り上がっちゃってさ」

 

喉が乾く。

自分で言っていて、ぎこちないのがわかる。

でも、もう言葉を止めることはできない。

 

「なんか……気が合うなって」

 

思わず視線を逸らしそうになる。

けれど、それを許さないかのように、梨乃の目が、私を逃がさない。

 

「へぇ……」

 

笑顔のまま、梨乃は小さく呟く。

 

それは、本当に納得した声だったのか。

それとも、こちらの様子を探るような言葉だったのか。

 

どちらとも取れる、曖昧な声色。

 

私は、ごくりと唾を飲み込んだ。

 

──ごまかせた?

それとも、まだ問い詰められる?

 

心臓の音が、やけに大きく響いた。

 

「なんの話をしたの?」

 

梨乃の声は、相変わらず柔らかい。

だけど、その響きは妙にまとわりついてくるようだった。

 

「話の内容くらい、言えるよね?」

 

笑顔のまま、梨乃は私の机に手をつく。

すぐそばにあるその指先は、まるで何かを押さえつけるみたいだった。

 

「盛り上がるような話なら、私も聞きたいな」

 

梨乃の顔が少し近づく。

その瞳の奥にある感情が読めなくて、私は一瞬、息を詰めた。

 

──どうしよう。

 

考えなくちゃ。

何か、適当な話を作らないと。

でも、焦れば焦るほど、言葉がうまくまとまらない。

 

「えっと……」

 

声が思ったよりも弱々しく漏れる。

そんな私の様子を、梨乃はじっと見つめたまま待っている。

 

その笑顔の裏に、どんな感情が潜んでいるのか。

 

それを考えると、ますます息苦しくなった。

 

「なんか……美術の話?とか?」

 

自分でも情けないくらい適当な答えだった。

でも、他に思いつかなかった。

 

──お願い、これで誤魔化せて。

 

けれど、その願いはあまりにも浅はかだった。

 

「……嘘でしょ」

 

梨乃の声が、ふっと低くなる。

 

「ふうちゃん、嘘ついてる。」

 

その瞬間、心臓が跳ねた。

 

梨乃の目が、ぎゅっと細くなる。

笑顔のままなのに、どこか鋭くなったように見えた。

 

「私にはわかるよ。」

 

机の上に置かれた彼女の指が、トン、と小さく叩かれる。

音は小さいのに、それが妙に鼓膜に響いた。

 

「ふうちゃんの嘘、ちゃんとわかるの。」

 

──なぜ?

 

なぜ、そんなふうに断言できるの?

 

私は思わず口を開きかけて、けれど言葉が出てこなかった。

 

まるで喉の奥を、見えない手で押さえつけられたみたいに。

 

「ねえ、ふうちゃん。」

 

梨乃の声は、どこまでも優しく響く。

けれど、その優しさの奥にあるものが、じわじわと私を追い詰めていく。

 

「何を怯えているの?」

 

怯えてる──?

 

そんなわけ──と、思いたいのに。

私の指先は、ほんのわずかに震えていた。

 

「私にどうして隠し事をするの?」

 

梨乃の声が、一歩近づくたびに、より深く染み込んでくる。

まるで、逃げ道を塞ぐように。

 

「ねえ、ふうちゃん」

 

彼女は、まっすぐ私を見つめている。

 

「私たち、親友でしょ?」

 

言葉は甘い。

それなのに、その響きには妙な圧がある。

 

「それなのに……」

 

梨乃は、静かに首を傾げる。

 

「ねえ、もしかして、佐野さんと──」

 

一瞬、言葉が止まる。

それから、ほんの少しだけ声を潜めた。

 

「……言えないようなこと、してたの?」

 

心臓が跳ねた。

 

「その……」

 

梨乃は、あえて言葉を曖昧にする。

 

「いけないこと、とか……」

 

空気が、張り詰める。

 

「……ねえ、ちゃんと答えて」

 

梨乃の瞳が、私を逃がさない。

笑顔のままなのに、まるで、ぎゅっと締め付けるみたいに。

 

──怖い。

 

この子は、私の何を知っているの?

何を疑っているの?

 

言い訳を考えなきゃ。

何か、まともな答えを──

 

けれど、脳が真っ白になって、言葉が出てこなかった。

 

「ごめん……ね……」

 

声が思ったより掠れていた。

喉がひどく渇いているのを自覚する。

 

梨乃の視線が、私の言葉の続きを待っていた。

まるで、ひとつの小さなミスも許さないみたいに。

 

私は、奥歯を噛みしめる。

 

「どうしても……今は言えない……」

 

苦し紛れの言葉だった。

でも、これ以上、何を言えばいいのかわからなかった。

 

「言える時が来たら言うから……」

 

精一杯だった。

 

けれど、自分でもわかる。

──これはただの時間稼ぎだ。

 

梨乃はじっと私を見つめていた。

少しの間、何も言わないまま。

 

笑顔は浮かべているのに、その瞳の奥にあるものは読めない。

 

──待って。

 

これって、佐野さんと同じじゃない?

 

彼女の無表情の奥に何があるのかわからないように、

今の梨乃の笑顔も、まるで仮面のように思えた。

 

「……わかった」

 

梨乃が、ふっと息を吐くように言う。

 

それは拒絶でも、納得でもない、妙な「間」のある返事だった。

 

「ふうちゃんがそう言うなら、待ってあげる」

 

言葉だけ聞けば、納得したように思える。

けれど、私にはわかってしまった。

 

──梨乃は、本当には納得していない。

 

彼女の目が、じんわりと熱を帯びていた。

 

「……ありがとう……」

 

そう言うしかなかった。

 

けれど、その瞬間、わずかに梨乃の指先がピクリと動いたのを見逃さなかった。

それは、机の端を掴むような動きだった。

 

爪が、カリ、と小さく音を立てる。

 

それだけで、背筋が凍る。

 

「ふうちゃん」

 

──なに?

 

「いつか、ちゃんと話してくれるんだよね?」

 

まるで念を押すように。

 

私の言葉を信じているわけじゃない。

ただ、確認しているだけ。

 

「……うん」

 

小さく頷いた。

 

すると、梨乃は少しだけ口元を緩めた。

 

「よかった」

 

声だけ聞けば、安心したように思える。

 

けれど──

 

本当に安心してくれたの?

 

それとも、ただ“待つことに決めただけ”なの?

 

──わからない。

 

梨乃の思考が、見えない。

 

「じゃあ、またあとでね」

 

そう言って、梨乃は席へ戻った。

 

私は、机に肘をついて、ようやく息を吐いた。

 

疲れた──

 

全身から力が抜ける。

 

ただ話していただけなのに、まるで息を止め続けていたみたいに、肺がひどく苦しい。

 

「……なんなの……」

 

小さく、誰に向けるでもなく呟く。

 

──梨乃が、あんなに私を追い詰めるなんて。

 

今までそんなことなかったのに。

 

何かが、ズレている。

 

「ふうちゃん?」

 

不意に、梨乃の声がして、私はビクッと肩を跳ねさせた。

 

「えっ?」

 

驚いた顔を向けると、梨乃は少し不思議そうに私を見ていた。

 

「授業始まるよ?」

 

「あ、うん……」

 

私はぎこちなく頷く。

 

──何か言いたかったの?

 

何を期待していたの?

 

私の態度が変わること?

 

それとも、もっと別の……?

 

「……大丈夫?」

 

梨乃が少し首を傾げた。

 

その瞬間、私ははっと気づいた。

 

今の私は、完全に怯えている。

 

“梨乃の態度に”じゃない。

 

──“梨乃の本音を知ること”に。

 

「大丈夫。ちょっと考え事してただけ」

 

笑顔を作る。

 

「そっか」

 

梨乃も、また笑顔を浮かべた。

 

けれど、その微笑みが、ひどく遠く感じた。

 

それから、その日、私は何度もそのことを思い出した。

 

授業中、何度も。

休み時間のたびに。

誰かと話している時でさえも。

 

まるで背後に何かがまとわりつくように、頭から離れなかった。

 

──私は、ちゃんと答えられたの?

 

──梨乃の気持ちに、ちゃんと向き合えているの?

 

わからない。

 

でも、ひとつだけ確かなことがある。

 

その日、私と梨乃の間には、今までにない微妙な空気が流れていた。

 

まるで、何かがほんの少しだけ “ズレた” みたいに。

 

つづく

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