重い足取りのまま、学校に着いた。
体が鉛みたいに重い。
教室のドアを開ける瞬間、無意識に息を止める。
「……いる?」
恐る恐る、視線を滑らせる。
——いない。
佐野さんの姿は、どこにもなかった。
少しだけ、息を吐く。
それでも、心の奥にまとわりつくような違和感は消えなかった。
「ふうちゃん、おはよう!」
明るい声が、そんな私を引き戻す。
振り向くと、梨乃がいつも通りの笑顔で立っていた。
「……おはよう、梨乃」
ぎこちない声が出る。
そんな私を気にすることなく、梨乃は軽く髪を揺らしながら笑った。
「ふうちゃん、どうしたの? なんか元気ない?」
「……そう、かな?」
自分でも驚くほど、嘘が下手だった。
声が震えている。
表情も、多分、強張っている。
「うーん?」
梨乃がじっと私の顔を覗き込んでくる。
その距離感が、いつもよりほんの少しだけ近い気がした。
「そ、そうだ。今日の授業、なんだったっけ?」
誤魔化すように、話題を変える。
梨乃は一瞬だけ視線を細めたけれど、すぐに「えっとねー」と教科の話を始めた。
それを聞きながら、私はまた無意識に 「佐野さんを探している自分」 に気づいた。
教室の奥。
窓際の席。
廊下の先。
視線を彷徨わせながら、彼女がいないことに安堵するのと同時に、どこか「落ち着かない」自分がいるのが怖かった。
「……何やってんの、私」
そんな自問自答をしていたそのときだった。
「あ、楓花、おはよう!」
背後から、別のクラスメイトの声が響く。
「ねえ、さっきさ、佐野さんと何話してたの?」
——一瞬、心臓が跳ねた。
「え?」
喉がひりつく。
視界がぐにゃりと歪んだ気がした。
何の気なしに投げられた言葉。
それなのに、その言葉が耳に絡みつく。
——見られてた?
——どこで?
——どのくらい?
頭の中で、ぐるぐると考えが渦巻く。
その瞬間——
——じっとりとした、粘つくような視線を感じた。
「……」
ゆっくりと振り向く。
梨乃だった。
いつものように微笑んでいる。
けれど、その目は笑っていなかった。
深く、奥底を覗かれているような感覚。
まるで、すべてを見透かそうとするような。
「ふうちゃん?」
梨乃が、わずかに首を傾げる。
「……何?」
「あの子と、何話してたの?」
——何話してたの?
その言葉が、やけに頭の奥に刺さった。
心臓がドクン、と鳴る。
「……っ」
背中を流れるのは、冷たい汗。
逃げられない。
そんな感覚が、じわじわと首元に絡みついてきた——。
「えっと……」
私は一瞬、ためらう。
喉の奥がひりつくような感覚。
「昨日、佐野さん、途中で帰っちゃったじゃん?だから、授業のこと、教えてあげようと思って!」
なんとか笑顔を作りながら、必死に言い訳を並べる。
けれど、自分でもわかる。
声が、不自然に上ずっている。
梨乃は、相変わらず 「いつも通りの笑顔」 のままだった。
でも——
「ふーん、そうなんだね。」
その声が、やけに滑らかだった。
「でも、なんで楓ちゃんが、わざわざそんなことを?」
——心臓が跳ねる。
「え?」
「だってさ」
梨乃は、微笑んだまま、私の目をじっと見つめる。
「今までだって、佐野さん、何度も早退してたよね?」
ドクン、と心臓が鳴る。
「でも、ふうちゃんは一度もそんなことしなかったよね?」
「そ……それは……」
「なのに、どうして?」
微笑みながら、首をかしげる。
その目は、ひどく優しげで、だけど 底の見えない黒い湖のようだった。
「今まで、ふうちゃんにとって”透明人間”だった佐野さんを、突然気にかけるようになったのは、どうして?」
言葉が詰まる。
息が、苦しい。
「べ、別に、そんな……」
言い訳が見つからない。
「ううん、別にね?」
梨乃は、にこりと笑う。
「ふうちゃんが誰と仲良くなっても、私は全然構わないんだよ?」
その言葉が、やけにゆっくりと耳に落ちる。
「でもね、ふうちゃん。」
空気が変わった。
「どうして、ふうちゃんは あの日、佐野さんを追いかけて行ったの?」
背筋に冷たいものが這う。
「……え?」
「ふうちゃん、あの日、授業の時間になっても戻ってこなかったよね?」
梨乃の声は、いつもの優しいトーンのまま。
なのに、そこに 妙な圧 が滲んでいた。
「時間を忘れるくらい、佐野さんと何をしてたの?」
鼓動が、耳の奥で痛いくらいに響く。
「……」
「戻ってきた後、突然佐野さんを気にかけるようになったのは、どうして?」
喉が詰まる。
「ねえ、どうして?」
梨乃は、相変わらず笑っていた。
だけど、その 「問い」が、絶対に逃がさない意思 を持っていた。
追い詰められている。
「……」
返す言葉が、何も出てこなかった。
鐘の音が鳴る。
──助かった。
私は 「あとで答えるね」 とだけ答え、そそくさと席へ向かう。
背中に突き刺さるような視線を感じる。
梨乃は笑顔のままだった。
けれど、その目の奥の疑念はまるで消えていない。
──これは、間違いなく あとで詰められる。
喉がひりつくように乾く。
どうする?どう切り抜ける?
頭の中で必死に考えを巡らせるが、どの道も行き止まりのように感じた。
授業が始まる。
先生の声が遠くで響く。
黒板に書かれる文字。
窓の外に広がる青空。
──すべてが、妙に遠い。
今の私の意識は、教室にいない。
目の前の現実ではなく、 迫り来る未来の恐怖 に支配されていた。
梨乃は、必ずまた聞いてくる。
このままでは逃げられない。
──私はどうすればいいの?
心臓が小さく跳ねる。
冷や汗が背筋を伝う。
答えを出さなければいけない。
でも、その答えを間違えたら きっと私は壊される──。
それにしても、なんだったんだろう。
さっきの梨乃。
あんな梨乃は、見たことがない。
笑顔なのに、どこか冷たい。
優しいのに、どこか抑えている。
問い詰める言葉が、じわじわと首を絞めてくるみたいだった。
──佐野さんが言っていた、「梨乃の秘密」。
あれに関係するのだろうか?
梨乃の視線が、ただの疑念だけでなく、何か別の感情を孕んでいるように感じた。
でも、今はそんなことを考えている場合じゃない。
──なんとかしなきゃ。
このままじゃ、梨乃にまた問い詰められる。
次は、もっと深く、もっと鋭く。
誤魔化しきれないところまで、突き詰められるかもしれない。
「……どうしよう……」
かすかに唇を噛む。
ホームルームの時間で、何とか切り抜ける方法を考えなきゃ。
でも──
考えれば考えるほど、頭がぐちゃぐちゃになっていく。
まるで、蜘蛛の巣みたいに絡まって、出口が見えない。
佐野さん。
梨乃。
私の知らない秘密。
そして──私自身の立場。
「……っ」
頭を抱えたくなる。
どうしてこんなことになったんだろう?
少し前まで、何も考えずに過ごしていたはずなのに。
なのに、今は。
逃げられない。
巻き込まれてしまった。
──どうすれば、私はここから抜け出せる?
答えは、まだ見えなかった。
ホームルームの時間は、あっという間に過ぎ去ってしまった。
ずっと考えていたのに、結局、答えはまとまらないまま。
気がつけば、チャイムが鳴り、教室のざわめきが広がっていた。
──そして。
私は、気配を感じる。
梨乃が、私の机に近づいてくる。
足音は静かだった。
だけど、それがかえって鼓動を強くさせる。
「それで、なんだったの?」
何気ない調子。
笑顔のまま、梨乃は私を見下ろしていた。
けれど、その視線はどこかじっとりと絡みつくようで、逃げ場がない。
──何か言わなくちゃ。
私は、最後の最後まで考えて、決めた。
「う、うん。昨日、ちょっと話が盛り上がっちゃってさ」
喉が乾く。
自分で言っていて、ぎこちないのがわかる。
でも、もう言葉を止めることはできない。
「なんか……気が合うなって」
思わず視線を逸らしそうになる。
けれど、それを許さないかのように、梨乃の目が、私を逃がさない。
「へぇ……」
笑顔のまま、梨乃は小さく呟く。
それは、本当に納得した声だったのか。
それとも、こちらの様子を探るような言葉だったのか。
どちらとも取れる、曖昧な声色。
私は、ごくりと唾を飲み込んだ。
──ごまかせた?
それとも、まだ問い詰められる?
心臓の音が、やけに大きく響いた。
「なんの話をしたの?」
梨乃の声は、相変わらず柔らかい。
だけど、その響きは妙にまとわりついてくるようだった。
「話の内容くらい、言えるよね?」
笑顔のまま、梨乃は私の机に手をつく。
すぐそばにあるその指先は、まるで何かを押さえつけるみたいだった。
「盛り上がるような話なら、私も聞きたいな」
梨乃の顔が少し近づく。
その瞳の奥にある感情が読めなくて、私は一瞬、息を詰めた。
──どうしよう。
考えなくちゃ。
何か、適当な話を作らないと。
でも、焦れば焦るほど、言葉がうまくまとまらない。
「えっと……」
声が思ったよりも弱々しく漏れる。
そんな私の様子を、梨乃はじっと見つめたまま待っている。
その笑顔の裏に、どんな感情が潜んでいるのか。
それを考えると、ますます息苦しくなった。
「なんか……美術の話?とか?」
自分でも情けないくらい適当な答えだった。
でも、他に思いつかなかった。
──お願い、これで誤魔化せて。
けれど、その願いはあまりにも浅はかだった。
「……嘘でしょ」
梨乃の声が、ふっと低くなる。
「ふうちゃん、嘘ついてる。」
その瞬間、心臓が跳ねた。
梨乃の目が、ぎゅっと細くなる。
笑顔のままなのに、どこか鋭くなったように見えた。
「私にはわかるよ。」
机の上に置かれた彼女の指が、トン、と小さく叩かれる。
音は小さいのに、それが妙に鼓膜に響いた。
「ふうちゃんの嘘、ちゃんとわかるの。」
──なぜ?
なぜ、そんなふうに断言できるの?
私は思わず口を開きかけて、けれど言葉が出てこなかった。
まるで喉の奥を、見えない手で押さえつけられたみたいに。
「ねえ、ふうちゃん。」
梨乃の声は、どこまでも優しく響く。
けれど、その優しさの奥にあるものが、じわじわと私を追い詰めていく。
「何を怯えているの?」
怯えてる──?
そんなわけ──と、思いたいのに。
私の指先は、ほんのわずかに震えていた。
「私にどうして隠し事をするの?」
梨乃の声が、一歩近づくたびに、より深く染み込んでくる。
まるで、逃げ道を塞ぐように。
「ねえ、ふうちゃん」
彼女は、まっすぐ私を見つめている。
「私たち、親友でしょ?」
言葉は甘い。
それなのに、その響きには妙な圧がある。
「それなのに……」
梨乃は、静かに首を傾げる。
「ねえ、もしかして、佐野さんと──」
一瞬、言葉が止まる。
それから、ほんの少しだけ声を潜めた。
「……言えないようなこと、してたの?」
心臓が跳ねた。
「その……」
梨乃は、あえて言葉を曖昧にする。
「いけないこと、とか……」
空気が、張り詰める。
「……ねえ、ちゃんと答えて」
梨乃の瞳が、私を逃がさない。
笑顔のままなのに、まるで、ぎゅっと締め付けるみたいに。
──怖い。
この子は、私の何を知っているの?
何を疑っているの?
言い訳を考えなきゃ。
何か、まともな答えを──
けれど、脳が真っ白になって、言葉が出てこなかった。
「ごめん……ね……」
声が思ったより掠れていた。
喉がひどく渇いているのを自覚する。
梨乃の視線が、私の言葉の続きを待っていた。
まるで、ひとつの小さなミスも許さないみたいに。
私は、奥歯を噛みしめる。
「どうしても……今は言えない……」
苦し紛れの言葉だった。
でも、これ以上、何を言えばいいのかわからなかった。
「言える時が来たら言うから……」
精一杯だった。
けれど、自分でもわかる。
──これはただの時間稼ぎだ。
梨乃はじっと私を見つめていた。
少しの間、何も言わないまま。
笑顔は浮かべているのに、その瞳の奥にあるものは読めない。
──待って。
これって、佐野さんと同じじゃない?
彼女の無表情の奥に何があるのかわからないように、
今の梨乃の笑顔も、まるで仮面のように思えた。
「……わかった」
梨乃が、ふっと息を吐くように言う。
それは拒絶でも、納得でもない、妙な「間」のある返事だった。
「ふうちゃんがそう言うなら、待ってあげる」
言葉だけ聞けば、納得したように思える。
けれど、私にはわかってしまった。
──梨乃は、本当には納得していない。
彼女の目が、じんわりと熱を帯びていた。
「……ありがとう……」
そう言うしかなかった。
けれど、その瞬間、わずかに梨乃の指先がピクリと動いたのを見逃さなかった。
それは、机の端を掴むような動きだった。
爪が、カリ、と小さく音を立てる。
それだけで、背筋が凍る。
「ふうちゃん」
──なに?
「いつか、ちゃんと話してくれるんだよね?」
まるで念を押すように。
私の言葉を信じているわけじゃない。
ただ、確認しているだけ。
「……うん」
小さく頷いた。
すると、梨乃は少しだけ口元を緩めた。
「よかった」
声だけ聞けば、安心したように思える。
けれど──
本当に安心してくれたの?
それとも、ただ“待つことに決めただけ”なの?
──わからない。
梨乃の思考が、見えない。
「じゃあ、またあとでね」
そう言って、梨乃は席へ戻った。
私は、机に肘をついて、ようやく息を吐いた。
疲れた──
全身から力が抜ける。
ただ話していただけなのに、まるで息を止め続けていたみたいに、肺がひどく苦しい。
「……なんなの……」
小さく、誰に向けるでもなく呟く。
──梨乃が、あんなに私を追い詰めるなんて。
今までそんなことなかったのに。
何かが、ズレている。
「ふうちゃん?」
不意に、梨乃の声がして、私はビクッと肩を跳ねさせた。
「えっ?」
驚いた顔を向けると、梨乃は少し不思議そうに私を見ていた。
「授業始まるよ?」
「あ、うん……」
私はぎこちなく頷く。
──何か言いたかったの?
何を期待していたの?
私の態度が変わること?
それとも、もっと別の……?
「……大丈夫?」
梨乃が少し首を傾げた。
その瞬間、私ははっと気づいた。
今の私は、完全に怯えている。
“梨乃の態度に”じゃない。
──“梨乃の本音を知ること”に。
「大丈夫。ちょっと考え事してただけ」
笑顔を作る。
「そっか」
梨乃も、また笑顔を浮かべた。
けれど、その微笑みが、ひどく遠く感じた。
それから、その日、私は何度もそのことを思い出した。
授業中、何度も。
休み時間のたびに。
誰かと話している時でさえも。
まるで背後に何かがまとわりつくように、頭から離れなかった。
──私は、ちゃんと答えられたの?
──梨乃の気持ちに、ちゃんと向き合えているの?
わからない。
でも、ひとつだけ確かなことがある。
その日、私と梨乃の間には、今までにない微妙な空気が流れていた。
まるで、何かがほんの少しだけ “ズレた” みたいに。
つづく