オブスキュラに閉じ込めたい   作:多治見国繁

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第7話 知るということ

佐野さんは、私の写真を撮ったあと、なんの前触れもなく私を抱きしめた。

 

驚きと戸惑いで体がこわばる。

裸の肌同士が触れ合う感触。

佐野さんの体温が、じんわりと私に伝わってくる。

 

ふわりと、佐野さんの匂いが鼻先をかすめた。

ほのかに石鹸の香りがする。

けれど、それを押し隠すように、微かに汗の匂いが混じっていた。

 

夏の匂いだ。

 

湿った空気に、肌の熱がまとわりつく。

佐野さんの首筋から漂う、少しだけ蒸れた香り。

いつもは冷たい彼女が、確かに「生きている」と感じる匂い。

 

——温かい。

 

それなのに、この温かさはどこか頼りなかった。

触れたら消えてしまいそうな、儚い温度。

ほんのわずかに滲む汗が、私の肌に馴染んでいくのを感じる。

 

私は、佐野さんを冬のような女の子だと思っていた。

冷たく、静かで、何を考えているのかわからない。

恐ろしいほどに淡々としていて、心を読ませない女の子。

 

でも、こうして肌で触れ合うと——

 

その印象は、ひどく曖昧なものに思えた。

 

佐野さんの肌は、なめらかで、柔らかくて、じんわりと温かい。

けれど、それは単なる体温の温かさではなく——

 

何かをすがるような温度だった。

 

私は、佐野さんの背中にそっと触れる。

ひんやりとした肌に、ほんのわずかに汗の感触が混じる。

 

「……やだ、離して……」

 

そう言ったのに、佐野さんの腕は私を離さなかった。

むしろ、さらに強く抱きしめるように、私を包み込んでくる。

 

「……ダメ」

 

耳元で囁かれる声が、やけに近い。

 

その瞬間——

 

ドクン。

 

私の胸のすぐそばで、佐野さんの心臓の鼓動が響いた。

小さく、けれど確かに脈打つリズム。

 

佐野さんも、生きているんだ。

当然のことなのに、そんな当たり前のことを、私は今になって実感した。

 

「……佐野さん?」

 

思わず名前を呼ぶ。

 

すると、佐野さんはぴたりと動きを止めた。

そして、私の肩口に顔をうずめながら、小さく呟いた。

 

「……静かにして」

 

その声は、いつもの淡々としたものとは違っていた。

 

ひどく頼りなくて、掠れていて——

 

まるで、泣くのを我慢しているみたいな、そんな声だった。

 

彼女の息遣いが、肩にかかる。

かすかに湿った空気が、肌をくすぐる。

さっきまでの佐野さんは、もっと冷たかったはずなのに——今は、違う。

 

先ほどまでの「支配」ではない。

この腕の中にいるのは、私をコントロールしようとする佐野衣織ではなく、

ただ、誰かに縋るように抱きしめる、ひとりの女の子だった。

 

腕の力が、わずかに強まる。

ほんの一瞬だけ、私を求めるみたいに。

まるで、何かを振り払うかのような必死さが、そこに滲んでいる。

それを悟られまいと、必死に耐えているのが伝わる。

 

私は——今、この佐野さんを、恐ろしく思えなかった。

 

「……佐野さん」

 

そっと囁く。

彼女は何も言わない。

けれど、確かに感じる。

 

こんなにも小さくて、儚い。

手を離したら、そのままどこかへ消えてしまいそうなほどに。

 

「……どうしたの?」

 

私は、戸惑いながらも、そっと佐野さんの背中を撫でる。

すると、彼女の指が私の肩をぎゅっと掴んだ。

 

「……ただ、少しだけ……こうしていたいの」

 

佐野さんの腕が、さらに強く私を抱きしめる。

肌と肌がぴったりと密着して、心臓の音がさらに近くなる。

 

「……温かいね」

 

ぽつりと呟かれる。

 

私は、それに何と答えればいいのかわからなかった。

 

ただ、この瞬間だけは、佐野さんは「支配者」ではなく、ただの普通の女の子に見えた。

 

冷たくて、怖くて、何を考えているのかわからない女の子——

 

——じゃなくて、本当は、ずっと寂しかったのかもしれない。

 

「……もう少しだけ、このままでいい?」

 

かすれる声で、佐野さんがそう言う。

 

私は、そっと目を閉じた。

 

——恐ろしい女の子。

——でも、こんなにも温かい。

 

「……うん、いいよ。」

 

私は、小さく答えた。

 

そして、その言葉とともに、佐野さんはそっと息を吐いた。

 

まるで、少しだけ安心したように。

 

 

「……ありがとう……」

 

佐野さんが、ぽつりと呟く。

 

その声は、まるで深い夜の中に落ちていくみたいに静かで、どこか切なかった。

 

佐野さんは、小さく震えていた。

まるで、怯えた子犬が身を寄せるみたいに。

 

それが、いつもの彼女とは違いすぎて——戸惑う。

 

——佐野さんが、怯える?

 

そんなことがあるの?

 

考える間もなく、佐野さんは突然、私の胸に顔を埋めた。

 

「ちょっ……!?」

 

驚きに体が強張る。

 

「え、ちょっと待って、なにしてるの!?」

 

自分の胸元に埋まる、佐野さんの黒髪。

その髪が、肌にふわりと触れる感触が、どうしようもなく意識させられる。

 

——いやいや、そうじゃなくて!

 

「恥ずかしいってば……!」

 

思わず、両手で佐野さんの肩を押そうとする。

 

けれど、佐野さんはそれを許さなかった。

むしろ、より深く、私の胸に顔を埋めてくる。

 

「……お願い……もう少し……」

 

掠れた声が、肌に直接響いた。

 

その瞬間、私はハッとした。

 

——これ、違う。

 

佐野さんの行動は、単なるスキンシップじゃない。

おっぱい好きとか、そういうのじゃない。

 

むしろ、何かを拒絶するように。

何かを隠すように。

 

まるで、自分自身を誤魔化すかのように——私にしがみついている。

 

「……佐野さん……?」

 

私は、そっと声をかけた。

 

けれど、佐野さんは何も答えなかった。

 

ただ、私の胸に顔を埋めたまま、じっとしている。

 

……まるで、何かにすがるみたいに。

 

私の鼓動が、少しずつ速くなる。

 

佐野さんの指先が、ぎゅっと私の背中を掴んだ。

ほんのわずかに震えているのがわかる。

 

「……お願い……このまま……」

 

再び、掠れた声が落ちてきた。

 

それは、まるで——

 

助けを求める声みたいだった。

 

私は、そっと息を飲んだ。

 

そして——

 

何も言わずに、佐野さんの背中を撫でる。

 

——いいよ、少しの間だけ。

 

そんな言葉を、私は胸の中でそっと呟いた。

 

佐野さんは、しばらくじっとしたまま、私に身を寄せていた。

けれど、どれくらい時間が経ったのか——急に顔を上げた。

 

——無表情の佐野衣織に戻っていた。

 

それはまるで、さっきまでの震えも、不安も、全部「なかったこと」にするみたいに。

 

「……服、着ていい……」

 

淡々とした口調。

まるで何事もなかったかのように、そう言って、佐野さんは制服を手に取る。

 

私は、思わず動揺した。

 

「え……あ、うん……」

 

まだ、心臓がドクドクと鳴っているのに。

ついさっきまで、あんなに震えていたのに。

 

でも佐野さんは、さっと制服を着直す。

無表情のまま、いつも通りの動作で、リボンを結ぶ。

 

——さっきまで、私に縋っていたのは誰?

 

そう問いかけたくなるほど、あっさりとした態度。

 

そして——

 

「……帰る……」

 

そう言って、佐野さんは立ち上がった。

 

「えっ、ちょっと待って!」

 

私は、慌てて立ち上がる。

 

——こんな終わり方でいいわけない。

 

「佐野さん、何かあったの? 何か悩んでるなら、教えてよ」

 

そう言った瞬間——

 

佐野さんの背中が、ぴくりと動いた。

 

一瞬だけ。

 

だけど、すぐにまた、何事もなかったかのように静かに言う。

 

「……言えない……」

 

その声は、ひどく冷たく聞こえた。

 

「……踏み込まないで……」

 

——拒絶。

 

その言葉が、胸に突き刺さる。

 

私は、息をのんだ。

 

佐野さんの目が、いつものように感情の読めない静けさを湛えていた。

 

さっきまで私にしがみついていたのに。

さっきまで震えていたのに。

 

なのに、今はもう——

 

「……星野さんは、知らないほうがいい……」

 

淡々と。

 

突き放すように。

 

私の知ることを、許さないかのように。

 

——その言葉が、どうしようもなく、胸の奥に絡みついた。

 

佐野さんは、無表情のまま私を見つめる。

けれど、その瞳の奥には、何か揺らぎのようなものが見えた。

 

「……私と星野さんの関係は、契約だけ……」

 

まるで、自分に言い聞かせるような口調。

 

「星野さんは……最後に私とエッチしてくれればいいだけ……」

 

その言葉を聞いた瞬間、心臓が強く跳ねた。

 

——そうじゃない。

 

「深く知る必要はない……」

 

——違う!

 

私は思わず声を張り上げた。

 

「違うよ、佐野さん!」

 

佐野さんの目が、わずかに揺れる。

 

「私は、佐野さんのことをもっと知りたいの!」

 

胸の奥から湧き上がる感情が、そのまま言葉になっていた。

 

「契約なんて関係ないよ! そんなものより、私は——」

 

「……やめて」

 

佐野さんの声が、低く、静かに響いた。

 

私は、言葉を止める。

 

——拒絶の色が強くなったから。

 

佐野さんは、どこか痛みに耐えるような表情をしていた。

 

「……星野さんは、私を普通の人間みたいに扱おうとする……」

 

「違うの?」

 

「違う……私は……普通じゃない……」

 

そう言って、佐野さんは一歩後ずさる。

 

「だから、踏み込まないで……」

 

——そんなの、納得できるわけない。

 

私は、強く拳を握った。

 

「それでも私は——佐野さんのことをもっと知りたい」

 

「……」

 

佐野さんは何も言わない。

 

ただ、静かに私を見つめていた。

 

けれど、その沈黙の中に、確かに「揺らぎ」があった。

 

私は、それを見逃さなかった。

 

——佐野さんの心の奥には、まだ何かがある。

 

それを知るまで、私は絶対に諦めたくなかった。

 

「……見ないほうがいいこともある……この世界には……」

 

佐野さんの声は、まるで遠くの闇を見つめるように、淡く沈んでいた。

 

「あなたは、それを見る覚悟があるの……?」

 

彼女の瞳が、私をじっと覗き込む。

その目は深く、冷たく、それでいてどこか悲しげだった。

まるで、私の奥底まで見透かそうとするような、静かで、それでいて強い視線。

 

私は息を詰めた。

 

「……覚悟って……そんなの……」

 

簡単に答えられるものじゃない。

知らないことを知るというのは、そんなに軽いことなのか?

 

「……知るって、どういうことか分かってる……?」

 

佐野さんが、わずかに目を伏せる。

長いまつげの奥に隠れた感情が、ひどく静かで、それなのに底の見えない深淵のようだった。

 

「え……?」

 

戸惑いが混じる。

彼女の言いたいことが、すぐには理解できなかった。

 

「分からないなら、やめたほうがいい……」

 

佐野さんの声は、どこまでも冷静だった。

それなのに、その冷静さが、余計に心を締め付ける。

 

「……考えて」

 

一拍の間を置き、彼女はゆっくりと続けた。

 

「星野さんは……私を知りたい?」

 

その問いかけに、私は喉を鳴らす。

 

「……知りたいよ」

 

即答だった。

迷いはなかった。

 

だけど——

 

佐野さんは、微かにまぶたを伏せ、静かに息を吐いた。

 

「私を知る……それは、私が生きてきた歴史を知ること」

 

「……」

 

「それを知るということは、私の人生という本を引き継ぐということ」

 

私の人生という本——?

 

「……そういうこと……知るとは、そういうこと……」

 

その言葉の重みが、じわりと胸に沈み込んでくる。

 

私が「知る」と言ったものは、ただの好奇心では済まされない。

彼女の過去を知ることは、その痛みや傷、そのすべてを引き受けることと同義なのかもしれない。

 

「……そんなの……」

 

思わず、声が掠れた。

 

「それでも……知りたいの……?」

 

佐野さんは、問いかけるように、けれどどこか試すように、私の目を覗き込む。

 

まるで、私がどこまで答えを出せるのか、それを確かめるように。

 

私は、ぎゅっと拳を握りしめた。

 

「……知るよ」

 

そう答えた瞬間、佐野さんの瞳が、ほんのわずかに揺れた気がした。

 

けれど、その微かな感情はすぐに掻き消される。

 

「……じゃあ」

 

淡々とした声が、静かに空間を満たす。

 

「その覚悟、証明して」

 

佐野さんは、一歩、後ろに下がる。

 

「……証明……?」

 

「本当に知る気があるなら、私は星野さんに“何か”を見せることになる……」

 

「何かって……?」

 

「言えない」

 

その言葉に、喉の奥がひりつく。

 

「でも……ただの好奇心で踏み込むなら、やめたほうがいい」

 

佐野さんの目が、私を見つめる。

それは、まるで奈落の底へと誘うような、静かで、確かな目だった。

 

「……あなたの人生が、変わる」

その言葉が、妙に重たくのしかかった。

ただの比喩ではない——

佐野さんは、本当に「変わる」と思っている。

まるで 一度知ってしまったら、二度と戻れないものを見せる みたいに。

 

「……何を知るの?」

そう聞きたかった。

でも、その問いを口にする前に、佐野さんの視線が私を射抜いた。

まるで「言うまでもない」とでも言うように。

 

「今はまだ、知らなくていい」

 

そう言われた気がした。

 

その言葉の意味が、胸の奥で絡みつくように残る。

まるで、じわじわと広がるインクの染みのように、心の奥まで浸透していく。

 

私の人生が変わるような「何か」 が、佐野さんの中にはある——?

 

「……どういう意味?」

 

絞り出すように問いかけたけれど、佐野さんは何も答えなかった。

ただ、静かに私を見つめるだけ。

 

その瞳は、暗くて、深くて、まるで光を飲み込むみたいに冷たい。

でも、その奥にある 「何か」 は、まるで私に見られることを拒むように、必死に隠されている。

 

「私を知るって……そういうこと……」

 

佐野さんの声が、静かに落ちてくる。

それは、まるで雨音のように淡々としていて、それでいて 逃れられない重み を孕んでいた。

 

「私を知るっていうことは、私が見てきたものを知るっていうこと」

 

「……私が、触れてきたものを、知るっていうこと」

 

「……私が、失ってきたものを、知るっていうこと」

 

——失ってきたもの?

 

佐野さんは、私にそれを「見せる」と言っているの?

知ることが、見ることと同じだとするなら……

 

それは、私の目の前に「何か」が広げられるということ?

佐野さんの過去が、私の中に流れ込んでくるということ?

 

「……それでも、あなたは私を知りたい?」

 

低く、淡々とした声。

 

「それでも、私の中に踏み込む?」

 

その声の奥には、ほんのわずかに揺れる 怖れ が滲んでいた。

 

——怖がってるのは、私じゃない。

 

佐野さんの方だ。

 

「……あなたに……その覚悟はあるの……?」

 

静かに囁くような声だった。

それなのに、まるで心臓に直接響くような重みがあった。

 

私は、息を呑む。

 

今、私は 選ばされている。

 

このまま何も知らずにいるのか、それとも、佐野さんの世界に踏み込むのか。

 

「……」

 

喉がひりつく。

 

覚悟——それが本当に必要なものなら、私はまだその重みを理解しきれていないのかもしれない。

でも、何も知らずにいることの方が怖い気がした。

 

佐野さんは、知ることが「人生を変える」と言った。

その言葉の裏にあるものが何なのか、まだ分からない。

 

でも、私の心は——

 

「……知りたい」

 

気づけば、もう、答えを出していた。

 

 

証明して——覚悟の重さを

 

「じゃあ……証明して……」

 

佐野さんは、ゆっくりとした口調でそう告げた。

静かな声なのに、まるで部屋の空気が一瞬で張り詰めたような気がした。

 

「あなたの覚悟……全てを捨ててでも向き合う覚悟……ある……?」

 

その瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。

迷いも、揺らぎもない。

 

これは、試されている。

 

——私の本気を。

——私がどこまで踏み込めるのかを。

 

「……全てを捨てるって……どういうこと……?」

 

私は震える声で問い返す。

 

佐野さんは、じっと私を見たまま、ゆっくりと首を傾げた。

 

「私を知るってことは……常識や普通を超えていくってこと」

 

——常識を超えていく?

 

「あなたはまだ知らない世界を知ることになる……」

 

「知るべきではないことかもしれない……でも、それは確かにこの世界に存在する……」

 

淡々とした声で告げられるその言葉は、ひどく現実味を帯びていた。

 

「……それでも、そこに向き合う覚悟はあるの……?」

 

——知らない世界?

——知るべきではないこと?

 

佐野さんが言う「その世界」が何なのか、私はまだ知らない。

けれど、それが彼女にとって あまりにも大きな存在 であることだけは分かった。

 

彼女は私に「覚悟」を求めている。

 

それは——

 

生半可な気持ちで近づくことを許さない、そんな覚悟。

 

「……私は……」

 

喉が乾く。

心臓が、ひどく速く鼓動を打っている。

 

私は、怖いのだろうか。

何か分からないものに踏み込むことが。

 

——違う。

 

怖いのは、踏み込めないことだ。

 

佐野さんは、確かにこの世界に生きている。

でも、彼女が見ている世界と、私が見ている世界はきっと違う。

 

私が彼女を「知る」ということは、今まで私が「普通」だと思っていたものが覆るかもしれない。

 

「……本当に……覚悟が必要なの?」

 

思わず、そう問いかけてしまう。

 

佐野さんの瞳が、微かに揺れた。

 

「……当たり前」

 

淡々とした口調。

 

「私が歩んできた道は、星野さんが想像するようなものじゃない……」

 

「あなたが信じている正しさも、あなたが今まで生きてきた世界のルールも……それがどれだけ無力なものか、思い知ることになる……」

 

「……それでも、知りたいって言える……?」

 

その言葉は、まるで 引き返すなら今のうちだ と言っているようだった。

 

でも、私は——

 

「……言えるよ」

 

佐野さんの目が、かすかに見開かれる。

ほんの一瞬。

でも、すぐに元の無表情へと戻る。

 

「……現実に打ちひしがれることになるかもしれない……汚いものを見るかもしれない……それでも……向き合える……?」

 

佐野さんの声は、ひどく静かだった。

まるで深い井戸の底から響いてくるような、冷たく、湿った響き。

それなのに、その奥には微かな揺らぎが見え隠れしている。

 

私の答えを待っているのか。

それとも、私が諦めるのを期待しているのか。

 

——いや、違う。

 

佐野さんは 私がどこまでついてこられるのか を試している。

本当に踏み込めるのか、それとも、ここで怖気づくのか。

 

でも、それを決めるのは彼女じゃない。

 

決めるのは、私自身だ。

 

私は唇をぎゅっと結び、彼女の瞳を真正面から見据えた。

 

「……向き合うよ」

 

佐野さんの眉が、ほんの僅かに動いた。

 

「……」

 

沈黙。

 

「どんなに汚いものでも、見たくないものでも……私は目を背けない」

 

自分で言いながら、心臓が強く脈打つのを感じた。

緊張か、それとも恐怖か。

それすら分からない。

 

「知りたいって言ったのは、私だから」

 

言葉に出すことで、自分自身を縛るような感覚だった。

もう後には引けない。

 

佐野さんは、じっと私を見つめていた。

 

暗い瞳。

感情の底が見えない、深淵のような黒。

 

その奥にあるものを、私はまだ知らない。

 

「……そう」

 

ぽつりと呟くように言うと、佐野さんはふっと目を伏せた。

長いまつげがわずかに震える。

 

「……じゃあ、いずれ知ることになる」

 

「……いずれ?」

 

「今すぐじゃない」

 

佐野さんは私の目を見ず、ゆっくりと立ち上がった。

制服の裾を整えながら、淡々と続ける。

 

「でも……その時が来たら……あなたの世界は、確実に変わる」

 

「……」

 

「元に戻れないこともある」

 

「……戻れない……?」

 

「そう」

 

佐野さんは、静かに、けれどはっきりとそう言った。

 

「知ることは、忘れられないことでもある」

 

「一度、見てしまったら……それまで信じていたものが、簡単に崩れることもある」

 

「それでも……?」

 

私は、ごくりと唾を飲んだ。

 

佐野さんが言う「知る」ということ。

それが何を意味するのか、私はまだ分かっていない。

 

でも、その先にあるものが、決して生半可なものではないことだけは理解できた。

 

「……それでも、知りたい」

震えていた。

恐怖がなかったわけじゃない。

佐野さんの言う「世界」がどんなものなのか、想像することすらできない。

それでも——

「知らないままでいるほうが、もっと怖い」

だから、私は目をそらさない。

「佐野さんが見てきたものを、私も見る」

もう一度、はっきりと口にする。

 

その言葉に、佐野さんはわずかに目を細めた。

 

「……頑固」

 

「……?」

 

佐野さんは、ふっと目を伏せた。

「……星野さんは、後悔しない……?」

その問いは、まるで独り言のようだった。

でも、私が答えるより先に、佐野さんは小さく首を振る。

「……いい、もう決めたなら……また、命令する」

そう言って、背を向ける。

けれど、去り際、ほんの一瞬だけ——

私の方を振り返った。

何かを言いかけたような、そんな表情で。

でも、彼女は何も言わなかった。

 

——バタン。

扉が閉じる音が、妙に大きく響く。

 

私は、残された静寂の中、ベッドに座ったまま動けなかった。

 

本当に、これでよかったのだろうか。

 

知らないままでいれば、楽だったのかもしれない。

でも、それを選ばなかったのは 私自身 だ。

 

佐野さんが去った後の部屋は、やけに広く感じた。

心臓が、さっきよりも強く鳴っている気がする。

 

私は、踏み込もうとしている。

本当に「知る」ことができるのか——その覚悟を、試される日が来るのだろう。

 

そして、その時、私は後悔しないでいられるのだろうか?

 

ふと、窓の外を見る。

空は、黒く沈んでいた。

 

まるで、何かを暗示するような、深い闇。

 

——その闇の向こうに、私は何を見ることになるのだろう。

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