オブスキュラに閉じ込めたい   作:多治見国繁

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第8話 絡め取られる日常

佐野さんが帰ったあと、部屋には私ひとりだけが取り残された。

静寂が降りる。

 

ついさっきまで佐野さんがそこにいたという証拠は、何もかもがなかったことのように消え去ろうとしている。

けれど、確かにそこに「佐野さん」はいた。

彼女が触れた空気、彼女が発した言葉、そして——彼女の匂い。

 

ふと、無意識に息を吸い込む。

漂うのは、淡く微かな香り。

汗と体温の混じった、生々しい現実を帯びた匂い。

それが、私の肌にまだまとわりついている気がした。

 

制服の繊維に染み込んだ湿り気が、ゆっくりと冷えていく。

佐野さんの熱が残っていたはずの場所も、時間の経過とともにじわじわと冷たくなっていく。

けれど、それはただの物理的な変化でしかない。

私の中には、まだ、佐野さんの温度が残っていた。

 

——私は、何を見ようとしているんだろう。

 

ベッドに腰を下ろし、ぼんやりと天井を見上げる。

佐野さんの言葉が、頭の中で繰り返される。

 

「あなたの人生が、変わる」

 

その一言が、まるで呪いのように心に絡みつく。

「変わる」とは、どういうことなのか。

何を見て、何を知ることで、私の人生は変わってしまうのか。

知る前の自分と、知ったあとの自分が、まるで別人のようになるということなのか。

 

怖い——そう思うべきなのに、怖いとは思えなかった。

むしろ、胸の奥にあるのは、奇妙な高揚感。

 

佐野さんが「知ること」を避けようとした理由を、私はまだ知らない。

けれど、彼女の言葉の端々に見え隠れする「恐れ」は、確かに本物だった。

 

佐野さんは——怖がっている。

何かを知ることが、何かを見せることが。

それなのに、それを私に「見せる」と言った。

 

それは、どういう意味なんだろう。

 

私は、ゆっくりとまぶたを閉じる。

 

暗闇の中で、佐野さんの声が反響する。

「契約だけの関係」

「最後にエッチしてくれればいいだけ」

「普通じゃない」

「知らないほうがいい」

 

どの言葉も、淡々としていた。

感情の揺らぎは、ほとんど見えなかった。

でも、あの一瞬だけ——私にしがみついていたときだけは、違った。

 

震えていた。

頼っていた。

そして、怯えていた。

 

——私は、何を見ようとしているんだろう。

 

もう一度、自分に問いかける。

でも、その答えは、今はまだ出ない。

 

佐野さんの残り香が、空気の中でゆっくりと薄れていく。

けれど、その存在を感じたという記憶だけは、簡単に消えそうになかった。

 

私は深い思考の海へと落ちていた。

ずっと、ずっと考え続けていた。

 

佐野さんの言葉、佐野さんの態度、佐野さんの匂い——

すべてが渦を巻きながら、頭の中を駆け巡る。

 

「あなたの人生が、変わる」

 

その言葉の意味を探そうとするたび、思考は無限に広がっていく。

知ることは、本当にそんなに恐ろしいことなのか。

それとも——知ることでしか辿り着けない何かがあるのか。

 

考えても、考えても、答えは見つからない。

まるで、形のない霧を掴もうとしているみたいに。

 

時間の感覚が曖昧になっていた。

カーテンの隙間から漏れる光は、いつの間にか赤みを帯び、やがて青黒く沈んでいた。

 

——夜になっていた。

 

気づけば、部屋の中は薄暗い。

ずっと考え続けていたせいか、頭がぼんやりと重い。

思考の波に飲み込まれ、まともに現実に意識を戻せない。

 

そんなとき——

 

「楓花!ご飯よ!」

 

お母さんの声が、現実へと引き戻した。

 

「——あっ」

 

自分の名前を呼ばれて、ようやく意識が浮上する。

ぼんやりとした視界が、部屋の輪郭を取り戻していく。

 

いつの間にか、手は無意識にシーツをぎゅっと掴んでいた。

佐野さんのことを考えすぎて、まるで夢の中にいたような感覚。

 

「……うん、今行く」

 

ぎこちない声で返事をしながら、私はゆっくりと立ち上がる。

体がやけに重く感じた。

 

窓の外をちらりと見やる。

街灯の淡い光がぼんやりと滲んでいる。

 

——私は、知る覚悟があるのだろうか。

 

そんな疑問が、心の奥底に沈んでいく。

 

私は、ゆっくりと部屋を出た。

 

「楓花、真っ暗でずっと何やってたのよ。何回も声かけたのよ?」

 

お母さんが呆れたような口調で言った。

 

「……考え事してた」

 

「しっかりしなさいよ。あんたは少し抜けてるところがあるから」

 

ひどい母親だ。

全く、可愛い娘に「抜けている」なんて、なんてことを言うんだ。

 

すると、お兄ちゃんがすかさず便乗してくる。

 

「ほんと、楓花はバカだからな。でも、そういうとこが可愛いんだけどな」

 

ニヤニヤしながら私の頭をくしゃくしゃと撫でてくる。

 

「うるさい」

 

私は軽く手を払う。

お兄ちゃんは「はいはい」と肩をすくめながら席に戻った。

 

食卓には、湯気の立つ味噌汁と、山盛りの野菜の上に豚肉がのった冷しゃぶ。

私の好物だった。

 

本来なら、ひと口食べるごとに幸せを感じるはずなのに——

 

味がしない。

 

いや、正確に言えば、味わっている余裕がないのだ。

 

頭の中に、佐野さんの声が、表情が、感触が、まだはっきりと残っている。

冷しゃぶのタレの酸味も、味噌汁の出汁の香りも、すべてが遠いもののように感じる。

 

私はただ、機械的に箸を動かす。

家族の会話も、テレビの音も、どこか遠くで響いているようだった。

 

「あら……? 楓花、どうかした? 何かあったの……?」

 

お母さんが、心配そうに私を見つめる。

めざとい。

 

食べることが大好きな私が、好物の豚の冷しゃぶサラダを前にして、何もコメントせずに席につき、まるで義務のように箸を動かしている。

それを敏感に察知したのだろう。

 

「う、ううん! 何でもないよ!」

 

私は慌てて笑顔を作る。

 

「う〜ん! やっぱり美味しい! 夏はやっぱりこれだよね!」

 

わざとらしく、箸を大きく動かし、豚肉をひと口頬張る。

 

酸味の効いたポン酢の香りが広がる。

でも—— 味がしない。

 

それでも、なんとか食べているふりを続ける。

お母さんの疑念を振り払うように、わざと大げさに美味しそうな表情を作る。

 

「ふふっ、そう? ならいいけど……」

 

お母さんはそう言って微笑んだけれど、その目にはまだ探るような色が残っていた。

 

「まあでも、楓花は少しくらい食欲ない方がちょうどいいかもしれないわね」

 

「え……?」

 

「だってほら、太ももなんてムッチムチよ? このままいったらまんまるになっちゃうんじゃない?」

 

「ちょっ!?」

 

「そうだぞ楓花! おまえがまんまるになったら、お兄ちゃん悲しいからな!」

 

「こんの…… バカお兄ちゃん! なんてこと言うの!? ひどい! 女の子にそんなこと言うなんてありえないっ!」

 

ムキになって抗議すると、お母さんがくすくすと笑った。

 

「ほら、喧嘩しない! 早く食べちゃいなさい!」

 

いつもの家族のやりとり。

どこか 安心する。

 

いつも通りの食卓、いつも通りの軽口。

お母さんの小言も、お兄ちゃんの適当な茶化しも、普段なら うるさいなぁ と思うのに—— 今日は、少しだけ心地よかった。

 

—— ここには、佐野さんの影はない。

 

それだけで、少しだけ気が楽になる気がした。

 

でも—— そこにすかさず、容赦なく佐野さんが脳内を侵略してくる。

 

食事すらも、佐野さんの影から逃れることはできない。

箸を動かせば、その度に 佐野さんの残像 が脳裏に焼き付いてくる。

 

お肉を口に運ぶと—— ざらっとした舌触り。

でも、それは佐野さんの 肌よりもざらついているな と考えてしまう。

 

ご飯を噛むと—— つるんとした感触。

でも、それは 佐野さんの足のほうがもっとなめらかだった と、勝手に比較してしまう。

 

—— 食事のはずなのに、どうしてこんなことを思い出すの?

 

ダメだ。

考えないようにしないと。

 

家族には絶対にバレちゃいけない。

少なくとも この食卓の空気に、佐野さんを持ち込んではいけない。

 

でも、頭の中では すでに犯された記憶が滲み出してくる。

 

お母さんが、この場で私に問い詰めてきたら——

「楓花、最近様子がおかしいけど、何かあったの?」

もしそんなふうに詰め寄られたら——

 

私は まともに答えられる自信がない。

 

だって、私がしたことは 普通じゃない。

 

佐野さんの 足を舐める服従の儀式。

首輪をつけられて、服を脱がされ、下着姿のまま写真を撮られ——

 

抱かれかけた。

 

その事実を お母さんが知ったら?

お父さんが知ったら?

お兄ちゃんが知ったら?

 

—— きっと、卒倒する。

 

お母さんは、驚きすぎて言葉を失うだろう。

お兄ちゃんは、冗談だと思って茶化すかもしれない。

お父さんは—— いや、そんなこと想像もしたくない。

 

だから、バレてはいけない。

バレたら 私はこの家にいられなくなる。

 

そう思うと、喉の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。

 

「……楓花? どうかした?」

 

お母さんの声に、私は ビクリ と肩を震わせた。

 

「どうして?」

 

お母さんの問いかけに、 心臓が一瞬止まったような気がした。

 

どうして——?

何を聞かれているの?

 

私の様子がおかしいこと?

それとも、私の頭の中を 佐野さんが侵食していることに気づかれた?

 

一瞬で思考が張り詰める。

 

—— 落ち着いて。バレてない。そんなわけない。

—— ここで取り乱したら、本当に怪しまれる。

 

「え、な、なにが?」

 

私はできるだけ平静を装いながら、箸を持つ手を動かす。

でも、その手はわずかに震えていた。

 

「だって、さっきからぼーっとしてるし、全然楽しそうじゃないし……」

 

お母さんは、 じっと私を見つめている。

鋭い視線。

普段は気にもしないような些細な変化を、親の直感で見抜こうとする目。

 

まずい——。

 

「そんなことないよ!」

 

私は わざと大げさに笑ってみせた。

「ほら、お肉も美味しいし、夏はやっぱり冷しゃぶだよね!」

 

箸を握り直し、 無理やり口へと運ぶ。

 

ポン酢の酸味が舌に広がる。

けれど—— やっぱり味がしない。

 

「……そう?」

 

お母さんは 少しだけ首を傾げながらも、疑いを完全には拭っていない。

 

「……ま、いっか。変なことしてないならいいけど。」

 

それだけ言って、お母さんは話題を変えるように、お兄ちゃんへと視線を向けた。

 

—— 助かった。

 

心の奥で安堵しながらも、 喉の奥がひどく乾いているのを感じた。

 

バレないようにしなきゃ。

私が どんなことをされたのか。

私が 今、何を考えているのか。

 

絶対に、知られちゃいけない——。

 

なんとかお母さんの疑念を振り払って、 逃げるように 自分の部屋へと戻る。

扉を閉めると同時に、 膝が崩れそうになった。

 

—— バレてない。

—— でも、あのまま続けていたら、きっと気づかれていた。

 

心臓がまだ早鐘のように鳴っている。

さっきのやりとりを思い返すだけで、 手のひらがじっとりと汗ばむのがわかった。

 

私は、そのまま ベッドに倒れ込んだ。

枕に顔を埋め、 ぎゅっと目を閉じる。

 

そもそも、私は今まで佐野さんを透明人間みたいに扱ってきた。

気にはなっていたけれど、深入りすることもなく、特別話しかけることもなく。

ただ 遠くから見ているだけで、私の世界とは交わらない存在だと思っていた。

 

それなのに—— 今さら、知りたいなんて言う資格があるのだろうか?

 

それに、佐野さんは 最初、拒絶した。

私が踏み込もうとすると、彼女は確かに「やめて」と言った。

「知らないほうがいい」「踏み込まないで」と。

 

私は、それを無視していいの?

彼女が拒んだことを、勝手に知ろうとするのは 傲慢なんじゃないの?

 

でも——

 

私はもう、知らずにはいられない。

 

佐野さんは 私に支配を強いた。

だけど、その一方で 自分の弱さを見せた。

 

冷たくて、強くて、全てをコントロールしようとする彼女が——

ほんの一瞬、 私にすがるような仕草を見せた。

 

その姿が、頭から離れない。

あれは、何だったんだろう?

どうして、あんな顔をしたの?

 

—— 私は、もっと佐野さんを知らないといけない。

 

それは、ただの好奇心なんかじゃない。

私は 佐野衣織という人間の素顔を知りたい。

あの支配の奥にある 彼女の本当の姿を——。

 

明日から、もっと佐野さんを知る努力をしよう。

 

そう心に誓いながら、私は ゆっくりと眠りへ落ちていった。

 

でも——

 

その前に めちゃくちゃ疲れた。

 

もう、ほんっっっとうに疲れた。

何なの、今日……?

感情がジェットコースターみたいに振り回されて、ぐちゃぐちゃだ。

体も心も、電池が切れたみたいに重たい。

頭がオーバーヒートして、考えようとしてもまとまらない。

 

ただでさえ、佐野さんのことを考えるだけで気力を削られるのに、

あんなことがあって、もう限界。

 

食事も味がしなかったし、

お母さんとお兄ちゃんの会話にもまともに集中できなかったし、

挙句の果てには、佐野さんの足の感触まで頭をよぎる始末。

 

もう無理。考えたくない。

 

思考をシャットダウンしないと、明日学校に行く前にぶっ倒れる。

いや、もうすでにベッドに沈み込んでるんだから、倒れるも何もないんだけど……。

 

考えない。今日はもう、何も考えない。

 

佐野さんの顔が、頭に浮かんでは消える。

彼女の冷たい瞳、震えた声、強引な手。

それがぐるぐる回って、どうしようもなく胸の奥に残っている。

 

でも 今はもう、眠るしかない。

 

こんなに疲れたんだから、明日くらいスッキリ起きさせてよ。

そんなことをぼんやり願いながら、私は静かに目を閉じた。

 

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