ユーディス  ~回転国家の吉凶サイクル~   作:智二香苓

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第1章
第1話 風見鶏


 常時紫がかった空の広がる、朝と夜の存在しない世界、国家『帝冠クラウン』。

 国のシンボルとして各地に取りつけられた無数の風見鶏の構造は、運気の流れを制御する装置――『因果歪曲計(ウェザー)』を設置するのにもっとも適した隠し場所である。我らが『帝冠クラウン』では風見鶏はなんの変哲もない代物なので、劣化や破損以外なら至近距離に近づかれることもなく、執拗に観察されることもない。

 

 ファッションやガーデニング感覚で多用なフォルムの風見鶏を飾るのが習慣化した近年では、風見鶏に関する作業は結構盛んに行われているので、こうして『因果歪曲計(ウェザー)』を設置していても、まず怪しまれることもない。

 細工に適した風見鶏の条件は、人目を避けるために高所に設置されているものを選ぶことだ。難があるとすれば、高所恐怖症の者には向いていないことで、さらに素早い設置が必要とされるこの作業は常人にはいささか骨が折れる。

 ネジ一つ回すのにも、部品を落とさぬように細心の注意を払いながら慎重に手元を動かさなければならない。

 

 今も、時計塔の天辺のすぐ下にある四方の屋根に取りつけられた四つの風見鶏のうちの一つに、細工した『因果歪曲計(ウェザー)』を修理するのに手間取っていた。しかも塔というだけあって周囲には遮蔽物がなく、地上から丸見えなので警備隊や関係者見つかってしまえば一発アウトだ。

 

 誤って工具を手から滑らせようものなら、物音に気づいた下界の住民が即座にこちらを見上げるだろう。最悪怪我人も出るかもしれない。

 修理中に運悪く替えの利かない部品を落とせば即座に作業を中断し、目を皿にして砂の中から石ころを探すような途方もない捜索に貴重な時間を割くこととなる。それほど高所の作業は繊細でシビアなのだ。

 

 そもそも論として、無許可で国のシンボルを弄っている時点で国旗損壊罪なのだが。

 しかもそれが、こともあろうに立入禁止の行政庁の敷地内にある、文化遺産に取りつけられているものを弄ったとなれば、罰金どころではない。

 こんなところを警備隊にでも見つかって捕まれば、よくて禁固、最悪処刑だろう。

 だが、それだけの危険を冒してでも、作戦を遂行しなければならないのだ。

 この先そう遠くない未来、自分たちに降りかかるだろう災難を先読みし、安住の地を手に入れるためには。

 

「だからこれ以上みんなの不安を煽るのはやめろつってんだろ⁉」

「変な予言ばっかしてさ、それが他人の迷惑になってんのわかんないの?」

 

 と、少年が時計塔の上で慎重に作業を進めていると、どこからか怒声が木霊した。やけに喧しい声に、フードを深めに被ったアラインは手を動かしながら下方を一瞥する。

 煤けて虫食いの目立つ汚れた黒装束の集団に、二人の男たちがつっかかっていた。

 行政庁には図書館や博物館が設けられており、一部敷地内は見学可能である。利用客も多く、頻繁に人が出入りしているため、多少賑やかでも変ではない。

 だが、今回に限っては様子が芳しくなかった。

 

 やけに高い声は落ち着きがなく、急き立て気味の口調からは話し合うと言うより、なんとしても相手を屈服させるという意思が感じられた。捲し立てたあとも、口を半開きにした能面には威厳など一切感じられず、黒装束に向ける非難の目は歪な敵意に満ちている。

 

 その男は一見筋の通った理屈で正義感を前面に出しているが、それも華奢な撫肩と猫背、なによりも何日も洗っていないような脂ぎった不衛生極まる髪質のせいで、すべて台無しにしていた。

 亀のように突き出たストレートネックの上に乗っかったアデノイド顔貌も相まって、その様子は、傍から見たら面倒な正義マンにしか見えない。ここまで行くと、どちらが迷惑行為をしているか見分けがつかない。

 だがその変人たちのお陰で、近々訪れるだろう危機に気づくことができた。

 アラインは目を細めると、男たちではなく怪しげな黒い群れを凝視する。

 

(黒装束の集団……もうこの辺りでもダースロウの移動が始まってるのか。『因果歪曲計(ウェザー)』を調整するペースをもう少し上げないと――いや、それよりも今は、騒ぎが起こる前に早くこの作業を終わらせよう)

 

 険悪なムードが漂う双方を無視すると、アラインは自分の仕事を急いだ。

 一方で黒装束に身を包んだダースロウたちは、目の前の若者たちには目もくれず、障害物を避けるように大回りして先へ進もうとする。

 

「おい逃げんじゃねーよ! まだ話し終わってねーだろ!」

 

 するとすぐさま若者のうちの一人が、集団の中でも老人のように腰の曲がった背の低い者の肩を掴み、ぐいっと乱暴に振り向かせる。相手はそのまま倒れかけ、その拍子に頭をすっぽりと覆っていたフードに空気が入り、大きく膨らんだ。

 

 刹那、ダースロウの付けていた不気味な仮面がカランと落ちる。

 暗闇に隠されていた秘密に光りが一筋差し込むと、わずかの真実が男の脳裏に焼きつく。

 シカトされて真っ赤だった男の顔は、次の瞬間には青褪めていた。

 恐怖で見開かれた目はフードの中に注がれ、蛇に睨まれた蛙さながらに硬直する。絶句してなお釘づけにされた視線は、本人の受けたショックの大きさを物語っていた。

 ダースロウは地面に落ちた仮面を拾うと、顔につけ直しながら語る。

 

「――規則を犯したな」

「あっ⁉ う、ぁぁ……」

 

 低い、喉に痰の絡んだような声音が、今はもう闇に佇んだフードの中から響く。

 小柄な体躯からは予想だにしなかった低音に、男は蒼白のまま慄いた。

 

「おい、なに固まってんだよっ」

 

 連れの異変に気づいて、もう一方の男が動揺しながら肘で脇腹を突いた。ダースロウの凍えるような声を聞いていなかったのか、友人にだけ注視している。

 ダースロウが腕を上げると、今度はその男もそれに気づいた。大き過ぎたゴム手袋をはめたようにダルダルになった皮膚の垂れ下がる掌が、怯えた男の方に向けられる。

 作り物のように不自然な手は男の顔の前で静止すると、しかしそれ以上接近することはなかった。代わりに名状しがたい威圧感が徐々に男の精神を蝕む。

 

「我ら『軸の番人(ダースロウ)』の配剤に則り、因果律を教導する」

 

 形式的な祝詞が終わるやダースロウは掌を広げる。刹那、細い蜘蛛の糸のようなものが5本の指先からふわりと、自らの意思があるかのように靡いた。

 突如現れた糸は、掌に収束してまとまると、空中でなにかを編んでいく。

 常識では信じられない摩訶不思議な光景に、男はまんまと目を奪われた。

 

「お前それ⁉」

 

 正気に戻ったのは、鬼気迫った声で怒鳴られたときだった。隣を見ると、友人が畏怖の表情を湛えながら、震える指先で漠然とこちらの全身を指している。

 視線は自分と糸を行き来していた。男は何事かと己の体を見下ろす。

 全身の穴という穴から、何本もの糸が布が解けるように放出していった。

 その糸はダースロウの掌に絡み取られ、今まさに編み物の材料として変造されている。

 

「うっ、わあぁ⁉ なんだこれ! 体から糸がっ……⁉」

 

 たちまち男は錯乱しながら糸を引っ張った。しかしすでに編み込まれた分を取り戻すことはできず、それどころか力の方向を間違うと、自身から余分に糸が抜けていった。その度に体内から自分が解けていく感覚が伝わる。

 後方にいた他のダースロウたちは、違反者に制裁が下される様子を静かに見守った。まるでそれが咎人への慈悲であるかのように、清らかな心で沈黙を守る。

 

 騒ぎに気づいて振り返った観衆は、目前で行われる迷惑極まりない戯れに、侮蔑に満ちた冷たい視線を向けた。そして巻き添えを食らいたくないと距離を取っていたが故に、ダースロウが操る因果も、男から放出する細い糸も見えなかった。

 実情を知らない者たちは、全身から関わり合いになりたくないという雰囲気を漂わせると、そそくさとその場から去って行く。

 

 儀式はいよいよ大詰めを迎えようとしていた。醜悪なパフォーマンスは、往来を行き交う人々の関心を惹き始め、ようやくただ事ではないことを住民たちに自覚させ、奇異の目が蒼一点に注目する。

 徴集された糸の量に比例して男の手足は縮み、皮膚の一部も分解され、それこそ本当に糸を解くようにして全身が萎んでいく。恐らく内臓からも奪われているに違いない。

 

 痛みはなかった。その代わり、少しずつ自分が綻んでいく感覚が鮮明に伝わるので、執拗以上に恐怖も倍増し、男の理性をも削り取っていく。

 その一方で、生成されていた編み物は『ヒアァァァ』と産声を上げながら徐々に大きくなると、やがて掌サイズの不格好な糸人形へと形作られていった。

 満遍なく編んだり縫われたりしていくので、人形のところどころの断面が露わになっている。そして驚くべきはその中身だった。丁寧にも内部には臓腑らしきものまで細かに配置されており、もはや人形とは思えぬ精密さで、丹念に作り込まれている。

 

「えう、おぅうぐ、ふう、ぇえ、あぁああぁあああぁああぁぁあぁ――」

 

 男は絶叫ではなく、まるで溶解したように奇妙な呻きを漏らすと、少しずつ形を崩しながら、紙風船のように萎み切ってしまった。

 干し柿のように干からびた男の残りカスは、ベチャリと生々しい音を立てながら地面に落ちる。もうそこに人間であったころの痕跡はない。それでもまだ男の息はあった。

 

 同時に糸人形の方も完成する。それも糸に吊られたまま、小さく身動ぎして。

 ダースロウは手首をくるりと回転させると、鋭利な爪で器用にすべての糸を絶った。

 生まれて間もない傀儡は、ようやく囚われの身から解放されると、地面に叩きつけられるや哀れに身を捩り、放虫さながらに素早くどこかへと逃げてしまう。

 

「うわああぁああああああ!」

 

 男の身に起きた悲惨、そして意思を持った糸人形に、連れは悲鳴を上げて逃走した。それを皮切りに一部始終を見ていた民衆たちも、恐怖に怯えた声で喚きながら、蜘蛛の子を散らすように四方へと散らばっていく。

 金切り声に交じり、ガシャガシャと鉄のぶつかる複数の足音が近づいてきた。

 聞き間違えようのない忙しない金属音に、それまで手元を動かしながら聴覚を研ぎ澄ませていたアラインは、ついに作業を中断して漠然と街全体を見渡す。

 

「お前たち、なにをしている! そこを動くな!」

 

 アラインの予想通り『帝冠クラウン』自慢の警備隊が駆け足で騒ぎの中心へと向かっていた。行政庁ということもあり、建物に待機していた警備隊が続々と湧いて出る。

 警備隊は鋼鉄の甲冑に身を包んだ者たちで編成されていた。

 

 お面のような角張ったガスマスクの頭部には、ゴーグルを直接埋め込んだように黒いレンズがついており、その奥は漆黒で見えない。体からは細いホースや配線が伸びて、別の部位へと繋がっている。鉄製のグローブには厳つい見た目の蒸気銃を携えており、走る度に全身でガッチャガッチャと鉄をうるさくぶつけ合わせた。

 そんなメカニックな様相には人間味がなく、緩急のあるスムーズな口調以外だと、滑らかに曲がる関節の装甲の隙間だけが、中身が生身であることを教えてくれた。

 

(今日の作業はここまでか……)

 

 徐々に緊迫感の増していく光景を尻目に、アラインは平静にドライバーを回しながら最後のネジを締めると、一人静かに吐息を漏らす。

 これだけ人が集まれば見つかるのも時間の問題。これ以上の滞在はリスキーだ。そう考えながら身支度を整えていると、足元でコツンとなにかが当たる。

 仲間からの合図だ。無意識にそう直感するとアラインは顔を上げる。

 

 向かいの建物の屋上から、アラインと近しい年恰好の少年が、こちらに向かってなにかを投げるモーションを取っていた。その手には小石が握られており、腕の中にもいくつか抱えている。

 やがてアラインの視線が自身を捉えたことに気づくと、今度は慌ただしい身振り手振りで、口をパクパクさせながら必死に警備隊を指差した。

 

(わかってる。お前は先に戻っててくれ)

 

 全力の注意喚起にジェスチャーで答えて、先に行くよう手を振る。

 その刹那、突然横殴りの風が頬を撫でた。衣服が必死に羽根を動かすようにはためく。

 アラインの長めの前髪は風に靡くと、17歳にしては大人びた光りを湛える切れ長の黒い瞳に髪が入る。苛ついたように顔を歪ませると、その相貌は年相応の顔に見えた。

 突風は建物の間を吹き抜けながら、国全体に分布する大小様々な風力発電機や風見鶏を直撃すると、慌ただしくプロペラを回転させた。至る場所の鉄の接合部から響く軋みと、装飾として取りつけられた風車のカラカラと回る音が、国中を支配する。

 

 想定外の気流にアラインは身を竦めた。建物の端から身を乗り出していた少年も、これにはおっかなびっくりし、思わず萎縮して急いで内側に避難する。

 その拍子に腕の中の小石をすべて落としてしまった。

 丁度真下を通過していた警備隊の甲冑に礫の雨が猛打する。いくどもカーンと鈍い金属音が鳴ると、騒々しい音の嵐が、先を急ぐ警備隊の全身と鼓膜を満遍なく襲った。

 

 少年はようやくヘマをやらかしたことに気づくと、みるみる顔を青くさせ、動揺のあまりたたらを踏んだ。やがて下にいた者たちは揃って頭上を見上げる。

 アラインは勢いよく振り被ると、持っていた工具を思いっきりぶん投げた。

 剛速球で放たれた鉄の塊は一直線に警備隊の方に飛んで行くと、アラインから見て一番手前にいた隊員の頭部に見事直撃する。

 

 鐘をハンマーでぶっ叩いたような凄まじい音が全体に響くと、隊員が被っていた甲冑はベッコリと凹み、中の本人は失神して地面に崩れた。生身の人間に当たっていたらと思うと、それだけでゾッとするほどの破壊力である。

 今度は隊員たちを含め、敷地内にいるほとんどの人たちが工具の飛んで来た方向――アラインのいる時計塔を振り返る。

 

「奇襲はあそこからだ! 屋根に怪しい奴がいるぞ、捕まえろ!」

 

 即座に先頭にいたリーダーと思しき人物が喚いた。一瞬戸惑っていた警備隊は鶴の一声で二手に分かれると、一方は引き続き騒動の方へ、残りは時計塔へと突貫する。

 そんな突然のアクシデントに、今度はダースロウたちが動きを見せた。

 彼らは一斉に黒装束をはためかすと、中から数体の糸人形を足元に落とす。その人形らは先ほどの因果の糸から縫い合わされた人形と同じく不気味な姿をしており、地面に落ちると幼子のような笑いを上げながら辺り一帯に散らばっていった。

 

「きゃああああ!」

 

 黄色い声が上がったのは即座のことだった。突然の悲鳴にアラインが目を向ければ、放たれた人形たちが地上の人々に集って、体中から因果の糸を引っ張って遊んでいる。

 糸を引っ張られた人たちは、まるで生地の解れを引っ張られたように身体の一部が緩んだり締め付けられたり、ときには破れた皮膚を生地のように引っ張られたりしながら、おどろおどろしく姿を変形させていく。

 

 ダースロウたちは騒動に紛れて姿を消していた。その間も人形たちは人々へのいたずらに狂喜乱舞し、五体満足だった者たちを不具へと変えていく。

 立て続けに銃声が響いたのはそのときだった。警備隊が蒸気銃を構えて、好き勝手に戯れる糸人形の群れを撃ち始めたのだ。

 銃弾が当たった人形は即座に破裂すると、糸や綿をぶちまけながら息絶える。上半身、あるいは下半身が残った人形は、地べたを這いずりながら笑い声を上げた。

 

「ええい、鬱陶しい人形だ! すべて燃やしてしまえ!」

 

 やがてどこからかそんな命令が響くと、火を用意した警備隊たちによってバラバラになった人形に火がつけられていった。下界はちょっとしたボヤ騒ぎになると、ますます住民たちの悲鳴も大きくなり、ただ事ではなくなっていく。

 

「こりゃ相当マズいことになってきたな」

 

 呟きながらアラインは手早く荷物を腰回りのポーチに仕舞い込むと、急いで時計塔の中に引っ込んだ。

 古びて錆だらけの青銅の鐘を横切ると、規則的に揺れる巨大な振り子を躱し、騒々しく音を立てる無限の歯車に支配された異空間を駆け抜けた。ほとんど前につんのめりながら三段飛ばしで螺旋階段を駆け下り、何度も手摺りを飛び降りていった。

 

「この上だ! 扉の前に固まれ!」

 

 地上の足場が見えてくると、同時に外から怒声が響いた。周囲からガシャガシャと重い鎧の音がし、警備隊が出入口に配置されたことがわかる。

 これ以上の好都合はなかった。

 階段から飛び降りると、アラインは着地した姿勢のまま、一度だけ目を閉じる。

 

(正規ルートは――)

 

 自身に問いかけながら心を凪にし、ゆっくり息を吸った。

 肺に取り込んだ空気の流れに自然と意識が向く。

 酸素が血流に乗って体内を巡ると、やがて血液は心臓に到達して、鼓動が体中から響いた。一定のリズムを刻む心音は、コウモリの超音波のように周囲に拡散する。

 

 音の情報は、空間すべての振動を拾った。

 外の隊員が蹴飛ばした石ころが猫に当たる。驚いた猫は大通りに飛び出す。飛び出した拍子に地面の花を揺らす。花に止まっていた一匹の蝶が空に飛び立つ。ばたついた羽が小さな気流を作る。小さな気流は風の向かう方向をわずかに逸らす。逸れた風は大気とぶつかり国全体に強風を巻き起こす。

 

 そして強風は先行く人々の足並みを早めたり遅らせたりした。乱れたテンポはいずれ各々の予定さえ狂わし、今後の世界情勢に影響をきたすだろう。

 人の流れ、空気の流れ、時間の流れ――それらが集約された情報の塊は風に乗り、運ばれた因果は巡り巡って自身の元に帰着すると、アラインは極限まで感覚を研ぎ澄ませた。

 全の中にあった二度と訪れぬ一瞬。アラインは己を取り巻くすべてを悟る。

 

「――『(ホルス)』――ッ!」

 

 詠唱と同時に静かに瞼を開ける。途端、瞳が黄色く色づき虹彩が変わる。

 引き伸ばされた体細胞生物のように流動的なものが視界いっぱいに蠢いていた。

 風に流れる粘着質な濃霧を想像するとわかりやすいだろう。それは時計塔を隅々まで満たすと、空間はある種の軽い幻覚作用、あるいは奇抜なアート一色の魔界へと変貌する。

 

 それも数瞬。即座に美化された装甲が剥がれると、もう少し落ち着いた目に優しい色合い、オーロラに近しい彩度へと下げられた。ようやく視界が安定する。

 やがてアラインは流動的なそれ――穏やかに流れる可視化された因果を認めた。

 因果が示すのは吉兆へ至るための道標。

 

 すなわち『(ホルス)』とは、最善と最悪の未来を見分ける特異な力のことだ。アラインはこれまでもこの能力によって、窮地へと陥る事態をいくども回避してきた。

 そして今回も『(ホルス)』を駆使して、窮地の回避と、最善への到達を試みる。

 

「こっちか!」

 

 階段の途中、アラインは辿るべきルートを見定めると正面の壁に突進し、そのまま時計塔の壁に空いている隙間から外へと飛び出す。

 すぐに外に待機していた隊員たちの数人が、地表を泳ぐ人影に気づいて、その本源を追って頭上を見上げた。アラインはそんな目下に咲く一面のアホ面を飛び越えると、隣の建物の開いていた窓に転がり込む。

 

「向こうに飛び移ったぞ! 計画的な犯行だ、悪質な野郎め。絶対に逃がすな!」

「痛っつぅ……なんでどんどん罪が重くなってくんだよっ」

 

 聞えてきた指示に呆れながら、アラインは打った個所を擦った。思わぬところで罪を重ねられていくため、いよいよ捕まるわけにはいかなくなる。

 窓から侵入したのは行政庁の一室だった。最近改装工事が行われているようで、人気はまったくない。時計塔内で見た因果もこちらに流れ、室内を通過して外に続いている。

 お陰でアラインは、難なく反対側の窓から表の路地に出られた。

 

「前から因果がこっちに続いてたのは知ってたし、逃げ道を確保しといてよかった」

 

 事前準備の大切さを噛み締めながら外に出ると、丁度こちらに走って来ていた人影と鉢合わせた。相手はアラインを見るや開口一番に謝罪する。

 

「悪いアライン、しくじった」

 

 申し訳なさそうにそう言ったのは、先ほどこちらに石を投げていた少年だった。髪質なのかぼさぼさの茶髪で、申し訳なさそうな表情をしているにもかかわらず笑っているようにも見え、なんとも憎めない顔つきをしていた。

 いつものことなので特に少年を責めることはせず、すぐに話題を変える。

 

「反省はあとだ。それよりさっき大勢のダースロウを見ただろ。もう大移動が始まってるみたいだ。また因果が巡って吉凶の境界が乱れるぞ。ジル、お前は先に行ってみんなに知らせろ。あと、どんなに遠回りになってもセーフポイントに沿って行けよ。どこで厄災が降りかかるかわからない。最近設置した『因果歪曲計(ウェザー)』の位置は覚えてるな? それを目印にしろよ。俺は別ルートから行く」

「別って、また『因果歪曲計(ウェザー)』のない道を行くつもりかよ⁉ お前それ本当に大丈夫なのか? そのうちマジでセーフポイントから外れるんじゃ」

「俺にはこれがあるから平気だよ――と」

 

 自身の目を指差すや、アラインはジルを突き飛ばす。

 

「うおぁ⁉ アライン、待――」

「いたぞ、あそこだ! 仲間と合流する前に捕まえろ!」

 

 思わずジルが漏らした呻きは、角から響く金属の足音と怒声に掻き消された。

 ジルは今しがた自分が出てきた建物の中に突き飛ばされると、警備隊の死角に入る。アラインはすぐさま踵を返すと、ジルがなにか言う前に駆けだした。

 

 そのあとを追って警備隊が建物の横を通り過ぎると、アラインの目論見通りジルは否応なしに身を隠す他なかった。慌てて奥に引っ込むと息を潜めて難が去るのを待つ。

 相方が隠れている間に、すでにアラインは人が通る道を外れていた。金網に指を絡めると腕力でよじ登り、塀を飛び越えて建物の間に身を滑り込ませる。

 移動範囲は屋外だけに限らなかった。

 

 穴の開いた壁から再び廃墟に侵入すると、通路を無視して割れた窓を突っ切る。二階の高さから大通りへと飛び降りて受け身を取り、突然現れたアラインに驚く人々の流れを横切って、今度は狭い通路に入ると、パルクールの要領で壁を上った。それからどこかのベランダからベランダに繋がれた洗濯ロープにジャンプすると、ぶら下がった状態で逆上がりし、そのままサーカスのピエロよろしく絶妙なバランス感覚で綱渡りをして、綱の向かいの建物に辿り着く。

 

 いくら警備隊から逃げるためとはいえ、一見道理から外れて見える、危険かつ無謀でアグレッシブな逃避。だがそこには本人だけが心得ている一貫性があった。

 

「さて、次は?」

 

 口の中で呟くと、3階の高さにいたアラインは、壁に設置された排水管に掴まりながら、ざわつく意識をリセットするため、片手で顔を覆って目を閉じた。

 心に凪が訪れると開眼し、指の間から飛び込んで来た周辺の景色を視野に収める。

 

 再度、この星の大きな流れに沿って靡いた因果を認知した。運命を司った実体のない潮は国全体に蔓延っており、それこそ海中のように縦横無尽に蠢いている。

 巨大な生物のように見える流動は、一つ一つに規則的な流れがあった。アラインが時計塔からここに至るまでの道のりも、それに沿ったものである。

 アラインは今まで無闇やたらと動き回っていたのではなく、規則に従ってルートを選んでいたのだ。

 

 セーフポイントを探す過程で得た抜け道の知識量は凄まじく、摸索や探究で常に更新されたこの国の地理はもちろん、地形や風向きに至るまでをもアラインは熟知していた。国の防衛のため日々見回りしている警備隊を庭の番人とするなら、数年に渡って視認した因果を辿ってほぼ毎日国中に『因果歪曲計(ウェザー)』を設置し、往来や難所を問わず駆けずり回っていたアラインは、庭のプロフェッショナルと言えよう。

 

「流れが続いてるのは――ぐっ⁉」

 

 続けられるはずだった言葉は、不意に訪れた急激な眩暈により中断した。

 突然ぐにゃりと世界が歪む。歪曲した風景は強烈なサイケデリックに彩られると、視界から直接脳を揺さぶり、凄まじい幻覚症状を引き起こした。

 刹那の奇襲はアラインの感覚を麻痺させると、排水管を掴む手からも力を奪う。すぐ真下の古びた木板の屋根の上に落ちるとそのまま屋根をぶち破って、硬い地面に全身を打ちつけた。

 

 屋根の材質が完全に朽ちていなかったのは不幸中の幸いだった。それでも今しがた粉砕された木板の破片の表面は茶色い変色や色褪せに水垢で汚れており、それなりに年月が経っていたことが窺える。

 ほんの一瞬とはいえ、よくアラインの落下に耐えたものだ。もしこのワンクッションがなければ、確実に打撲だけでは済まなかっただろう。

 そんな強運とも悪運とも取れない自身の定めに狼狽しつつ、アラインは全身の鈍痛に耐えながらも、先ほどの幻覚に当惑した。

 

「あ……が……! 今のっ、眩暈……は⁉」

 

 痛みに呼吸もままならぬまま混乱したのも束の間、そう遠くない距離から慌ただしく鉄のぶつかる音が聞えてきた。金属音は真っ直ぐこちらに向かっている。

 アラインはすぐに頭を切り替えると、骨や筋肉の上げる悲鳴を無視して起き上がった。

 出入り口は表から鍵がかかっていて外に出られなかった。仕方なく適当に周りにある積み荷を手早く重ねて足場を作ると、アラインは先刻自身がぶち抜いた屋根から脱出する。そのころには大声が間近に響いていた。

 

「さっきの音はこの辺りからだ! 周囲を調べろ!」

 

 ご親切にも、向こうからわざわざ自分たちの居場所を知らせてくれた。とは言うものの状況は芳しくない。むしろ悪い方に転がりつつある。

 一度態勢を立て直すため、アラインは落ち着いて能力を使える環境を確保しようと、屋根から屋根を伝って隠密行動を心がけた。なによりも落下時の鈍痛があとを引いて上手く体を動かせない。痛みで思わず身が引き締まる。

 そのとき、進もうとした先の足元で小さく火花が散った。それに続いて一発の銃声が虚空に轟く。途端に打撲で掠れかかっていた意識が急激に浮上した。

 

「バカ野郎! この距離で外してんじゃね!」

 

 銃弾が飛んで来た方向に目を向けると、隣の建物の上階にいる二人の隊員を発見した。内の一人はこちらに蒸気銃を構えており、悔しげに肩を震わせながらがなった。

 

「くそ、変なとこでふらつきやがって!」

 

 罵りながら再び銃の焦点を合わせる隊員。銃弾の着地点からして、アラインがたたらを踏まなければ弾が命中していただろう。その事実にアラインはゾッとした。

 

(撃ってきた⁉ もの投げただけで発砲命令って……嘘だろ⁉)

 

 投げただけとは言っても、それが工具となれば危険度はグッと上がるのだが……。それを抜きにしても、平常であれば到底あり得ない状況にアラインは頭が痛くなった。

 そのとき、ふと思い当たって急いで周囲を見渡した。嫌な予感は的中する。

 

「しまった! セーフポイントから外れ――」

 

 喚いた直後、叫びは立て続けに響いた発砲音に掻き消された。

 驚いたアラインは飛び上がると、目的もなく弾かれたまま、とにかく走る。

 すぐに後方から逃走者を追えと指示が飛ぶ。アラインは予期せぬ不運の連続に戸惑いながらも、原因を究明するため、混乱した頭を乱暴に回転させた。

 

(流れは読み間違えてないはず。途中に設置してあった『因果歪曲計(ウェザー)』も何度も確認したし、さっきまではセーフポイントに沿ってた。運は絶対こっちに向いてた!)

(じゃあどこだっ? いったいどこでルートを間違えた⁉)

 

 アラインは目が見えているにもかかわらず、今やなにも視えていなかった。

 どこを走っているかもわからぬまま、とにかくもう一度因果を目視しようと、急いで意識を左右の眼球に集中させる。

 瞬間、視界ごと意識が異次元に飛ばされた。

 先ほどまで極彩色のカーテン越しに視えていたはずの世界は、今や強烈な放射状の七色に侵食され、目を潰さんばかりに激しい点滅を繰り返す。

 耐えがたい視覚への暴力に、無意識に眼球が目を背けようと動けば、それに合わせて今まで放射状だった虹色の幻覚が形を変え、視界を眩しく照らし出す。

 

 四方へ散らばる可視光線はやがて液体のようにどろりと溶けると、何色ものぶちまけられたペンキが混ざり合ったような収拾のつかない色合いへと変わり現実世界を塗り潰す。

 その奥に映る元の世界は、建築物などのあらゆる無機物と、見えている限りの人や動物などの有機物でぐちゃぐちゃに混ざり合わされる。

 地面は人の顔の形へ、人間の体には辺り一帯の景色が組み込まれていった。

 

「ああぁぁああぁぁああぁああああああああああ――ッ⁉」

 

 時空を凌駕した領域を垣間見るや、アラインは絶叫した。 

 意識ごと向こう側に引きずり込まれるような恐怖と精神的激痛を覚えると、即座に両手で顔全体を覆いながらその場に崩れ落ちる。擦り切れかけた自我をどうにか保とうと、悶絶するように体をめちゃくちゃに振り回した。

 それらの苦痛は、次の瞬間、乾いた発砲音によって拭い去られた。

 

 新たに生まれたショックが上書きされると、強力に発動していた能力も強制解除されていく。たちまち心に平穏が訪れると、全感覚が安寧と静寂に包まれた。

 だがそれも長くは続かなかった。脇腹と右腕から発生した衝撃は徐々に熱を孕むと、途端に全身から力を奪っていき、踏ん張り切れずに脱力する。

 そのままアラインは体を倒すと、どことも知れぬ建物の屋上から落下した。




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