少女が頭上から迫る気配に気づいたときには、降ってきた影はすでに植物園の天井を貫き、侵入者の介入を許していた。
粉々に砕けたガラス片は、鋭くて繊細な残響とともに四方にぶちまけられると、鋭利な豪雨が植物園一帯に叩きつけられる。
人影は鬱蒼と茂った木々の密集地帯に落下すると、いくども枝の折れる音を響かせながら、緑地の中心へと消えた。
それまで和やかな沈黙を守っていた小さな密林は、途端に膨れ上がる勢いで鳥や虫たちが飛び立ち、周囲は無数の羽音と草木の擦れる音で支配された。
少し離れた花壇にしゃがみ込んでいた少女は、一部始終を目撃するや、お告げでも受けたかのような勢いで立ち上がり、慌ただしい足取りで現場に走り寄った。
それこそ天の導きに誘われるような容易さで、数分とかからないうちに少女は見事に騒ぎの真っただ中へと辿り着いた。
なんてことはない。今なお少女を掠めて逃げる鳥や虫たちが逃げまどっていた場所、木々の間を通り抜ける風、そして頭上で割れているガラス天井の位置を見れば、だいたいの落下地点は簡単に予想がついた。
あとは女の直感と運に身を任せれば、すぐに折れた木の枝や割れた破片の真ん中で倒れている人影を見つけられる。
遠目に見た感じだと、体に大きな損傷は見られなかった。落ちる途中で何度も木の枝に引っかかったことと、落ちた場所が土と草のクッションだったことが幸いしたのだろう。
だが何本もの樹木を丸ごと覆うほどの高さだ。例え落下時の衝撃が緩和されても、打ち所が悪ければ無事では済まない。腕と腹から血を流し、あちこち破れた服装の少年が倒れていた。
取り敢えず状況を確認しようと、少女は用心しながら相手に近づく。
『ここで』
『なにをしてる』
奇妙な音声に少女が背後を振り返り、倒れていた少年に背を向けた直後、少女は少年側へ体を引っ張られ、喉元になにかを突きつけられた。
顔を上げれば、さっきまで倒れていたはずの少年――フードの下で苦痛に顔を歪めるアラインが、己の体に腕を回して引き寄せていた。
その手中には先の尖った工具が握られており、凶器としての扱いに慣れていない手は小刻みに震えている。それでもどうにか少女の首に狙いを定めていた。
そんな行動と心情が伴っていない様子に、少女は物怖じするどころか、いつも眠たげなタレ目を少しだけ持ち上げると、興味深げに工具を見つめる。
「コラ、誰かいるのか⁉ ここは立ち入り禁止だぞ!」
騒ぎを聞きつけた警備員たちが木々の間から現れる。そして凶器を持った侵入者と人質の少女を見て硬直した。同様にアラインも警備員たち側にいる異端に気圧される。
その視線の先には、頭全体をヘルメットのシールド部分で覆い、執事服をまとう長身の人物がいた。先ほど奇妙な声を発した張本人である。
目測でも身長は優に2メートルを超えており、すらりとした手足や胴体や股下は当然のこと、白い手袋をした指先までも木の枝のように細長い。新品同然に光沢を放つ革靴も、見たことないほど大きなサイズだ。
ウエストは黒光りしたシールドの頭部と同じくらい細い。肉づきの悪いひょろりとしたモデル体形は、子どもがぶつかっただけでも簡単に折れてしまいそうである。
にもかかわらず、その全身から醸す禍々しさは凄まじかった。
頭部がメタリックなことも相まってか、姿勢のいい佇まいは、そのもやしのような細身に眠る底知れぬ力強さを彷彿とさせ、隙のない出で立ちからは熟練者独特のオーラが滲み出ている。加えてこちらを発見したときの奇怪な肉声。
(なんだったんだ、今のは……声が二つ聞こえたはずなのに、一人だけ?)
正面からかけられた『ここで』と『なにをしてる』という呼びかけは、確かに別々の声帯から発された言葉だった。数からして少なくとも二人の人物がこの場にいたはず。
どうしたことだろうか、少女を人質に取ったときには執事しかおらず、警備員たちもあとから来たのを目撃した。故に後者たちは除外される。
であれば考えられる可能性は一つ。二つの声は執事から発声されたものだ。また先ほどの肉声には、執事独特のトーンがあり、自分たちとは別の存在であることが窺えた。
(あれは人……なのか? 声だって録音した音声みたいだったし……どっちにしても、まともにやりあったらヤバそうだな)
ここまで違和感が揃えば、わざわざ因果を映す目を使わずとも、執事が華奢な体躯だからと舐めてかかれば、確実にやられることが本能的にわかり、ゾクリとした。
よく見れば襟から見える首元もシールドに包まれており、肌が露出している部分が見当たらない。まるで人間味が感じられず、増々得体の知れぬ相手への警戒心が高まった。
だが幸いかな、こちらには人質がいる。
(この子には怖い思いをさせて悪いけど、ちょっとだけ利用させてもらおう)
とても姑息な手段で、見知らぬ少女にも迷惑をかけてしまうが、これも生き残るため。
そう自分に言い訳をして正当化したアラインの自尊心は、刹那に打ち砕かれた。
警備員たちが少女の安全を考慮して足踏みする中、執事は悠然と一歩踏み出す。
「⁉ おい、こっちには人質がいんだぞ! こいつがどうなって、も……」
それでも臆さない足取りに、言葉の途中でアラインは脅しが無駄だと悟って絶望した。
敗因はこの執事が警備員たちと同じように、少女を案ずる心を持ち合わせていると錯覚していたことだった。なぜこの得体の知れぬものに良心があると勘違いしてしまったのだろうと、途端に後悔の念が押し寄せる。
(人質がどうなってもいいのか⁉ それともなにか打開案が――)
執事の躊躇いのない歩調は、アラインと同じく狼狽する警備員たちを尻目に、目の前の対象を排除しようと着実に向かって来る。
いずれにしても四面楚歌。考え得る退路は断たれた。
(……いや、まだだ。まだ可能性は残ってる。窮地を覆す淡い可能性が!)
しかし、それでもアラインはまだ諦めていなかった。胸中で自身に言い聞かすように発破をかけると、チラリと腕の中の少女に切望の眼差しを向ける。
(もしあれの強気な態度がハッタリで、本当は人質の身を案じていれば――)
実際に少女が傷つく場面を目の当たりにすれば、態度を改めるはず、と。
そう思い至ったときには、アラインは工具を持つ手を振り上げていた。
後がない状況に、切羽詰まった思考は判断を鈍らせる。ほんの少しだけ斬りつける仕草をするつもりだった切っ先は、勢いよく少女の顔目がけて吸い込まれ――
ズドン! と重い音を立てて、落ちた鉄鋼がアラインの目前で地面に突き刺さった。
「――ハァッ!」
あまりに突然のことに全身を硬直させると、アラインは安堵とショックの息を盛大に吐き出した。振り下ろした切っ先は間一髪で少女の鼻頭で急停止する。
頭上を仰げば、先ほどアラインが突き破った天井がある。鉄鋼の正体はその一部だった。
老朽化で元々強度が落ちていたのだろう。天井は大きな亀裂で覆われていた。
執事はそれら一連の流れを予期していたように跳躍し、一瞬のうちに目の前に回り込まれた。
一同が一瞬のハプニングに気を取られ、全員の緊張の糸が切れたと同時に前に飛ぶと、排除対象目がけて一直線に迫る。
アラインが跳躍した執事に気づいたとき、すでに距離を半分以上も縮められていた。
明かに人間技ではない身のこなし。今から身構えようにも体が動かず、当然回避も間に合わない。間近に迫った死の気配を嗅ぎ取ると、アラインは血の気が引いて卒倒しかけた。
なによりも恐ろしかったのは、跳躍したその姿。
通常なら一つしかないはずの肘と膝の関節が、二つも存在していた。
腕の方は上腕と前腕の間にもう一つ上肢があり、足も前述と同じ有様だ。背中は肩甲骨が筋肉ごと剥がれたとしか思えないほどに面積が広がって可動域を超え、腰骨も数十センチ伸びている。突進速度も剛速球のような速さが出ており、人間の備え持つ機能を完全に超越していた。
(死――ん――!)
反射的に死を覚悟した直後。暗闇に閉ざされた予想を裏切ったのは、立て続けに響いた轟音と、双方を遮るように崩れ落ちた天井の残骸だった。
跳躍で空中にいた執事は止まることは愚か、避けることもできず、そのまま上からの重圧に押し潰されると、残骸の下敷きになって埋もれてしまう。
事態はさらに悪化した。一度崩れた天井は穴の開いた中心から一気に拉げると、外側に向かって順に崩壊していく。これには警備員たちも撤退を余儀なくされ、急いで来た道を戻って行った。
アラインも即座に避難を試みようと踵を返し、不意に少女と目が合う。
「しま――っ!」
思いがけず素顔を見られフードに手が伸びかけ、だが残骸の豪雨の中でそんな猶予はなかった。アラインは咄嗟に少女を連れて、警備員たちとは逆方向に走る。
幸いにも向かった先には非常口があり、これまた運がいいことに鍵もかかっておらず、二人は簡単に外の非常階段に出ることができた。
(出口に、鍵の開いたドアに、階段……なんだ、この奇妙な運のよさは? 『
先ほどまでの災難続きとは打って変わり、見違えるような妙な幸運の巡り合わせに眉根を寄せつつも、アラインは眼前に広がる外界を見渡す。
前方には見慣れた街並み。すぐ真下には湖と見紛うほどに巨大な水域を認め、そこが周辺地域に分布する用水路の合流地点であることを理解した。
一度外に出てしまえばアラインの独壇場だった。たちまち脳内に地図が描かれると、自分の現在地を確認し、進むべき道を把握する。
(過剰反応のせいで因果は見られない――が、設置した『
瞬時に『
と、アラインは不意に顔を歪めて、先ほどから痛む腹部に目を落とす。
真っ赤に染まった衣服を捲ると、1センチ前後の肉のクレーターから血が滲み、痛々しい銃創が口を開けていた。それは先刻隊員に撃たれたときの傷跡。
(傷の浅さからして跳弾か……いや、銃の威力が弱かった? 弾が傷口を塞いでて出血は少ないけど……ったく、いまいち運がいいのか悪いのかわかんない展開だな)
視線は目下の分水路へ、片手はやけに落ち着いている少女をしっかりと掴み、残った方は怪我に触れたままアラインは思考する。そのとき下から複数の足音が響いた。
「おい、話が違うじゃないか! ピンピンしてるぞ!」
「なんだって⁉」
何者かと顔を向ければ、ついさっきまで追いかけっこをしていた警備隊が、驚愕の表情でこちらを見上げていた。アラインの死体の確認に来たのだろうが、事前情報と違うものだから当惑しているのだろう。武器を構えて駆け上がってくる。
だがお陰で躊躇いは消えた。後方はもちろん、下方も逃げ道を絶たれれば、もう残された退路は一つしかない。アラインは一方的に少女に告げる。
「力むと沈むから体に力入れるなよ」
「え――」
それが初めて聞いた少女の第一声だった。それまで他人事のようだった顔つきは、年頃の少女らしくきょとんと目と口を丸くし、これまた呆けた声を漏らす。
そのときにはもうアラインは少女を抱え、前方の分水路に飛び込んでいた。遅れて上って来た隊員の一人が、一緒に来た仲間に急いで新たな指示を出す。
「水の中だ! 射撃用意――うわああぁあ⁉」
命令をしたのも束の間、後ろの植物園の天井が崩れながら迫り来ると、それに気づいた隊員たちは悲鳴を上げながら階段を駆け下りて、急いで来た道を戻った。
たちまち植物園が瓦礫と化すと、もはや逃亡者を捕まえるどころではなかった。なんの騒ぎかと野次馬が集まってきたが、今まさに崩れ落ちようとしている建造物を目の当たりにして、植物園から阿鼻叫喚の声を上げて慌てて逃げ出して行く。それまでアラインを追っていた部隊はやむを得ず救助や警備に駆り出された。
徐々に隊員たちの頭から逃亡者の姿が薄れて行く一方、分水路に飛び込んだアラインはというと、今まさに激しくうねる波に翻弄されていた。
「ぶっ、がぼ! ……げほっ、げほげぼ! ちくしょ――」
冷たい激流が四方から激突する度に、アラインは顔にかかる飛沫に奮闘しながら悪態をついた。そして水面が荒々しい理由を悟り、一人歯噛みする。
(ああ、そういえば昨日は雨だったか……。どうりで流れが強いわけだ)
アラインの考えた通り、この日、川の水量は平常と比べて増加していた。各地の水路の勢いは激しく、それが一点に集中すれば、執着地点が波打つのは自明の理。
自然の驚異に奮闘しながら、アラインは分水路の奥のトンネルを一瞥する。
(前に設置した『
(使えばまた幻覚を見るかもしれない……けど、今はそんなこと言ってられない!)
目標を見定めるとアラインは賭けに出た。
先刻の酷い吐き気と幻覚を頭から振り払うと、意識を集中して、もう一度因果の可視化を試みた。途端に能力発動の兆しを覚えるが、能力は発動することはなかった。
(因果が見えない⁉ さっきはあんな強烈に映ったのに、なんで今度は一切の流れが)
「流れに逆らおうとするから余計苦しいんじゃない?」
土壇場のスランプに絶望し、息継ぎも忘れて水に沈みかけていたとき、すぐ隣から冷静に諭され、アラインはギョッとして振り向いた。
「体に力を入れないって教えてくれたのに、自分で忘れちゃったの?」
いつの間にかアラインの拘束から脱していた少女は、不思議なものを見るような様子でアラインに言い聞かせた。
不思議なことに少女は優雅に水流に身を任せていた。しかし少女は踊っているように見えた。波打った飛沫は頻りに少女の顔を濡らして口に入り、首から下は常に全方向からの水の体当たりで上手く姿勢が保てず、何度もひっくり返りそうになる。
それでも激流の渦中とは思えぬほど安定し、溺れる予感は微塵も感じさせなかった。
「お、おま! いつの間に離れ――ぁ?」
高ぶりかけた感情はそれ以上上がることなく、それどころか突然気が遠退いてアラインは脱力した。意識が肉体から乖離する感覚に視界が徐々に暗くなる。
(やべ、意識が……まあそりゃ変な幻覚で眩暈がするほどだったし、さらに撃たれた上に、走るは血を流すは、冷水に急に飛び込むは息できないわ。意識も朦朧とするか……)
頭がくらくらすると一周回ってどこか他人事に思え、むしろ落ち着いて思考できた。かと言って現状から脱する気力も残っておらず、ぼんやりとそんなことを考える。
度数の合わない眼鏡のように視界が霞む。いくどか世界が明滅を繰り返すと、次の瞬間、まさにアラインが目指していたトンネルが目前に迫った。
(あ、れ……? いつの間に俺、ここまで泳いで……? まあでも狙い通りの場所だし、細かいことは別にいい、かぁ……)
ダメージを受け過ぎたアラインの肉体は限界間近で、判断能力が失われていた。考えることすら億劫になると、もうどうにでもなれと、もはや流れに身を任せるしかない。
何度か視界が暗転した。視界が点滅する度に薄暗闇の中にゴツゴツした岸壁とヌメヌメした泥や苔が目に入る。二度目の点滅ではトビケラの群れが頭上を飛び交い、三度目で見覚えのあるプロペラとセーフポイントを示す風見鶏型の『因果歪曲計(ウェザー)』を認め、やがて叩きつけるような水音が遠くから聞えた。
徐々に光明が世界を照らし出したことを漠然と察知したとき、アラインは己が出口の土管から放り出されたことを理解した。流れ出た水と一緒に高所から下の水面に全身を叩きつけられるのを感じると、水中に体が沈んでいくことがわかる。
なにかに引っ張られて体が浮上した。疲労でほとんど閉じかけていた瞼を開ければ、薄目の先で、見覚えのある影が自分を陸地に引きずっている。
そこから先は夢を見ているようだった。意識の外から声が響いて来たかと思えば、自分を引っ張っていた人物がフレームアウトして、新しく現れた人影が仰向けの視界の中で代わる代わるにこちらを覗き、慌てた様子で何事か叫んでいる。
よく見れば、そのどれもが見知った人相だった。ついには時計塔の近くで別れたはずの相棒までが、口づけする勢いで真っ青な表情を近づけるではないか。
(なんだ、走馬灯か? 思い出すならもっと他にいいものあるだろ……なんで死に際に野郎の顔面を至近距離で拝まないといけないんだ……)
抗議したいほどの心残りを感じて、アラインは最後の力を振り絞って男性陣から顔を背ける。すると天地の逆転した先に、ずぶ濡れになった少女が目に入った。
疲労困憊の様子で少女は肩を上下させている。あの冷たい激流に身を晒していたのだ、体力もかなり削られたことだろう。
年頃は14歳くらいだろうか、アラインよりは幼く見える。通常であればサラサラでストレートの銀髪も、今は水に濡れておでこに張りついていた。どこか異国情緒漂う上等な布で作られた衣服も、水中にいるせいでよれてしまっている。
(無事だったのか、よかった。逃げるためとはいえ、変なことに巻き込んで悪いことしたな。なにか詫びを、入れない、と……――)
湧き上がる謝意にどう申し開きをしようかと頭を巡らせていると、徐々に蓄積する泥のような眠気に意識を圧迫され、そのままアラインは失神した。
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