ぼんやりと見覚えのある天井を見つめて、しばらく過ぎたころだった。散漫な頭で浅い呼吸を繰り返していると、しわだらけの女性の顔が覗き込んでくる。
「やっと起きた。目はきちんと覚めた? 気分はどう?」
「あー……」
見慣れた相貌から発された親しみのある声に、アラインは生返事をしながら脳内で状況を整理した。一先ず、自分が今ベッドに横たわっていることは理解する。
寝起きで焦点の定まっていない目を凝らすと、頭にバンダナを巻き、つなぎ服を着たつり目の少女の横顔が見えた。その手には丁寧に畳まれた衣類が積まれており、今まさにタンスに仕舞われている最中である。
「カンナ……? てことは店か」
おぼろげな覚醒の中で口籠りながら現在地を把握すると、見知った人物にアラインは安堵した。カンナはアラインが経営している店の従業員で、何年も一緒に仕事をしている信頼の置ける数少ない友人だ。
覚醒したばかりで霞む頭にエンジンをかけつつ、アラインは起き上がろうと身動ぎした。
「っ……」
腹部から走った痛みに瞼がピクリと反応し、不意を突かれて思わず声を漏らすと、顔をしかめながら思い当たる節を探す。すぐに思い至った。
(ああ、そういえば撃たれたんだっけか)
跳弾を受けたときの場面が脳裏に浮かんで納得する。気を失ってからどのくらい時間が経ったのか、不意にそんなアラインの心を読んだようにカンナが話を振った。
「まだ怠そうね。と言っても、3日も寝込んでれば体も訛って当然か」
「3日だって⁉ いつの間にそんな……てか、なんで俺はここに」
「途中何度も目を覚ましたのに忘れたの? まあ、あんだけ高熱出して魘されてたら、意識も朦朧として覚えてないか。よっぽど疲れてたんじゃない?」
タンスを閉めると、カンナは棚にあった体温計を手渡す。その意図を察して無言のまま脇に挟むと、看病されていたときの断片的な記憶が浮かんだ。
(言われてみれば、何回かトイレと着替えで起きたような……)
手持無沙汰でしばし追想していると体温計が鳴った。数値は少しだけ平熱を下回っていたが問題ないだろう。今度は傷を庇いながら身を起こす。
毛布を胸から退かしたところで、部屋の中を軽く片づけていたカンナはアラインに渡された体温計を受け取り、数値を見ながら気遣わしげに言った。
「もう起きるの? 病み上がりなんだからゆっくりしてればいいのに」
「熱も下がったし平気だよ。それにこれ以上迷惑はかけられないし」
「迷惑だなんて……。だいたい体は大丈夫なの? そんな怪我してきて」
「あーそれは……」
痛いところを突かれて思わずどもる。跳弾とはいえ負傷したのだ、まだ治療跡を確認したわけではないが、それなりの手当ては受けたはず。となれば、一連の騒動がカンナの耳に入るのは明々白々。だがそれはたいした問題ではなかった。危惧すべきことは他にある。
傷を刺激しないよう、アラインはそっと服の上から傷の場所を触った。
(包帯かなにかが巻かれてる感触……誰かがやってくれたのか)
(ということは、体は確実に見られてるってことか。くそ、完全に油断してた。いったい誰が怪我の手当てを――)
揺るぎない事実を確認するとアラインは危機感を抱いた。途端に眉間に眉が寄る。
芳しくない状況にアラインが思いを馳せて黙考していると、カンナは心底呆れたようにため息を吐くと、やれやれと首を振る。
「どうせまた無茶したんでしょ。頑張るのはいいけど程々にしなさいよ。命あっての物種なんだからね。傷の治りは早いようだからよかったけど」
「手当したのか⁉」
さり気ない一言に、それまで沈黙していたアラインは弾かれたように反応すると、最悪の事態を想定して血相を変えた。無自覚にカンナに向ける眼光に軽蔑が滲む。
が、当のカンナはこちらに一瞥をくれることもなく、別の作業に取りかかりながら、からかうようにフッと鼻だけで笑った。
「見てないわよ。あんた昔から肌見られたり触られたりするの嫌がってたじゃない。というか、私が怪我のこと知ったときには、すでに他の子がやってくれてたわよ」
「別の子……?」
親しみの籠った口調から、第三者がカンナにとって身近な人物であると察した。
好ましくない展開に心がざわつく。
(カンナは手当てしてない……いや、冷静に考えればそうか。傷を見れば撃たれことは明白だし、もっと突っ込まれてたはず。この様子だと診療所にも連れてかれてないな……)
誰か心当たりはないかとアラインは知り合いの顔を順に思い浮かべる。だが見知った顔ぶれにそれらしい人物は当てはまらなかった。なぜならアラインと親しい者なら、本人が体を見られるのを嫌っていることを知っているからである。
よって面識のある面々は除外される。だからこそ的を絞れず厄介なのだが。
(他の奴も、俺が体に触れられるのを嫌がってることを知ってるから、多分手当はしてないはず。そもそも重症なら今頃診療所だ。第一手当ての感じからして医師じゃない)
消去法により無事仲間たちへの疑いは晴れた。だがそれが却って不安を増大させる。結局傷の手当てをしてくれた人物はわからず終いだ。
これ以上の詮索は無駄に神経が擦り減るだけだった。アラインはネガティブに支配されてはいけないと、ドツボにはまる前にさっと頭を切り替える。
傷に響かぬよう慎重にベッドから出ると、カンナに伝えた。
「どっちにしてもたいした怪我じゃないから平気だ。それより店の準備をしないと」
「もう働くつもりなの? 病み上がりなんだから休んでればいいのに」
カンナは早速動き出そうとするアラインを引き留めた。その言動を予想していたアラインは、あらかじめ考えていた決まり文句で対抗する。
「仕方ないだろ、祭りが近いんだから。そうじゃなくても3日も寝込んで店を空けっぱなしにしてたから仕事も山積みになってる。すぐに遅れた分を取り返さないと」
「そっちも私がいるんだし、他の子たちが切り盛りしてくれてるから、そんな慌てなくて大丈夫よ。まったく、ほんとあんたは昔っからなんでもかんでも全部一人でやろうとするんだから。ちょっとは周りを頼りなさいよ」
「昔って何年前の話だよ。そんな小さいころのことを持ち出さなくてもいいだろ……それに今はちゃんとあいつらにも仕事を任せてるって」
説教ついでに幼少期のことを持ち出され、アラインはムッとして反論した。しかしカンナの方が一枚上手だった。すぐにアラインの無自覚な悪い癖を突く。
「なら信用なさい。心配になるのは信用してない証拠だよ。小さい子ならともかく、あんたより年上の奴だっているでしょ。それとも信じてないの?」
「いやそれは極端過ぎるでしょ。俺だって信用はしてるし……」
「それにみんなから言われてんのよ。どうせあいつは目を覚ましたらすぐに動こうとするだろうから、もし起きても無理矢理休ませろって。常に冷静な判断ができて、的確に周りを見て、どんな困難でも掻い潜ってきたリーダーのあんたが!」
カンナはそこで言葉を区切るとアラインの顔をビシッと指差し、
「銃弾を受けるなんて相当ショックだったみたいよ! みんな顔真っ青にして落ち込んでたんだから!」
と、叩き込むように言い放つと、心配そうに顔を覗き込んできた。
「気を失ったあんたを運んで来たのも、あいつらなんだからね。いったいなにをしたら銃で撃たれるようなことになるの」
同い年の少女に懇々と言い聞かされて、こちらを覗き込む仲間たちの怯えきった表情が浮かんだ。
確かにあのとき、気を失う前の夢現のときにそんな表情を見たような気がして、アラインは言葉に詰まる。
すると途端に罪悪感に苛まれて伏し目がちになる。怪我をしたのは自分のはずなのに、どうしてか人を傷つけてしまったような気持ちになって、良心が痛んだ。
一人アラインが悔恨に首を垂れると、カンナは苦笑とともに目尻を下げた。仕方ないと言いたげに息を吐くと、不器用な子に言い聞かせるように優しく説く。
「みんなもあなたに恩返ししたいのよ。これでもリーダーなんでしょ? ならそのお願いを聞いてあげるのも、リーダーの務めだと私は思うわよ?」
何度目かの説得をされて、ようやくアラインはカンナと目を合わせる。そこには手のかかる子どもに向ける、慈愛に満ちた優しい眼差しがこちらに注がれていた。
(願いを聞いてやるのも務め、ね……)
言い訳の口実をここまで提示されては、断る方が不躾と言うものだろう。
そんなアラインの気も知らず、カンナはベッドの横に着替えを置いた。
「あんたが着てた服、洗濯しといたからね。穴が開いたところはツギハギにしたからみっともないけど、しょうがないわね。あんまみんなに心配かけんじゃないわよ」
それだけ言うとカンナは部屋を出て行った。アラインは参ったと言いたげな顔でボタンを外していく。寝巻を脱いですぐ、腹部に巻かれた包帯に目が行った。
わずかな緩みや小さな隙間から、漫然とその補強が素人による処置であることが窺い知れる。それでいて包帯が解け切らず丁寧に巻かれているところから、手当てした相手が手先の器用な者であることも推測できた。
己を処置した人物の特徴を割り出すため、些細な痕跡から少しでも多くの情報を引き出そうと、アラインは頭をフル回転させて躍起になる。
ついでに傷の具合を確認しようと包帯の上から手を触れた瞬間、アラインは覚えのある違和感を認めると、犯人の痕跡探しを中断して手荒に包帯を剥ぎ取った。
「……ッ!」
下に隠れていた大きめの絆創膏を毟るや、アラインは愕然とする。
跳弾によって受けた傷口は、カサブタの代わりに鱗で覆われていた。
爬虫類を彷彿とさせる小片は薄く、脱皮したての抜け殻のようで、まだふやけている感じである。鱗は鮮やかなピンク色の光沢を放っており、その周囲の皮膚は赤黒い毛細血管が浮かび上がって、血流を送りながら不気味に変色していた。
「……っ……う……ッ!」
厭わしい呪印を見ると、凄まじいショックでアラインは卒倒しかけた。
鱗を中心に全身から頭頂部に向けて一気に虫唾が突き抜けると、一瞬にして名誉や尊厳を穢されたような絶望と忌避感に心を支配される。まるで体の内側から純潔を犯されたような気持ち悪さを覚え、途端に自分自身が忌まわしい者としてせつなくなった。
潔癖恐怖や脅迫症状ともつかない得も言えぬ強い不快感を取り除こうと、アラインはほとんど反射的に、脱皮直後のように瑞々しい柔な鱗を指先で摘まむ。
そのまま力任せに思いっきり引っ張ると、皮を剥がれるような激痛とともに、皮膚に張りついた鱗をベリベリと剥がしていった。
あまりに勢いをつけたせいで鱗の下の薄い皮膚ごと破れる。治りかけていた鮮やかな傷口から血が滲むと、そこでアラインは焼けつくような痛みに思わず手を止めた。
だがそれはラストスパートをかけるための一呼吸に過ぎなかった。肌が裂ける痛みよりも化け物に変わりつつある現実への恐怖が勝ると、アラインは奥歯を噛み締めながら一気に鱗を引き千切った。
羽を捥がれたような、乳歯が抜けたときのような解放的な痛みとともに、病根と分断された安心感が全身に広がる。それこそ癌細胞を切除したような清々しさに、アラインのざわついていた心はようやく安堵と静寂を取り戻した。
一息に毟った個所は根っこの部分だったようで、鱗の裏には千切れた肉片が引っついていた。鱗を剥がした傷から流れ出た一筋の血が皮膚を伝っていく。
アラインは手近にあった薄葉紙を適当に取り、サッと血液を拭った。ピンク色に抉れた傷口が露わになると、新しく血が滲む前に先ほど剥がした絆創膏を貼り直す。
元々乾いた血で汚れていた絆創膏の表面に、新たな鮮血が浮かんだ。アラインは興味なさげに目を逸らすと、血を拭いた薄葉紙についさっき毟り取った小片を包んでゴミ箱に投げ捨てる。
次いで誰にも見られる心配はないのに、アラインはベッドの横に置かれた衣類をそそくさと身に着けて肌を隠し、寒さに凍える子どもように自分を抱き締めて両肩を擦った。
この忌まわしい呪いが、アラインが他人に素肌を見せたがらない理由だった。そしていつかは起きるだろうと予期しつつ、訪れてほしくなかった最悪の事態に震撼する。
(症状は何年も出てなかったのに、なんで今さら……――)
「このタイミングで!」
心中で漏らしていた愚痴は後半になると口に出ていた。普段用心深いアラインのそんな不注意は、それほどまでに切羽詰まっていたという事実である。
気が張り詰めるのも無理はなかった。因果を見る能力の不全、腹部の負傷、その傷跡に発生した人外の組織と、短期間で立て続けに不幸に見舞われれば神経質にもなる。
「くっ……」
憂鬱に取り込まれまいとアラインはベッドから立ち上がった。軽く頭を振ると気を紛らわせるように身支度を整え、逃れるように部屋を出る。その道中も鱗のことでざわつく胸を静めることに専念して、何度も自分に言い聞かす。
(落ち着け、あの症状が出たのは多分この前セーフポイントから外れたからだ。『
(それより問題は俺を手当てした奴は誰なのかだ。撃たれる前まで鱗はなかったから、症状が出たのは怪我をしてからだろうが、そいつはアレを見ただろうか?)
(傷口以外にそれっぽい異常は体になかったし、相手がどのタイミングで手当てしたかで病徴を目にしたかも変わるだろうから――)
「……ん?」
店に向かう途中窓の外に大勢の人が入荷や出店の準備、建物の飾りつけで忙しく動き回っている姿が目に入った。中にはすでに店を開き、食べ物や飲み物を売っている者までいた。
人々が、街が――国全体が、何者かに操られるかのように熱に浮かされて踊らされているかのような、そんな異様な熱気に包まれている。
この留まるところを知らず、どこまでも高まり続ける緊張感。その理由は偏に、近々始まる大祭が目前に迫っていることが原因であった。
(どこもかしこも祭りの準備で気合入ってるな。これだけの人数が一斉に熱に浮かされて翻弄されるくらいの式典なんだ、気の流れも相当なものだろう。『因果』の影響力も大きいはず)
(
たった今気になったことを考えてみる。だがどれだけ可能性を考えたところで推測の域は出ず、余計に混乱するだけだった。
すると、やけに建物の周りが騒がしくなってきた。
喧噪の正体を見ようと、今一歩窓に近づき、窓の下を見て目を見開く。建物の出入り口や正面の歩道を塞ぐように、短く分断された待機列がいくつも形成されていた。
「なんだ、この騒ぎはっ?」
今までに見たことのない繁盛ぶりに、アラインは出入り口に吸われては満足げに吐き出されていく客を凝視した。その手には店で使用している袋が持たれている。
観察したところ別の店舗が入ったわけではないらしい。大祭当日なら未だしも、今の店からは普段の落ち着きのある趣が完全に消え失せている。
「おかしいな。変に目をつけられないよう、落ち着いた場所にしたはずなのに」
あえてこの場所を選別したアラインは訝しむ。当然駆使した方法は例の能力でだ。しかし今、不測の事態によりその気の流れが歪んでしまっている。
やはり異様な熱気によるものなのだろうか。アラインはそんな疑心を膨らませつつ一階に降りると、一先ず店内に入った。頻りに「すみません」「通してください」と呼びかけながら客で溢れた店内を掻き分けて奥に進み、知り合いの姿を探す。
アラインの営業する店はインテリア雑貨店だった。目の端に映る棚やスペースには、『
『
こちらは特に女性客に人気の商品で、匠の技の光る美しい造形をしたアンティークの指輪やネックレスなどのアクセサリーの中に、様々な種類の宝石やパワーストーンが埋め込まれていた。お守りとしての効果も有しており、これがかなりのご利益があると口伝で噂が全国に広まって、今や特に売り上げを伸ばしている大好評の商品である。
聞き覚えのある声がしたのはそのときだった。アラインは反射的に顔を向ける。
「1800ゲン丁度頂きまーす。ありがとーございましたー」
いかにもやる気のない店員という出で立ちで、先日人質にした少女が、のほほんと商品の精算をしていた。それも精算場所を一つしか開けておらず、たった一人で接客をしている。
どうりで通りにまで人が溢れているわけだ。これでは客を捌き切れない。一番の問題は彼女本人がそれを気にしていないところだ。今だって暢気に間延びした声を上げている。
すぐにでもパンクしてしまいそうな状況に冷や汗を掻くと、アラインは誰ともなく全体に向かって叫んだ。
「すぐにもう一つ精算場を開けろ! 人が歩道にまで伸びて――」
「ぇどっこいしょ――ッ!」
「んぎゃ!」
喚起した瞬間、中年臭いセリフとともにアラインは後ろから突き飛ばされた。体当たりを受けると盛大に転び、変な声を出しながらビターンと床に張りつく。
背中を向けてぶつかって来た人物もその衝撃で人と接触したことに気づくと、首だけこちらに向け、息を吐くついでのように軽い調子で謝った。
「あっすんませーん大丈夫っすか――ってアラインじゃねーか⁉ やっと復活したか!」
形式的な謝罪も一瞬。店の制服を着た男性店員――ジルはこちらの顔を見るなり声を張ると、人懐っこい飼い犬のようにパッと笑顔を咲かせた。
「来て早々悪いが手伝ってくれ。人手が足りないんだ。裏にまだ荷物あるから」
しかし挨拶が済むなりすぐに背を向け、空の商品棚に向き直る。たった今運んできた木箱を手早く開けると、中の商品をそそくさと棚に陳列した。
「じ、ジル……その前に清算場所を――」
「オラーイオラーイ!」
「ぐえ⁉」
指示を出しかけてすぐ、これまた後ろを向いたまま、工事現場のあんちゃんみたいなかけ声とともになにかを誘導していた女性店員に、今度はうつ伏せになった背中を思いっきり踏んづけられてアラインは嗚咽を漏らす。
先ほどアラインの看病をしていたカンナは異変に気づくと、不快な顔で片足を上げながら、今なお踏みつけているアラインを冷たく見下ろした。
「うわっ、うんこ的なもの踏んだキモ……ってアラインじゃん⁉ なに、早速全身使って床の雑巾がけってわけ? さすが店長! 性が出るねぇ~」
足蹴にしたことを謝るどころか、なんの悪気もなく挑発的なことを言うと、バンダナがトレードマークの活発少女は忙しそうにそのまま通り過ぎていく。
額面通り踏んだり蹴ったりの惨状に、アラインの怒りは容易く沸点を超えた。
己の留守中に勝手に営業している仲間たち、相変わらずのんびり精算する謎の少女、ついでに知らん顔で何度も自分を踏みつけて行く来場客一同に向けて怒鳴り散らす。
「今日はもう店仕舞いだ全員出て行け! 祭り前に騒いでんじゃねぇ――ッ‼」
◇
「えー、それではみなさん。我らがリーダーの全快を祝して――カンパーイ!」
「「カンパアァァァァァァァイ!」」
アラインの鶴の一声により臨時休業に入ってすぐのこと。大急ぎで閉店作業が行われると、今度は仲間内による快気祝いで店内はどよめいた。
テーブルには近くの出店で買ってきた食べ物が器に広げられており、何種類もの飲み物のカップや酒が開封されている。
仲間たちは代わる代わるアラインの前に現れると、体調は悪くないか、怪我の具合はどうかなど、いろいろ気にかけてくれた。それにアラインは似たような返事をしながら順に捌いていく。心配をかけたことや店を任せきりにしていたこともあり、適当に追い払うこともできなかった。一息入れられるのは、もうしばらくあとになりそうだ。
「なぁー店閉めてよかったのかよアライン? 結局あのあと客全部帰しちまってさー。せっかく繁盛してたのによーぉ」
大祭前だというのに、すでに打ち上げのようなテンションにアラインが酔っていると、本物の酔人の男が、酒瓶片手に肩を組んでダル絡みしてきた。
飲酒をしている辺りアラインより年上であることは間違いない。だがリーダーでありこの店の店主であるアラインにとって、立場など関係なかった。
すでに酒臭い仲間を押しやりながら、アラインは面倒そうに説教する。
「逆になんであんな人数店に入れてるんだよ。これから祭りなんだぞ? いくら繁盛してるからって在庫空にするわけにはいかないっていうのに」
「なぁーんでぇ? だったらまた商品仕入れればいいじゃねぇかよ?」
「あのな、今の時期どこも忙しいっていうのに、今から間に合う訳ないだろ。特にアクセサリー類なんて手作りなんだから、すぐに準備もできないし。ていうか祭り用に仕入れた分にまで手を出してたよな? 当日足りなかったらそれこそ大問題じゃないか」
「えー別にいいじゃないのぉ? どうせ全部売っちまったら、祭りの期間中でも同じことだろ。むしろ早く終わった分とっとと店閉めて、みんなでパァーッと祭り楽しんだ方が有意義じゃねえか!」
「すでに宣伝でチラシ配ってんのにそんなことできるか。だいたいなんでこの時期に限って大盛況してんだよ。しかも勝手に新人まで引き入れて……」
と、そこまで言ってハッとする。そういえば例の謎の少女に用があったのだと。
アラインは酔っていない、まともに話のできる従業員に尋ねる。
「おい、お前たちが勝手に採用した新人はどこだ?」
「新人……? ……ああ、もしかしてユウちゃんのこと?」
「おーいユウちゃんいるぅ⁉ 店長が直々にお礼を言いたいってぇー!」
話していると、それを盗み聞きしたお調子者が適当なことを言って大声で少女の名前を呼んだ。誰がそんなこと言ったとツッコもうとしたが、相手がすでに酔っていることに気づくと諦めた。それよりも少女が来るまでの間、アラインは先日のことを考える。
(あの子が、あのあと俺を助けてくれたのか……?)
先日あった諸々の場面が順に脳内で再生される。
この問題に関しては今自分の身に起きている呪印の異常に比べれば特殊であり、現実的な意味で対処が必要な事柄だった。というのも、この件に限っては植物園の倒壊という、被害を周囲にもろに出してしまっているため、慎重に扱わねばならない。
(多分植物園が崩れたことは、すでに話題になってるはず。みんなの様子を見た感じだと、俺があの事故に関与してることは知られてないみたいだが……)
どうしたものかと逡巡してすぐ、再び例の少女――ユウの顔が浮かび上がる。
理由は至極単純。ユウが自分と同じく事故の当事者であり逃亡者、そしてあの場所でただ一人、己の素顔を見た目撃者だからだ。アラインは最悪の状況を想像してみる。
(もしあの子が警備隊にでも告げ口したら――?)
あれだけの騒ぎを起こしたのだ。もしユウがすでに事情聴取をされていたとしたら、アラインのところにまで捜査の手が伸びるのも時間の問題だろう。
なによりも、恐らくユウは、こちらのアリバイを人質に、なんらかの交渉の道具に使うに違いない……と、恫喝されることを前提にアラインは危惧した。なぜなら。
(さすがに、あれはやり過ぎたな……)
事故当日。アラインは逃走を図るためにユウを人質に取り、喉元に凶器を押しつけたときのことを思い出す。告げ口されるには根拠として十分だった。
もし本当にそうであるならば、早急に対応策を練ることが求められる。
そしてもう一つ――
(……俺を手当てした奴も探さないと)
アラインは自分に包帯をした人物の特定を急いでいた。裏を返せば、それほどまでにこの出来事はアラインにとって重大事件ということでもある。
(ここまで来たら、もうカンナに直接聞くか。お礼を言いたいとか、そんなことを言えばすぐ教えてくれんだろ。そのあとの対応は相手を知ってからだ)
今後の算段を考えていると、やがて人混みの隙間から見覚えのある少女が現れた。その顔は先日刃物を突き付けた少女のものであり、確かに本人であることを認める。
手には飲み物のカップを持っており、本人からはこちらの出方を窺うような雰囲気や素振りは見受けられない。単にマイペースなのか、それかそれだけ余裕があるのか……。
なんにしても本心を聞くまで気は抜けない。そう納得するとアラインは単刀直入に聞いた。
「どういうつもりだ」
「うん? なにが?」
「惚けるな。あんなことがあったあとで、のこのこ俺の店にまで現れて。絶対になにか裏があるはずだ。なにを企んでやがる」
周囲がガヤガヤしているのをいいことに、厳かに問い詰めた。だがユウは
首を傾げる。
「なんか凄い勘違いしてるみたいだけど。別に私、悪いことなんて考えてないよ?」
「じゃあなんでうちの店にいる? それも従業員として」
「あれ、聞いてないの? 私、新しくここで暮らすことになって」
「暮らす? ……って、ここにか⁉ どうして!」
「だってここは、身寄りのない人でも雇ってくれるお店なんでしょ?」
アラインの店は様々な事情を抱えた子どもが多く、子どもたちの避難場所として設けられているため、安心して来てもらうために詮索はしないと決めている。どうやらユウはそこに目をつけたようだ。
ここインテリ雑貨店『セシリア』では、下は6歳から、上は20代前半までを従業員として雇っている。
従業員たちは各々に問題を抱えていて、家族がおらず住み込みで働いている者もいれば、家族はいるが家庭の事情で働きに来ている者もいる。その全員が学校に通えない者たちであった。
ここでは学校に通わせる代わりに、将来一人でやっていけるよう、実践的な技術を仕事を通して教えていて、当然給料も払っている。
要するに、自分で稼げるように仕事を教えながら働かせているわけだ。
ユウの話によると植物園に一人でいたのは、幼いころに家族を失い、仕事先もクビになり、行く末を考えて途方に暮れていた状況で、初めて会ったときに上等な服を着ていたのは、クビになる前にお金持ちの家で子守をしていたので、分不相応なあの衣装だったらしい。
「私も独り身だし、支援がないと生きていけないから、ここのみんなにお願いして、独り立ちするまで面倒を見てもらうことになったの。まあそういう意味じゃ、しばらくの間、自由気ままに居座ることが狙いかもね」
怪しまれているにもかかわらず、それともこちらを惑わせるためだろうか、ユウは片目を瞑ると、おちょくるように厭らしい笑みを浮かべた。
「お前なぁ……っ」
こちらは真剣に聞いているというのに、あからさまな挑発を受けると、アラインは思わずカチンと来る。一度嗜めようと口を開いた直後だった。
「ていうかさ、逆にどうしてそう思うの?」
「あぁ?」
「私がよからぬことを企んでるって。なにかしたっけ?」
「なにかって……。それはお前が――……あれだ、その……」
言い負かそうとして、事情を話す訳にはいかないと口籠る。
このときばかりは相手の策略にはまったと思った。誰が聞いているともわからない場所でおめおめ、植物園でのことを脅迫に使うつもりだろう、などと言えるはずがない。こちらとしては隠したい事柄なのだから、それでは自ら曝露するも同然だ。
(こいつ……俺が安易に答えられないとわかって!)
とんでもない人物を人質に取ってしまったことに、今さらながら後悔する。いや、もしかしたら他者を巻き込んだことへの罰なのかもしれない。
出会って間もない少女に手の上で転がされていると思うと、アラインは無性に腹が立った。悔しさとハッキリ言えない歯痒さで、口をもにょもにょさせることしかできない。
「――ぷふっ。なにその顔? 強気に聞いて来たと思えば急に弱気になって。さては女の子慣れしてないなー? かぁーわいー」
アラインが尻込みしていると、迷った顔が余程おかしかったのだろう、ユウは冗談めかしながらアラインの強張っている頬を指で突っついた。
「バ⁉ やめろ、触るなって!」
すかさずアラインはその指を振り払う。だが思わず火照った顔をユウに見られると、そこでまた笑われて調子を乱された。完全に相手のペースに呑まれる。
「いい加減にしろよ! さっきから人をからかいやがって……」
「先にちょっかいかけてきたのはそっちじゃん。そっちこそ、なんでそんな私を目の敵にするの? 聞いても答えてくれないしさ。命の恩人に感謝することはあるけど、陥れようとか考えることはないよ。それとも私なにかしちゃった?」
二度目の質問。そして命の恩人とは、アラインが崩壊する植物園からユウを連れて避難したことを指しているのだろう。確かに上辺だけ聞けばなにも問題はない。
だがその前に、アラインは十分に恨みを買うことをやらかしてしまっていた。
「いや、それはだな……ほら、逃げるために利用したと言うか」
「利用? ……あぁ~。あったねぇそんなこと」
合点が行くとユウは思い出すように虚空を見つめた。と、すぐにいやいやと手を振る。
「ていうか、あれくらい演技だってわかるって。めっちゃ手震えてたじゃん」
「んぅ……まあ、そうなんだけど。……恨んでないのか? ほら、植物園だって……」
ユウがなにも企んでいないのは声音や態度を見て、随分前からわかっていた。そしてこればかりは本当に申し訳ないと、アラインは気持ちユウに頭を下げながら窺う。
しかしユウはあっけらかんとした様子で、なんともないと微笑を浮かべた。
「植物園のやつは全部偶然じゃん。それにあんな得体の知れないものがいたら、誰でも普通は警戒するだろうし。それに悪い人じゃないのは、なんとなくわかってたから」
返事を聞いて肝が据わっているなと思った一方。ユウが特定のものを指したとき、アラインの頭は一瞬黒服のイメージに支配された。
(そういえば……結局あの執事はなんだったんだ?)
そこまで考えて胸騒ぎを覚えると、すぐにアラインは強制的に思考を断ち切った。直感的に脳から発された警告に、余計なことは考えず素直に従う。
あの執事が何者であろうと関係ない。関わってはいけない。探ってはいけない。自分でもわからないが、そんな感覚が本能に訴えかけたのだ。
さもなければ途轍もない災いが自分に、いや、今まで関わって来たすべての者たちにも降りかかるような恐怖を覚え、アラインは思わず生唾を呑む。
(よく考えてみれば、偶然あの場所にいたこいつも、人質になるは変な執事に襲われるは、事故に巻き込まれるは川に流されるはで、十分被害者なんだよな)
振り返ると気が咎めてアラインは肩身が狭くなる。
顔を見られて取り乱し過ぎていたようだ。普通に考えれば人質にした相手には近づかないし、復讐するならとっくに通報しているか、昏倒していた3日間の間ですでに寝首を掻かいているだろう。ネタを脅しに使うにしても所詮は一人の意見でしかない。
たまたま住む場所が必要だったユウの前に、たまたまアラインが現れ、たまたま他の仲間たちにここを紹介され、たまたま一緒に暮らすことになった。そう考えることがもっとも自然で、この騒動のベストな着地点だと、アラインはようやく理解する。
すべては偶然の成せる業。神の導き。いたずらな運命の巡り合わせに過ぎない、と。
「――――はああああぁぁぁぁぁぁー……っ」
ようやく腑に落ちると緊張の糸がプツンと切れ、アラインは盛大に息を吐いた。蟠っていたストレスと一緒に長く息を吐いた分、入れ替わりに安心感が胸に広がる。
アラインの気がこんなに張り詰めていたのも、『眸(ホルス)』の不具合と、今朝の鱗の凶事が重なったことが原因だろう。いろいろな物事に囚われ過ぎていたようだ。
「誤解は解けた? まあなにはともあれこれからよろしく。はいこれお近づきの印」
冷やかしているのか天然なのか、ユウは先ほど自分で運んで来た揚げ物を一つ大皿から箸で摘まみ、アラインの食器にちょこんと乗せる。
なんともちっぽけで適当な手土産、そしてどこまでも気ままな自由さに、アラインはどこか負けたような気がした。
「あら、無事打ち解けたみたいね。仲良くできてるようで安心したわ」
ユウと問答していると、配膳していたカンナが安堵した様子で声をかけてきた。周りを見ればすでにみんな席に着いており、雑談をしながら号令を待っている。
「いや、まだ打ち解けては――」
「植物園で事故が起きたとき、ユウちゃんを助けたんだって?」
「……え?」
この三日間のことを考えると、カンナがなんの脈絡もなく聞いてきたものだから、アラインは一瞬反応が遅れた。
素っ頓狂な声を出して硬直している間に徐々に頭が回転を始める。ようやく状況を呑み込んだときには、別の意味で固まって青褪めていた。アラインは口を戦慄かせる。
「ど……して、それを……?」
「そんなのユウちゃんから聞いたからに決まってるでしょ。まったく水臭いじゃない、助けたことを黙ってるなんて。かっこつけてるつもり? あんたも年頃ねぇ~」
「応急手当はお礼もかねてだけどね」
食べ物を呑み込んだユウが一拍遅れて会話に加わる。告白を聞いたときには、アラインは飛び上がるようにして席を立ち上がり、周りの食器を足元に落としていた。
いくつかの食器類が割れる音に、それまで賑やかだった居間が刹那に静まり返る。従業員たちが一斉に振り返る中、周囲の反応など気にせずアラインは一人続けた。
「お前だったのか、俺を手当てしたのは……」
「んぇ?」
突然立ち上がったかと思えば割れた食器を無視し、なにかを訴えるような眼差しで自分を見ながら立ち尽くすアラインに、ユウは箸を咥えたままポカンとする。
「知らなかったのよ、あんたの事情のことを」
いろんな感情を押さえるためにアラインが固く握った拳を震わせていると、すぐさま向かいにいたカンナが強く主張し、ユウの代わりに弁解した。
目を移すと、真剣な顔のカンナが諭すような口調で誤解を解き始める。
「私たちが気を失ってたアラインを診療所に連れて行く準備をしてる間にもう、ユウちゃんが別室に寝かせてたあんたを手当てしてたの。そしたらユウちゃんが傷も浅いし、命に別状はないから大丈夫だって。そのときユウちゃんからだいたいの事情も聞いた。それで私もどうしようか迷ったんだけど、取り敢えず診療所に連絡だけして、異変があったらまた連絡をするってことで落ち着いたの。もちろんあんたをここに運ぶ以外は誰も体に触れてないし、着替えもユウちゃんがやってくれたわ。そのあとのことは、さっき話した通りよ。だからユウちゃんも悪気があったわけじゃないの」
懇々と言い聞かせるような長い釈明は、ユウを庇護する言葉で締め括られる。
現在に至るまでの成り行きを聞き終えると、アラインは口を一文字に結んだまま、もう一度厳かに被疑者を一瞥した。ユウが小首を傾げたのはそのときである。
「え。いけなかったの?」
緊張感もなくユウはアラインに問うた。
なんの装飾も他意もない質問だったからこそ、その問いが純粋な気持ちから来たことがわかった。逆に清らか過ぎてなぜかアラインの方が圧倒されてしまう。
またそんなユウの態度からして、例の呪印である鱗を見た様子はなかった。どうやら鱗は処置後に出現したと推定される。それか、わざとすっ呆けているのか。
ユウは無言で先刻の続きを促していた。お陰でアラインも話を切り出しやすかった。
「俺は他人に体を見られたり触られたりするのが嫌なんだ。処置してくれたことには感謝してる。ありがとう。いろいろと面倒かけたのも悪かったな。けど、同じことは二度としないでくれ」
「ふーん……理由は聞かない方がいい?」
「触れてほしくないプライバシーだからな。もしそっちに今後も友好的にやって行く気があるなら、そうしてくれるとありがたい」
「そっか」
本当にわかっているのか、ユウはどっちつかずの一知半解な返事をすると、持っていたコップに口をつけて飲み物を飲む。ユウのアンニュイな眠たげな瞳はぼーっと虚空を見つめており、なにを考えているのかは窺い知れない。
その反応自体は問題ない。ただユウと出会ってからここまでの流れが、妙に当人にとってトントン拍子過ぎて、変に違和感を覚えてしまっただけなのだ。
たった3日で店長不在での仕事先の採用、果ては仲間たちと親睦を深めてここまでの信頼を築くなど、凡人に成し遂げられるものだろうか。
「例の風見鶏のことは話してないから安心しろ」
細かな諸々に、アラインが違和感を覚えて考え込んでいたときだった。一人神妙な面持ちで内省していると、ジルが耳元で静かに呟く。
「あれは仲間内でも秘密だからな。これまで通り、お前が見込んだ奴にしか協力してもらってねーよ」
「……それならいいけど」
「それにユウちゃんだけどな、あれは逸材だぞ。アラインは知らねぇだろうけど、ユウちゃんのお陰で最近店の売り上げは黒字だぜ。さっきの繁盛っぷり見てただろ。ちょっとマイペースなとこもあるけど、ああ見えて結構営業の才能あるんじゃないのか?」
「うーん……お前がそこまで言うなら、凄いんだろうが」
「だからこのあとのフロードんとこへの挨拶はユウちゃんに任せた」
「なんでそうなるんだ⁉ ……ってそうか、今日あの人のとこに顔出す日か!」
ジルにツッコんですぐ、しまったとアラインは頭を抱える。
「ヤバい忘れてた……。いやその前に、なんでそんな大事な役回り新人に任せてるんだ⁉ まさか一人で行かすつもりじゃなかっただろうな?」
「はんっ、あんないけ好かねーペテン師と顔合わせるなんて俺はごめんだね。どうせまた嫌み言われんのが落ちだ。他の奴も嫌がって代わってくんねーし」
口内に入った虫を吐き出すように、ジルは不快感を露わにしながら舌をべぇっと突き出した。フロードという人物を知る者なら、誰もがジルの意見に賛成するだろう。
関わりたくないという気持ちがわかるだけに、相手を悪く言ったことに対しては、アラインもジルを咎めはしなかった。だが職務放棄は見過ごせない。
「あの人のやり方には俺も思うところはある。でも向こうは俺たちのオーナーなんだから仕方ないじゃないか。あの人の意識の高さはジルも知ってるだろ? 顔出さなきゃ、それこそ無駄に嫌みを聞く羽目になるぞ」
恐らく今ジルの脳内には、胡散臭い善人面が浮かんだはずだ。きっと想像の中にいるオーナーは、相手の善意を利用するような妖艶な表情で怪しく笑っているだろう。
ジルはグロテスクなものでも見たような表情で顔を歪めた。
「わかってるけどよぉ……。なあ、毎度思ってたんだが、もっとマシな奴を例のこれで探せないのか?」
隠語のように、ジルはパチンとウインクした。アイコンタクトは直接的に『
「俺もそうしようと毎日調整はしてる。でも今はこれが最善なんだ。あくまでも俺にできるのは微調整くらい。基本的な大きな流れには逆らえないからな」
「マージかぁーっ。……まあ、お前がそれをしてない段階で薄々気づいてたけどさ。なんでもかんでも、そう都合よくは行かないかぁ」
これ見よがしに落胆するジル。気持ちがわからなくないだけに邪険にもできない。
アラインはため息を吐くと、やれやれと首を降る。
「はあ……仕方ないからフロードさんのところには俺が行くことにする。どうせ向こうには、すでにあいつが行くことをもう伝えちゃってるんだろ?」
アラインがジト目で問うと、ジルは「へへ」と憎めない笑みで頭を掻いた。
「ほら、ユウちゃんも入ったばかりで、まだ右も左もわかんないじゃん? だから研修? 的なものが必要と思ってさ。ユウちゃんの力量を図ることもかねて、な?」
「なに調子のいいことを……」
「お前もどうせ病み上がりで他のことできないんだから、周りの邪魔するよりはそっちの方がいいだろ。それにお前まだユウちゃんのこと信じ切れてねぇみたいだし、ついでにユウちゃんが信用に値するか見極めてこいって。おーいユウちゃーん!」
落胆するアラインを余所にジルは一人で話を進めると、横槍を入れられる前にすぐさまユウを呼んだ。雑談していたユウは相手に一言断ってからこちらに来る。
「どうしたの?」
そう訊ねた顔は、例の如くのほほんとしており、まるで緊張感がなかった。ジルはアラインを引き寄せると早速本題に入る。
「このあとの挨拶、アラインも一緒に行くことになったからよろしくって話」
「わかった」
本当に理解しているのか、二つ返事でOKを出すユウ。嫌な仕事を押し付けられているだけだと言うのに、なんて不憫な子だろうとアラインはわずかに保護欲を覚える。
だがジルの言う通り、これはいい機会だった。
正直なところ、アラインはまだユウを信頼しきっていない。ならば、今後の仕事ぶりで判断させてもらおうじゃないかと、アラインは一人意気込んだ。
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