時を遡ること3日前。
植物園が倒壊する直前。アラインがユウを抱えて分水路に飛び込んだ瞬間に戻る。
「力むと沈むから体に力入れるなよ」
その一言を最後にアラインが虚空に飛び出すや、後方でその様子を見ていた執事は、すぐさま人間離れした素早さで二人に肉薄した。
執事が現場に着くまでの寸刻の間。たった今アラインたちが姿を消した場所に、下の階から現れた数人の警備隊が陣取って発砲指示を出す。だが頭上から崩れた天井が接近するや隊員たちは喚き散らすと、一発も発砲せずに急いで持ち場から退散した。
執事はその空いた空間に滑り込むと、躊躇なく前方の分水路へと跳躍する。
その進行を阻むように、上方から落下した瓦礫が執事を直撃した。
何屯もある岩の塊は線の細い体を容易く圧し拉ぐと、すぐに華奢な肢体からバキバキとなにかが割れたり折れたりする音が響く。ダメージの反動で執事は全身を仰け反らせると、どうにか脱しようと藻掻いた。
と、そこに、さらに畳みかけるように、上から降った残骸が次々と執事に直撃する。途端にまだ無事であった頭部や手足を満遍なく破壊した。
立て続けの落石に古びた非常階段が耐えられるはずもなく、若干錆びた鉄の足場は呆気なくひしゃげると、ついに耐久値がなくなって一気に崩れる。
建物の倒壊により、ようやく自由の身になるも、落下物は挟んだ体を磨り潰すように斜めった階段を滑る。やがて執事は瓦礫とともに地面に落下した。途中何度も壁や手すりに激突すると、その度になにかが折れる歪な音を立てる。
念願の水面に落ちたときも、一度地表に叩きつけられてバウンドしてからのダイブだった。そのときにはすでに全身はボロボロで、胸や腰は明らかに粉砕しており、手足に至ってはほとんど皮だけでぶら下がっている状態だった。それでも着用している衣服だけはそれほど破れておらず、上手い具合に千切れかけた肢体を隠している。
だが不運はこれだけに留まらなかった。今度は激しい水流に巻き込まれると、波打ち際に落ちたことが災いして、いくども防波堤に叩きつけられる。怒涛であったこともあり体の自由は利かず、しかもこの時点で通常であれば瀕死で動けないほどの重傷を負っていたこともあり、執事は終始荒波に弄ばれることしかできなかった。
幾許かの時間が経ち、やがて執事もトンネルへと流れ着く。だがそこはアラインたちが通った水路とは別の場所からの進入だった。それも先人たちの進んだ、ただ流されるだけの水路ではなく、同じトンネルとは思えないほど険しい道のりである。
激流に導かれてまず執事を待ち受けていたのは飛瀑だった。暗闇に運ばれた次の瞬間には滝と一緒に崖を転げ落ち、岩の傾斜に再び全身を殴打する。
洞窟としか思えない水路を下降すると、アラインたちのいた同じ水路に住み着いているとは思えないほどの攻撃性が強い虫に集られ、表面を食い荒らされた。温度や餌によってトンネル内でも生息地が違うのか、縄張り意識の高いこちら側のコウモリは、執事の人型のシルエットを認めるや、節足動物たち同様に一斉攻撃を仕掛ける。
そのまま不潔極まりない暗黒の冷たい洞窟を、凹凸の激しいゴツゴツした壁に何度もぶつかりながら、情け容赦ない急流にさらわれていく。
どんな険阻な道のりを辿っても行き着く先は同じだった。間もなく執事はアラインたちの出た土管から放られると、高所から水面に叩きつけられる。そのころには全身泥と滑りと不快感を覚える造形の虫に塗れ、タキシードもところどころに破れと解れと染みが目立ち、目も当てられない惨状となっていた。
タイムラグの関係上、当然ながらアラインたちの姿はすでにない。その代わり別の生物たちが関心を示して執事を歓迎した。
周囲の木々や上空から、その黒い影はピクリともしない人型を観察する。様子を窺うように徐々に距離を詰めると、黒い群れ――腹を空かせた黒鳥たちは一羽、また一羽と執事の水に浮かんだ体に降り立ち、くちばしで全身を啄んだ。
亡骸を突き回す仲間の様子を見た同胞たちは、安全と判断すると、一斉に執事へと群がっては鋭利なくちばしを容赦なく振るう。
服を引き裂き、口の先端で人間のものではない固い表層を突くと、先の事故や災難によって入った亀裂をさらに細かく砕き、隙間に中に入った虫を穿り出して食べる。
そうこうしている間にひび割れに水が侵入すると、全身に体中を埋め尽くすほどの黒鳥が乗っていたこともあり、執事は重さで次第に水中へと沈んでいった。
束の間の宴が終わり鳥類たちは順に飛び立つ。残されたゴミ屑同然の体は完全に水没すると、割れ目に入っていた虫たちも水に流されたり水面に浮き出し、執事はようやく安息と沈黙を手に入れた。
聞えるのは外界のくぐもった環境音と、カチカチと体内で響く歯車の音のみ。
気の流れに変化が表れたのはそのときだった。
あらゆる事象の根源こと因果は、それまでのこの世界の法則による自然の移ろいを停止すると、まるで磁力の影響を受けるように突然進路を変更し、冷たい水の中に没する執事の方へと吸い寄せられていく。
天意の異変に気づく者はなかった。何者の目にも映らない奔流は非常にゆっくりとしたペースで執事に吸収された。それからじわじわと、まるで滑り虫が葉物を食べるような速度で、少しずつ破損した肢体が修復されていく。
この調子では、全快までに長い時間を要するだろう。
実際、自己再生は一朝一夕にはいかなかった。
短期間で受けたダメージ量は想像以上に大きく、満遍なく損壊した体を直すのは困難を極めたのである。しかも損傷はまだ終わっておらず、時間の経過とともにそれまで平気だった部分にも新しくひびが入り、追加で修復する場所が増える一方だった。
そんなことを延々と繰り返して3日が過ぎたころ。人知れず静かに復調した執事は水の中から起き上がると、何事もなかったかのように真っ直ぐ岸を目指した。
修復したのは全身だけではない。着用していたタキシードの破れや汚れも消え、すっかり元通りに戻っている。
よく見ると、タキシードだと思っていたそれは衣服ではなく、体の一部だった。
いったいどういった構造になっているのか。それは毛皮とも綿とも合成樹皮とも言えない謎の材質からなっており、両脇腹の部分にはエラのような、或いはダクトの蓋とも取れる、生き物の呼吸器官らしきものが接合されていた。
水から上がる瞬間、執事は何度か呼吸をすると、通気口が蠢いて、体内を循環した因果が二酸化炭素よろしく排出される。そして新鮮な因果が吸い込まれた。
陸地に向かう途中、執事はなにかに気づくと進路を変えた。次いで浅瀬に転がっていた鉄屑を拾い上げる。随分長いこと水に浸かっていたせいか、錆びた骨組みは茶色く変色しており、軽く持ち上げただけで持ち手から折れて再び水没した。
執事が拾い上げたのは壊れた風見鶏だった。それも数年前に流行った型で、雨風に晒された装甲はベリベリに剥がれており、柔になった鉄部分は酷くひしゃげている。
特に注目したのは、粉々に砕けた鉄のコーティングから露出する機械――『
明らかに人為的に細工された装置を覗き込む。それから執事は顔を上げると、真っ直ぐに陸地を――アライン回収時にジルたちが通った方角を凝望した。
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