それはまだアラインが、カンナたちに逃げるよう叫んでいるときのことだった。
「うう……っ、ビクともしない。おぅい、誰か手を貸して! 足が挟まれた!」
倒壊で表通りがどよめいている他方で、崩れた建物を挟んだ路地にいた一人の小太りな中年が、腰から下を瓦礫に埋められた状態で藻掻いていた。
苦痛に顔が歪んでいないところを見ると、どうやら骨折や足が潰れたりなどの負傷はしていないらしい。ただ一人で動ける状態でもないらしく、周囲に助けを求めている。
日頃から医者に注意されていた、間食とお酒ばかりの不健康生活で肥えただらしない体形が祟り、特に腹回りの脂肪が窮屈そうに岩の隙間を塞いでいる。
何度が自主的に腹を引っ込めてもみたが、表面的な変化は見られなかった。これでは例え人手があっても、引っ張ったり押したりすることで抜け出すことは難しいだろう。どの道、重機車で瓦礫を持ち上げるなどの方法でないと、助けられそうにない。
だが悲しいかな、メインストリートでの被害が大きかった分、みな裏道にまでは気が回っておらず、認知されるまでにはもう少々かかりそうだった。
また男は普段から血糖値の高い食事ばかりを取っていたがために贅肉で喉が締めつけられており、声帯から出るくぐもった音も、苦しそうでとても低い。
「ここだよ! 誰でもいいから聞いて――おっ?」
少しでも人目に映るよう、大きく体を揺らしたときだった。自分の上に乗っかっている残骸がぐらりと動いて、わずかに左右へと崩れだす。
思いがけず一筋の兆しが見えた。これには男も味を占め、体の上で左右する瓦礫に合わせて、リズムを取りながら少しずつ瓦礫を落としていく。
狙い通り積まれていた岩は徐々に転がっていき、どうにか男の力だけで持ち上がるまでに量が減った。
「やった……」
待ち望んでいた瞬間に頬が緩むと、意図せず喜びが漏れる。あとは体を後ろに引くだけだと、仰向けの状態でゆっくりと後退っていった。
ようやく腰が外に出たところで抵抗を覚えた。なにかが足首で引っかかっている。
体を折り曲げられるくらいにまでは自由が利くようになった男は、何事かと自分の腹回りの形のまま空いた穴から、じっと隙間に目を凝らす。
瓦礫の中で、曲がった鉄の丸棒が足首に絡みついていた。
いったいどう崩れたらそんな形状になるのだろう。鉄の棒は針金のように複雑に捻じれていたが、しかし絶対に外れないという感じでもなかった。
少し細かな作業になるが、膝と足首を何度か捻れば抜けそうである。
「なんだよもう。もう少しなのに……」
あと一歩というところで脱出を阻まれ、悪態が口を衝いた。
仕方なく足を動かすが、イライラで細かな動作が乱雑になり、上手く抜け出せない。それがまた男の癇に障り、さらに動きを大きくさせ、隙間にできた空間を刺激する。
ガタンと音が鳴った刹那、絶妙なバランスで状態を維持していた隙間が瓦解し、男の腹の上にバラバラと崩れた。その振動は他の瓦礫の山にも伝わり、それまで大木よろしく不動を貫いて積み上がっていた残骸が、一斉に男へと落ちていく。
「うああぁぁぁああぁぁ……ウッ⁉」
顔面を打ちつける石の雨に絶叫を上げるや、不意に腹部を重厚感で圧迫され、声にならない呻きが漏れる。体を潰さんばかりの重量に恐怖で悲鳴が引っ込んだ。
それ以降、重圧が男を襲うことはなかった。勢いのあった崩落もすぐに止む。
辛うじて最悪は免れたようだ。途中、何度も砕けたガルマ鉱石が満遍なく全身にぶつかって来たが、重症には至らず、奇跡的にも軽い打撲だけで済む。
とはいえ、素直に喜べる状況でもなかった。頭を庇っていた手を退けると、倒壊に巻き込まれたときよりも周囲は岩石に埋もれ、見えていた景色が狭まる。
とりわけ深刻なのが、最初のとき以上に腹部に積まれた瓦礫だった。
崩れたばかりでまだ不安定なのか、重さで徐々に沈んでいくと、下敷きになった男の下半身を少しずつ押し潰していく。
「ひいいぃ⁉」
やにわに男はスクラップの下に手を突っ込むと、仰向けのまま強引に持ち上げた。
すんでのところで下半身が潰れるのを防ぐ。だが全力をキープし続けなければ、のしかかってくる瓦礫を押し返すことができず、少しでも力を抜いた瞬間に、腰から下が潰れることが頭に浮かんだ。だが、こんな状態が長く続くはずがない。
全身の毛穴から汗を滲ますと、男は恐怖と緊張で荒々しい呼吸を短く吐きながら、半泣きで顔をしわくちゃにした。
一瞬助けを呼ぼうと唸りかけたが、喉を震わせるだけで両腕に行っていた力の伝達が阻害され、筋肉に変な力が加わる。その影響で小さい地鳴りがすると、途端に空高く積まれた無数の岩の塊が男の腰を粉砕しようと、徐々に重量をかけた。
「ハァ! ハァ! ハァ! ハァ!」
男は額に大量の汗の球を転がすと、表情筋すら動かすこともできず、真顔のまま目に涙を浮かべた。視界が滲むと、涙は鼻涙菅を通って鼻水と混じり、鼻孔を狭める。呼吸が乱れた分だけ加減が難しくなり、もはや別のことに注力できない。
唯一自由の利いた皮膚感覚と意識だけが、その違和感を捉えた。
肩の辺りから、じんわりと濡れた感触が広がっていく。
必死に呼吸を整えていると、空気中に硫黄系の臭いが混じっていることにも気づいた。それから紙を爪で引っ掻くような音も。男は四方八方へと眼球をぐるぐるさせる。
横倒しになって中身が漏れた燃料タンクの上で、千切れて壁から露出したコードが、火花を散らして荒ぶっていた。燃料で濡れた水跡の到達点はもちろん、男の背中だ。
音と感触の正体を知るや、男は錯乱状態に陥る。それにもかかわらず、自身に山積した塊を支えねばならないため、暴れ狂うことさえ抑止された。
2つ同時に迫った死の気配を前に、男の世界は闇に閉ざされる。
そしてついに青白くスパークするコードの伸びた壁が倒れ、燃料の跡へと落ちていった。
◇
このような偶発的な不運に見舞われたのは、なにもこの男一人ではなかった。建築物の倒壊を皮切りに、様々な場所で不穏の予兆が芽吹き始める。
例えば自動車のエンジンをかけた直後、崩れた建物に使われていた木材がフロントガラスを突き破り、折れた切っ先が心臓に到達する一歩手前まで突き刺さった女性は、ギアとブレーキが残骸で埋もれてしまい、身動きの取れぬまま前方へ発進しようとする自動車に身を任せて、じわじわと心臓を貫かれるのを待つしかない。間一髪でそれを食い止めていたのは、前輪に挟まった石壁の破片だった。それも徐々に砕けていく。
外の騒ぎに驚いた主婦は、一旦料理の手を止めると、鍋の火を消すためにボタンを押してから菜箸を置き、玄関を出る。しかしボタンは反応しておらず、ガスコンロの横に放置された菜箸は、鍋にかけている火と間近で睨めっこをした。
崩れた建物の壁が、すぐ隣に建てられていた一軒家にぶつかり、その衝撃で虫かごが倒れて、飼っていた虫が逃げた。両親がいない間お留守番をしていた子どもは、逃げた虫のあとを追って地下室に潜ると、虫が外に出ないよう部屋に鍵を閉める。暗かったのでいくつものスイッチを押して電気をつけると、故障していたはずの機械は静かに動作し、密閉された室内を少しずつガスで満たしていった。
ゆっくりと、本当に少しずつ、至るところで小さなフラグが立っていく。からくり装置のように、一見関係ないと思われる事象が伏線として連なり、一つの因果を紡いだ。
そしてついに、随所に散りばめられた断片が、定まった結末へと収束する。
◇
「おっと危ねぇ!」
まさに火花が燃料に引火しようとした瞬間、間一髪で駆けつけた救助隊員がコードを掴んだ。倒れかけた壁は他の隊員たちに支えられ、静かに地面に降ろされる。
「ここにも生存者がいたぞ! すぐに手を貸してくれ!」
応援を呼ばれると、離れた場所にいた別の隊員たちは、急いで声の方へと移動した。そこには瓦礫に押し潰され、腕力だけで体の上の残骸を持ち上げている、哀れな小太りの中年がいる。もう限界が近いのか、男は全身汗だくのまま血の気が失せていた。
「待ってろ、すぐ上のものを退けるからな!」
発破をかけられたところで、男の方も救助隊員たちに気づく。
死の狭間に板挟みになっていた男は、視線から電気コードが消えているのを見ると、滝のように涙を流して口元を震わせた。やっとのことで隊員たちが瓦礫を支えると、堪らず男は咽び泣いて嗚咽を漏らす。
こうして男は、ようやくのことで絶体絶命の死の恐怖から解放された。
同時刻。自動車に取り残された女性は、木材が心臓に達する寸前、シートを倒すことで切っ先を回避した。その瞬間に車輪に挟まっていた石も砕け、車体は一気に前進し、先端が眼球を抉ろうとしたところで、外側で残骸と一緒に落ちていた鉄パイプに車体が突き刺さって動きが止まる。女性はすんでのところで一命を取りとめた。
地下室に鍵をかけた子どもは、ガスの充満した室内で酸欠状態になりながらも、捕まえた虫を大事に持ちながら裏口のドアを開ける。ガス中毒を起こしながら、青ざめた顏でふらふらになりながら地上に出ると、目前の家の窓から燃え盛る炎を認めた。
ガスコンロの横に菜箸を置いていた家だ。そこは元々生地専門店で、燃えやすいものが台所にまで放置されていたこともあり、火の回りが早かったのだろう。すぐ隣に建てられていた分、今にもこちら側に噴き出しそうな猛火と対峙すると、命の危険を感じた子どもはハッと息を呑んで、回れ右して再度地下室へと逃げ込んだ。
刹那、高温で窓ガラスが内側から破裂するように割れ、地下室から漏れていたガスに引火して爆発を起こす。凄まじい爆炎に呑まれた子どもは即死だった。
轟く爆音と大気の揺れに、隊員の一人がそちらを振り向く。派手に四散した民家を目にした直後、飛んで来た鉄板の切れ端が首を切り裂き、動脈から血が噴出した。
隊員が絶命と同時に脱力すると、それまで持ち上げた瓦礫も手から離れ、高いところまで持ち上げられていた瓦礫は他の隊員たちの手からも滑り落ち、何百キロもの岩や鉄屑の塊が下にいた小太りの中年の下半身を潰す。
「うぎゃあああああああああああああああああああッ⁉」
壮絶な激痛に男は絶叫した。落下時の小さな揺れと爆風に煽られると、その衝撃は周囲で不安定に積まれていた他の瓦礫のバランスを崩し、立て続けに男の下半身に積み重なると、瓦礫は骨を粉砕した。折れた骨は筋肉に突き刺さり、神経や血管や繊維をズタズタにして、内側から皮膚を破って貫く。
すでに数屯もの重量になったガルマ鉱石の山に押し潰された筋肉は、粘土のように形を崩すと、満遍なく皮膚を割った。そこから内容物が、絵の具のチューブからひねり出すようにムリムリと体外へと押し出されていく。男が寝そべっていた地面は、下半身から流れ出た血液で瞬く間に広がり、真っ赤な血の池を作っていった。
やがて男が白目を向いて痙攣を始めたとき、とどめとばかりに頭上の壁が崩壊し、大きな塊が鼻水と唾液と涙に塗れた顔面を叩き割る。しばし打ち上げられた魚のように肩と腕がいくどかビクビクと跳ねたあと、岩の下から血液が広がったところで男は事切れた。
自動車に閉じ込められていた女性は、九死に一生を得たことを自覚すると、心の底から安堵の息を吐いてすぐ、隣から響いた爆音に振り返った。そして鉄パイプが自動車を貫いたところから燃料が大量に漏れているのを発見すると、それがたった今爆発して火災旋風を巻き起こしている民家に伸び、引火した火が自動車に到達したのを目撃した瞬間に爆死する。
突如首から血を噴き出して死んだ同僚、そしてわずか数秒にも満たない男の壮絶な死を目の当たりにした隊員たちは、恐怖でその場に凍りついた。
だが別の場所に停めてあった自動車が突然爆発し、それに驚いた一人が大きく後退さったとき、彼は次なる災難のサインに気づくこととなる。
腰を抜かす勢いで一歩下がったとき、足元でバシャっと水音が鳴った。奇妙な感覚に目を落とせば、中年の血と硫黄系の臭気を放つ液体が混じっているのを見つける。
いったいどこから流れているのかと跡を辿れば、ついさっき暴れていたコードの横で倒れている燃料タンクと、また別の方向に、炎に包まれた自動車から伸びた火炎が、瓦礫の下を通って、この地点でそれぞれ合流しているのを知る。二つの終着点はここだ。
それらがなにを示しているのかを直感した瞬間に、染み渡った燃料の上にいた隊員たちは一斉に燃え上がった。
肌を焦がす痛みに彼らが悲鳴を上げながら下手なステップを踏んでいる間に、引火した火は線を描くように周辺を駆け巡る。
倒れた燃料タンクに火が辿り着いたとき、三度目の爆発音が街を震わせた。
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