熟れた果実
街も人も溶かしてしまうかのような厳しい夏の暑さがようやく過ぎ、夜に吹く風の冷たさに秋の訪れを感じる。ここ数年は残暑などという言葉は意味をなさず、夏延長戦と言わんばかりの暑さが永遠と続いていたが、どうやら日本の四季はまだ消えていなかったみたいだ。
空を見上げれば大きな月が煌々と光っている。街灯の少ない住宅街のわき道に入っても、月の光で照らされた帰り道は普段よりかはいくらか明るい。
「何か羽織るもの持ってくればよかったな…」
時折吹く風に、まだまだ暑いからと夏の格好のまま外出したお昼の自分を恨めしく思う。実際昼間はこの格好で何も問題なかった。しかし、すでに季節は秋。せめて羽織るものぐらいは用意しておくべきだった。そうはいってもないものは仕方ないので、いつもよりも早足ですっかり見慣れた道を進んだ。
鞄から鍵を取り出してただいま、と言いながら部屋の中へ入る。返事のない暗い部屋の電気をつければ、一人暮らしにしてはそれなりの部屋が、外出したときと変わらず私を出迎えてくれた。
鞄を床に放り投げ、ふぅ、と一息つきながらソファーに座り込む。待っていても一人暮らしではごはんも出なければ洗濯だってしてくれない。鞄を放置していれば、明日の朝起きたときだって、変わらず床に鞄が鎮座している。家事をやらないといけないのはわかっていたが、なんだかそんな気分になれなくて、ただぼぅと、まぶしすぎる部屋の照明を視界に入れないようにして、部屋の上を眺めていた。
なぜこんなにもやる気が出ないのか。理由はわかっている。久しぶりに花音さんの家へ遊びに行ったからだ。
大学に入ってから花音さんはもともと仲の良かった白鷺先輩とルームシェアを始めた。もはや何かの異能なのではないか、と疑うほど方向音痴な花音さんが実家を出ると聞いたときは、ちゃんと一人暮らしの家へ帰れるのだろうかと心配したが、白鷺先輩と一緒に住むと聞いたときは白鷺先輩なら大丈夫だという安心感と同時に、私が花音さんよりも一歳年下で、まだ自分が子供であるということをひどく痛感した。
いつからかは忘れたが、私は花音さんが好きだった。いや、これは正しくないな。私は花音さんが好きだ、今でも。
優しく、美咲ちゃん、と呼んでくれる声が好きだ。クラゲを見るときの目を輝かせる花音さんが好きだ。ハロハピで力強く演奏を支えるドラムの音が好きだ。ミッシェルが私だってハロハピ内で知っているのが私と花音さんだけなんて、二人だけの秘密なんて言葉に胸が高鳴ってしまう。
でも、どこまで言っても私は学校の後輩で、バンド仲間で、年下の友人でしかなかった。
今日、花音さんに二人だけでお話ししない?と誘われて、久々に訪れた花音さんと白鷺先輩の家へ行って確信した。
花音さんの隣には私の居場所はなかったのだと。
使われている家具やその配置、飾られているインテリア、カトラリーなどの細かいところまで花音さんだけじゃない、おそらく白鷺先輩と思われる雰囲気を感じた。花音さんと白鷺先輩の趣味や考えが交じり合って、二人だけの部屋が形作られていた。
ここで花音さんと白鷺先輩は二人で、助け合って毎日暮らしているのだってことがありありと目に浮かんできた。
二人で作り上げてきた部屋から垣間見える二人だけの固く結ばれた特別な関係。そこに私が入り込む隙間はないだろう。
今まで抱いてきた嫉妬心なんか粉々に砕かれた。私だって花音さんと同い年なら、なんて考えたこともあったが、二人の部屋を見てそんな気持ちも消え、ただただ二人の関係性を事実として受け入れるほかなかった。
それでも花音さんとは普通に会話できていたと思う。むしろ事実を確認したことでどこか冷静になっている自分がいた。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、時計の仕事も残り四分の一というとこまで来ていた。ごはんも食べていく?と誘われたが、白鷺先輩が帰宅し、白鷺先輩と花音さんの生活の様子を目の当たりにして普段通りの自分を取り繕える自信がなくて、断ってそのまま帰ってきた。
「あぁ、駄目だ」
天井に染みなんてあるはずもなく、あるのはただただ真っ白な壁紙。
このままではあの真っ白な壁紙のように、どこまで終わりのない思考の底へと落ちていってしまう。
どうにかして動かないと、きっと私は駄目になる。
そんな予感がして、動きたくないと言っている体からソファーにつながっている根っこを抜き取り、とりあえず着替えることから始めた。
動けば意外と気は晴れるもので、その後はすんなりと家事は進んだ。晩御飯も食べたし、お風呂にも入って、今は洗い終わった洗濯物を洗濯機から取り出している。
今日、花音さんの家に行くのに着た服にバスタオル。昨日の夜、寝間着として着た紫色のパーカーを取り出して、ふと思い出した。
昔、まだ高校生の頃。花音さんが私の家に泊まりに来た時に貸した寝間着が、ちょうどこのパーカーと同じ紫の、これよりはもう少し青みがかった藤色のパーカーだった。
どうしてこんな時に花音さんとの思い出を思い出すようなものを洗濯してしまったのだろうか。
せっかく忘れかけていた暗い気持ちがまた顔をのぞかせる。
あの時は突然花音さんが泊まることになって私のベッドで二人で寝た。その時にはもう花音さんのことが好きだったから、同じシャンプーを使ってるはずなのに、自分とは違う花音さんのにおいが感じられて、心臓がうるさいくらい鳴り響いてあまり寝れなかったことを今でもよく覚えている。
あの時の花音さんのにおいとは違うにおいを今日も感じた。いや、正確に言えば花音さんのにおいも感じた。それでも違うと感じたのは、白鷺先輩のにおいが合わさったからなのだろう。
洗濯された紫のパーカーからはいつも通りの洗剤の香りがするだけ。そもそもあの時花音さんに貸したパーカーとは違うものだ。
だけど、なぜか、どうしようもなくこの一人の空間が寂しくて、私以外の音がしない空間がつらくて、思わずパーカーを抱きしめてしまう。
「花音さん……私、花音さんのことが、好き、でした……。好き、だったんです……。」
私のつぶやきは空気をわずかに揺らし、誰の耳にも届かないまま消えていった。
熟れすぎた果実が木から落ちるように、静かに、誰にも知られることなく、私の恋が終わりを告げた。