開戦前夜
シュヴェーリンが目を覚ました時は、まだ暗かった。年のせいではない。彼ほどの牡でも、このような時には眠りが浅くなって当然だ。すぐには寝付けそうもない。毛布を脇にやったなら、老躯を包むのは既に軍服である。寝台の前に置いた靴さえ履けば、すぐに天幕を出られる。
外に出てみれば、月たちはまだ高かった。目が覚めたのを幸い、彼は夜間巡察を開始した。と、言えば大仰に聞こえるが、この歴戦の上級大将にとって、兵たちの様子を見回るのは散歩同然の習慣である。隣の天幕で寝ている副官も連れない、放胆な一人歩き。それができるのは今夜が最後になる。
時刻は午前零時過ぎ。日付は十月の二十六日。ここはオルクセン領の北部、シュトレッケンの郊外である。あたりには無数の天幕がある。だがそれは彼が率いる軍のごく一部に過ぎない。彼、第三軍司令官の下にいる将兵を合計すれば、実に十六万人を超えるのだ。その全員が銃を抱いて眠っている。日が昇り、また没した今日の午後六時ちょうどが、対エルフィンド侵攻発起の時である。
兵を起こさぬよう足音を抑え、小さな灯り一つをもって天幕の間を巡る。かすかに聞こえるのは兵たちの寝息に
やがて、灯りのついた天幕に着いた。「邪魔するぞ」と小声をかけ、二呼吸ほど待ってから中に入ると、連隊の当直将校は慌てて立ち上がるところだった。
「こ、これは司令官」
「そのまま、そのまま」
そう声をかけて、天幕内にあった椅子を引き寄せて腰を下ろし、当直将校も再び座らせる。
「みんな、よく寝とるようじゃな」
「はい、命令通り、確実に休ませております」
「結構なことじゃ。菓子を焼いている者もおらなんだわ」
「…は? あの、菓子とは何でしょうか」
「いやさ、昔のことよ――ほう」
将校の机の上に一冊の本が載っていた。戦地に持っていくには似合わない分厚さだ。表紙を見ずとも、何の本か分かった。シュヴェーリンも同じものを持っている。職場に一冊、自宅にも一冊だ。オルクセン参謀本部が編纂した公刊戦史である。装丁の具合から、かなり前に出た旧版だと知れた。いま流通している新版と違い、古風なオルク語で記述されている。
「それは古い版じゃな。今時の若いもんには読みにくいじゃろうが」
「お恥ずかしながら、新版を揃えるには手元不如意でして。古本屋をまわりました」
「なるほどのう。ますます感心じゃ」
若い将校は意を決した顔で彼に尋ねてきた。
「閣下、不躾ながら、お伺いしたいことが」
「おう、何じゃ」
老将は気さくに応じた。こうして立場の遠い将兵と会話の機会をもつのは、巡察の狙いと楽しみの一つなのだ。
「これは…ロザリンド会戦の巻であります」
若者は本を開いてみせた。本の中盤、まさに会戦が始まるというあたりだった。
「こ、ここなのですが…。まこと、このような凄まじい有り様であったのでしょうか」
老将は若者の勉強熱心さと、その蛮勇に感じ入った。なるほど、その頁は、若者にとっては歴史だが、老将にとっては経験そのものだ。彼はその場にいた。そして見た。あの景色を。そして…。
シュヴェーリンはしばし瞑目した。
「そうじゃのう…。ちと、貸してくれ」
戦史の記述を見た。文章が切り取れるのは現実のほんの一端に過ぎない。しかしその文字を目で追うと、生々しい光景が彼の脳裏に去来した。
「君は、この戦争が初陣になるな」
「はい」
「そうか…。ならば、まだ分かるまい。おおむね、この通りじゃったよ。しかし、これが全部ではないわ。所詮、書いて表せることには限界があるもんじゃ」
「それが戦場、ということでしょうか」
「そうじゃ。いや、違うな」
老将は薄く笑った。日頃、いつでも豪快な彼には珍しい顔だった。
「それが歴史というものよ」
そしてシュヴェーリンは文章に目を落とした。その内容は、おおむね彼の記憶と合致するが、肝心なところでは酷く違ってもいた。しかし、目の前に座る初陣の若者には、到底伝え得ない。
公刊戦史は、ロザリンド会戦、その当日以降の展開を、こう語っている。
――オルクセン軍とドワルシュタイン・エルフィンド連合の両軍、各々の戦闘準備は六月十四日夜以て完了し、以て朝日の昇るを待つ。勝利は未定なり。戦勝の凱歌、知らず
やがて、天は遂に明けたり。
然れども漠々たる暁霧は渓谷を
之に依て午前の内、戦いは斥候同士の遭遇戦のみに終始した。地形斥候として派出されたるオーク騎兵は優勢なるエルフ騎兵と霧中において遭遇。騎兵の本分襲撃にあるの意気を示し、敵の心胆を寒からしめたり。然れども之はあくまで前哨戦にして、主会戦にはさしたる影響も与えず。
オルクセン大王アルブレヒト二世は、その間に各隊の将を集めて訓令を授け、若干の陣替えを指令した。事後、馬に跨り三軍を閲すると、其の見るところの王軍は、
正午過ぎ、満野の宿霧の
とまれ、戦は機先を制するにあり。アルブレヒト二世王の号令一下、進軍
オルクセン軍は機を失せず南進し、遂に渓谷の半ばを越えんとす。千々乱れたるドワーフの背、その時、忽然として消ゆ。即ち視界開け、渓谷を東西に
アルブレヒト大王の之を見るや、敢然と起ち、本営の諸将に告げて曰く。「この敗軍の結果は、敗軍それ自身よりも恐るべし。予、生きて我が国の滅亡を見るに忍びず。
大王は近衛巨兵連隊を親率し、その先頭に立つて
折しも白エルフ軍、勝機に乗じて胸壁より出で、突撃して来たる。大王が直率せし近衛、之に突貫す。直ちに両軍相乱れ、短兵急に相接して、銃砲を用いるの余地もなく、弾丸を
大王は
此の時、近衛の一兵士、主が危急を案じて「大王」と呼びたる。闇エルフが一将、渓谷の高所にありて是を聞き、遠望凝視して赤きマントを見る。是必ずアルブレヒト大王ならんと判断し、猟兵をして狙撃せしめたり。弾丸
されども諸兵、即ち見る。大王の起ちて之を制し「王は射られずして在り。いかでか我を討てる者のあらん。負傷せる者を後送せよ。残る兵ども、予に従ひ来たれ」と叫ぶを。将兵、勇躍して進み、今や胸壁は
之に到り、大王は瀕死の
一世の英雄アルブレヒト大王の戦没、其の様は斯くの如しと聞こゆ。天は
敵将マルリアンは、今しも胸壁の内奥に於いて銃兵を指揮してゐたが、一将校の馳せ来たりて、
オーク軍は士気阻喪したるも、尚ほコンラート・ラング大佐の殿軍、死兵と化して奮戦せるを以て、危うく巨狼の
其の間、マルリアンの上申を受けしエルフィンド軍総大将は、
然れども闇エルフ猟兵のみは機に臨み、息を継がずに追撃を行つた。夜の追撃は星欧戦史上に甚だ稀であるが、闇エルフは紅眼以て
残兵を率いたるシュヴェーリン中将等の将校は、此の渓谷において全オーク兵のまさに壊滅し、オルクセン王国の此処に滅び去るを予感す。
全軍悄然、破滅の運命に甘んぜんとした時、一少年療術兵が中将に告げて曰く――
その字句を追いながら、いま、シュヴェーリンは長い時間を飛び超えた。ロザリンド会戦までの百二十年を。否、さらに数十年の昔へ。
それは遠い記憶だった。
(次話「落日の傭兵」に続く)
本作の制作にあたり、「牙の痕」及び「ロザリンドの牙折り」の両作品に大きなインスピレーション頂きました(ただし今後の展開は異なります)。
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