「鬱陶しい丘じゃ」
シュヴェーリンは丘を睨みつけた。山と言われても遜色ない高さである。地図の上では単一だった丘は、実際には幾つもの高地が続く起伏のようだった。平原一帯を覆う
その周囲に帝国兵の白制服が見える。斥候の報告によると敵は軽砲まで据えている。オルクセンの歩兵砲を模した三ポンド砲である。まだ少数のようだが、敵は兵器開発でもオルクセンに学んだのだ。皮肉にも「オーク砲」と呼ばれるそれが彼らを牽制している。軽砲は千歩余の射程しかないとはいえ、上から狙われては容易には近づけない。
そのせいでオルクセン軍は理想的な横一線の布陣ができず、右翼軍のみ後ろに折れ曲がってしまった。
敵はそこを弱点とみて圧迫するという予測から、大王は十二ポンド重砲を右翼軍に与えた。輸送段列の馬十二頭に一門ずつ牽引される固定式平射砲。それが五門ばかり追加で到着した。もう固定を終え、馬と馬丁は後方に下がっている。
「これで丘の上を撃てれば楽でしたが」
副連隊長のラングが珍しく愚痴をこぼした。重砲は平地なら三千歩の射程があるが、それは平射した円弾が地面を跳ねて届く距離だ。榴弾砲や迫撃砲と違い、仰角をとって弾を高く撃ちだすことはできない。ここに据えたのは、敵が丘を下って来たときに散弾で防御射撃をするためだ。
「心強いが、俺らだけ守ってばかりなのは気に食わんな」
シュヴェーリンはそう答えた。左翼軍はもう囮攻撃を開始した頃合いだ。対して彼ら右翼軍は丘を警戒し、動けずにいる。
「ツィーテン大佐が敵の後ろに出られるまでの辛抱です。その後こそ我らが」
シュヴェーリンは頷いたが、やはり気に食わない。丘を避けねばならないせいで前進できる正面が狭まっている。発揮できる火力が減る。挟撃が成功したとしても、果たして敵を崩せるものか、どうか。
――ちっ。あの丘さえ。何とか落とせんもんか。
丘陵の全容はまだ見えない。攻め手を探す思案にも靄がかかったようだ。昼になれば平原は晴れ渡るだろう。そうなると回り込もうとしている騎兵が丘から丸見えになってしまう。その前に挟撃を成功させねば、敗北は目に見えている。
左翼方面からの砲声が一層盛んになった。左翼正面に位置するグロワール軍からは砲声とともに陽気な調べまで聞こえ始めた。既に勝利したかのような奏楽である。対してオルクセン側からは戦列歩兵の歩調をとる小太鼓だけだ。グロワール的な軽躁とオルクセン的な武骨さ、その対照が軍楽に表れているようだった。
やがて左翼方面から銃声が聞こえ始める。牽制目的だから、敵前二十歩までの攻撃前進ではないはずだ。案の定、突撃の声はない。列ごとの斉射を繰り返しているらしい。
待機を続けるシュヴェーリンは焦れた。
「頼みはツィーテンだけか。何とか昼までに抜けてくれれば…」
湖沼を目指して白い靄に消えた騎兵たちの背中を思う。
その時、くぐもった爆音が聞こえた。左翼側ではない。丘のさらに右前方、騎兵たちの向かった先からである。
「今のは…」
つぶやいたラングの表情は引きつっている。シュヴェーリンも直感した。
王の槍先が砕けた音に違いない。
――前が見えない。今、どうなっている。どこまで進んだ。
ツィーテン大佐は馬上で焦れている。寡黙な彼とて苛立ちから無縁ではない。周囲の靄は彼ら騎兵の身を隠してくれているが、指揮官の彼からしても部隊の状況が掴めない。これまで難地を越えるときは常に前方で部隊を率いてきた彼が、いまは縦隊の中ごろにいるからだ。
こんなはずではなかった――と、彼は歯噛みする。大佐の身、下級騎士の出に関わらず、実績を買われて騎兵主力を任されたのだ。武人の名誉、これに過ぎるはない。そう内心で勇んでいたのに、彼の指揮権は形ばかりだった。地形と状況をまっさきに掴むため、子飼いの連隊を率いて先頭を行こうすると、他の指揮官たちの反抗にあったのだ。彼らは「武功を独り占めか」と悪態をつき、我こそ先鋒と言い張った。
将官の階級なく、貴族の位階もないツィーテンの立場はそれほど弱かった。彼がもっと乱暴な性格ならば、あからさまに王の権威を笠に着て言うことを聞かせられたかもしれない。
しかし彼は実直な牡だった。これまでの育ちと経験からも、居丈高な相手にはつい萎縮する癖がついている。相手の背が高ければなおさらだ。
結局、命令というより要請、指示というより調整して、何とか統制をとる他なかった。
辿り着いた沼地は事前の調べより深く、輓馬の脚をもっても危険であった。ツィーテンは信頼する先導大尉たちに指示して通り道を探させた。特に馬術に優れた彼らは危険を顧みず進み、目を凝らし、長い木の棒で水中を突きつつ更に進んで、対岸へ続く狭隘な通り道を三本まで見つけた。
この時点で既にかなりの時間を使ってしまっていた。急ぎ隊形変更を命じると、精鋭の騎兵たちは僅かに四分余で三つの縦隊に別れ、前進を開始した。既に東方から砲声が聞こえだしている。
――急がねば。長引けば数で押し切られる。軍の命運が私にかかっている。
単騎で駆け出したくなる焦燥を堪え、ツィーテンは粛々と進む。時間からして、そろそろ先頭は沼を抜け、横隊を作り出した頃か――と、機械のように正確な感覚が告げた時、相次ぐ爆音が前方から聞こえた。
何かが水面に飛び散る音が続き、遅れて無数の悲鳴が聞こえる。
「待ち伏せか!」
前に駆け出そうとするが、突如の轟音に怖じた馬がいうことを聞かない。ええい、どうなっている。このまま立ち止まるほど愚かなことはない。このままでは――
声の届く範囲の騎兵たちを何とかまとめた時、再度の砲声が聞こえた。くぐもった音は円弾ではない。数百発の銃弾をブリキ缶につめて撃ちだす
それが斉射された。数千発の鉛弾に殺到されて、前方にいた数百騎は一瞬で肉片に変えられたに違いない。幾人もの戦友の身体が盾となって死を免れた者も、正気ではいられない。一瞬で数百の生命が砕け散るさまは、知恵をもつ生物が耐えられる限界を超えた衝撃だ。
仲間とともに勇気を粉みじんに砕かれ、大勢の騎兵が逃げ戻ってくる。が、通れる道は狭い。逃げる途中で深みに嵌って馬が転倒し、あるいは立ち往生している者と衝突する。兵が次々に水面に投げ出され、その体を新たに逃げてきた輓馬の足が踏みつけて砕く。
その混乱の渦中へ新たな散弾射撃が襲い、逃げ遅れた数百騎が骸と化した。
ツィーテンは叫び声をあげて何とか部隊を落ち着かせようとする。
しかし兵も馬も原初的な恐怖に囚われ、他の誰を押しのけてでも自分だけは逃げ帰ろうとしている。さらなる転倒と衝突が生じ、混乱が際限なく広がっていく。
砲撃はさらに続いた。
右翼軍を率いるクライスト中将は、直ちに連隊長以上の指揮官に集合をかけた。騎兵隊が砲を持っていない以上、先ほどから続いている音が敵による砲撃なのは明白だからだ。被害のほどは分からないが、とにかく繞回部隊が待ち伏せを受けた。防御力の低い騎兵隊が無事に済んだわけがない。
「沼地へ送った偵察はまだ戻らぬ。だが繞回は、まず失敗と考えたがよかろう」
クライストはそう言った。誰もが頷くが、発言はない。誰も打開策を持たないのだ。彼らは王の作戦を信じ切っており、それが完全に破られるなど考えたこともなかった。王の命令のままに一糸乱れず動く戦争機械は、命令が誤っていた時に為すすべを知らなかった。
「と、とにかく王のご命令を仰がねば」
連隊長の一人の発言に、クライストは首を振った。
「伝令はもう送ってある。しかし帰ってこぬ」
またやられたか――と、誰もが想像した。数騎単位の敵軽騎兵が至るところに潜んでいる。軽騎兵をもたぬオルクセン軍に対抗手段はない。この戦場への行軍中にも伝令や斥候が頻繁に狩られた。徒歩や輓馬の足では駿馬にすぐ捕捉されてしまうのだ。
ただし、この時の事実は異なる。実際には、若い伝令が戦場の興奮から道を失い、帰着が遅れていただけであった。しかし誰もそうとは取らず、ついに本営との連絡まで遮断されたと誤解した。
「ゆえに、やむを得ぬ。騎兵が敗れた確報がとれたなら、我らは直ちに前進して正面の敵を叩く」
部下を集める前にクライストは決心を終えていたようだった。
「もともと我らの本領は正面攻撃にある。騎兵がおらずとも人族には負けぬ。この靄も多少は目隠しになろう。急進して斉射と横隊突撃で崩す。いつも通りにやるだけのことよ」
自信に満ちた司令官の言葉に、諸将は頷きを交わし合った。もう瞳が燃えている。それも当然である。彼らの横隊突撃、通称「オークの津波」は過去の全ての会戦で数に勝る敵隊列を粉砕してきた。
「やってやりましょう、将軍!」
「左翼軍に後れをとってはなりませぬ」
「正面が狭い。先陣は我が連隊に!」
「我らの津波をみせつけてやりましょう」
クライストは我が意を得たりと頷いた。猪たちは猛り立っている。
――間違っとる。大げさじゃ。正面から突っ込むのは最後の最後。我が王の作戦は、いつもそうじゃないか。皆、何を見てきた。
そう思っているのはシュヴェーリンだけのようだった。やむにやまれず口を開く。
「正面の敵はまるで無傷です。数も多い。無策に当たって崩せるとは思えませぬ。急ぎ敵を探り、隙を探すべきかと」
せっかく高まった士気に水を差され、クライストは眉を逆立てた。
「他の軍はとうに戦っておるぞ」
「しかし我らの軍が勝利の要です。勝算なく兵を減らしては」
「またしても臆したか、シュヴェーリン!」
「俺は臆してなど!」
言い争いになりかけたところに偵察に出ていた将校が戻った。将校は騎兵隊の退却を報告したが、言われるまでもなかった。彼に続いて多数の騎兵たちが逃げ帰ってきたからである。士気も統制もすっかり崩壊した敗残の姿だった。
「ええい、もうよい。シュヴェーリン連隊は後詰じゃ。丘の敵軍を抑えておれ。他の連隊は前進する。オークの一兵は敵兵の三人に勝る。敵戦列を崩し、勝利への道を開くのだ」
そう命じると、クライストは馬腹を蹴って子飼いの連隊の元へ向かった。他の連隊長たちも駆け去り、間も無く前進のラッパが聞こえた。これまでの戦勝がクライストを果断な将にしていた。
昨夜に続いて進言に失敗し、面目も失ったシュヴェーリンは歯噛みしつつ自分の連隊へ戻った。丘の敵に向けた防御態勢を整えさせる。
その間も、脳裏には教令の文言がこだましている。暗記するほど繰り返して唱え、筆写した王の軍略。
<軍隊が精強であれば勝利できるというわけではない>
オーク兵は確かに強い。しかし、それだけを頼ったら負ける。
<将軍には健全な判断力と真の勇敢さが求められる>
判断。どうしたらいい。一体どうしたら。
彼は救いを求めるように辺りを見回した。目の前には敵に奪われた丘。手元に一個歩兵連隊。防御用の重砲。騎兵たちが続々と敗走してくる。
その中に生還したツィーテンの騎乗姿を見つけた。こちらを見つけて速足で寄ってくる。彼自身に怪我はないらしい。どころか、負傷した兵一人を自分の前に載せている。
「シュヴェーリン大佐か。面目ない。失敗だった。クライスト中将はいずこに」
シュヴェーリンが中将の前進を伝えると、騎兵大佐の顔には絶望が広がった。彼は決戦兵力を任され、挙句に敗走した。彼の一撃を得ないまま、右翼軍は優勢な敵にあたろうとしている。
その銃声が聞こえてきた。敵も応射している。
二人の大佐の間に沈黙が降りた。無言のうちに、両者は互いが同意見であると知った。
シュヴェーリンの脳裏に教令の文言が去来する。彼の中で少年と大王が声を合わせて語った。容赦も躊躇もなかった。
<将軍の行動によっては、あらゆる優位が無に帰することもありうる>
まして不利を承知で、ただ意地のために前進するなどとは。
シュヴェーリンは暗い確信をもった。右翼軍の攻勢は失敗するだろう。その後に起こるのは全軍の崩壊に違いない。
――負ける。大王の軍略が。もしも大王がここにおられたら。一体どうなさる。
突貫の声が届いた。しかしその後にオークの悲鳴が続き、しばしあってまた銃声が聞こえ始める。突撃の失敗は明白だ。しかしクライスト中将は諦めず、攻撃を繰り返す腹らしい。
――肝が据わっているのはいい。しかし、正面からぶち破るには敵が多すぎる。右翼軍が使える場所も狭い…。やっぱり結局は。
忌々しい丘が彼を見下ろしている。計画通り、あれを越えられていれば。
「ツィーテン大佐。あんたはどう思う。あの丘を」
憔悴していても騎兵大佐は冷静だった。
「奪い返すと? 上から見下ろされては困難でしょう。それに大王のご命令に逆らうことになる。我らは王命に服従せねばなりません。一糸の乱れもなく」
「ああ、そうだな。命令に背いて動いちゃ、山賊並みの…」
困難。服従。そして命令。違和感がそこにあった。シュヴェーリンは王の演説を思い出した。あれ壮烈なだけではなかった。
<我が軍の果敢な行動と、予の命令に対する正しい服従は、必ずや、あらゆる困難を克服する>
正しい服従。王の命令に従うとは、果たしてどういうことなのか。ポルスカの戦い以来の違和感に、いまのシュヴェーリンは閃くものがあった。
その時、風が吹いた。戦野に垂れこめる靄がわずかに薄くなる。その向こうに見えるのは丘。王の教令が喉を突いて出た。
「高地を…よく調べなければならない…必要な視界が得られる地点を探さねばならない」
「…教令ですか? 私は記憶にないが」
ツィーテンに覚えがないはずである。将軍に与える教令は、彼には配られていない。大佐の身であれを読んだのはシュヴェーリンだけだろう。
「ラング、しばらく任せた」
言い捨てると、シュヴェーリンは騎乗し、馬を前へ走らせた。横隊で待機する兵たちを越え、さらに前へ。止める声が聞こえるが、無視する。
心の内で何かが叫んでいる。王の声ではない。もっと昔の傭兵時代の記憶。帝国を追われ、アスカニア南部の山岳地帯に逃げた頃だ。
そこで出会った誓約同盟の傭兵たちが彼にとって最初の戦術の師となった。故郷を守るため帝国に抗い、多くの騎士を長槍と弓で殺し、しかし長い闘いの果てに敗れ去った戦士たち。山地に散った数知れぬ骸がいま、彼に『行け』と言ってる。
陣前から二百歩ほど前にでる。丘から歩兵砲が届いてもおかしくない距離。丘を形成する複数の高地のつらなりが見える。馬首を返して横行。彼はせわしなく首を動かし、高地の地形を観察する。そして想像する。
もし、あの丘の上にいたなら、下はどう見える。
かつて誓約同盟の傭兵たちは長槍陣で帝国騎士を倒した。そして帝国が弩兵を持ち出した時には、弓を手にして山地の起伏を馳せた。騎士たちに何と罵られても――
ああ、やれる。俺は、あの丘を登れる。昔に戻ればいいだけだ。傭兵に。騎士をも倒す、卑怯な山賊の戦に。しかし、その後はどうする。
その答えは王の教令の内にあった。
<敵の間違いを探せ。なければ作り出せ。例えば半ば撃破された味方の歩兵に偽の退却を行わせる。こうすると敵は味方を追撃しようとし、銃砲の射線を…>
目をこらし、敵歩兵砲の向きを確かめる。確信を得ると、彼はさっと陣に戻った。
「ラング! ツィーテン!」
呼ばわりながら馬を降りる。機敏にやってきた両名に向けて、彼は言った。
「俺の連隊はあの丘を占領する」
直ちにラングが反論した。
「近づくなとの王命です。我らは後詰として」
「陛下は丘を直に見られたわけじゃない。王命は敵左翼を崩すことじゃ。中将はあの丘の敵を抑えろと。登れる見込みが立ったから、攻撃して抑えるんじゃ」
「無茶です! 上から狙われます」
「すり抜けていける。稜線の下に隠れていける道筋がある。俺にはそいつが見える」
地図と違い、実際の丘は一つではない。敵は一番の高地を抑えているが、周囲の高地の起伏を縫って進めば隠れられるのだと、シュヴェーリンは説いた。
ツィーテンは考え込んでいる。普通は通れぬ場所に道を見出すのは彼の特技でもあるから、理解が早い。だが疑問が消えたわけではない。反問したのはまたラングであった。
「我々は一個連隊です。登り切った先で待ち構えられては、やられます」
「今なら大丈夫だ。靄がある。それに突っ込んでいったクライスト中将の主力がいる。敵の砲はそっちを向いている」
「主力を囮に」
「今ならできる。丘の敵の横合いを突ける。丘を占領したら中将の主力と呼応する。敵が大軍でも、そうすりゃ――」
「片翼包囲ですな」
ラングが高揚した声で言った。王の本来の作戦である。やり方は予定と違っても、それを実現できれば勝利への道が開ける。<敵が一万もの兵を擁していても、その側面を突けば、直ちに撃滅できる>と教令は教えている。
「ああ。しかし歩兵だけじゃ、丘をとった後がきつい」
そこでシュヴェーリンはもう一人の大佐に向き直った。
「だから力を貸してくれ、ツィーテン」
寡黙な大佐は端的に答えた。
「話は分かるが、騎兵は登り坂では働けない」
「ああ、わかってる。だからお前は馬を降りてくれ」
それがシュヴェーリンの策だった。
「馬に重砲を引かせて坂を登るんだ。あの上に引き上げりゃ、敵のど真ん中に撃ち込める」
<歩兵砲と重砲を区別せよ。歩兵砲は戦列において大隊を援護させ、重砲は努めて高所に配置せよ> それも王の教令の教えである
しかし野戦が始まってから重砲を機動させるなど、前代未聞といっていい。まして急坂を登るなど大仕事だ。しかしオーク騎兵の馬は巨体の輓馬。元の用途は重い荷車や馬鋤を引くことだ。その踏ん張りと体力ならば。そして誰より馬の扱いを知るツィーテンが指揮するなら、できるのではないか。
「ば、馬鹿を言わないでくれ」
騎将の返答はにべもない拒絶だった。
「なんでだ。坂が急過ぎるか? よく見るんじゃ。あの稜線を遮蔽に..」
「嫌だ、絶対に嫌だ。馬を降りない!」
騎兵大佐は日頃の寡黙ぶりを捨て去った。駄々をこねる幼な仔のようだった。
「わ、私は騎兵だ! 輜重隊じゃない。馬を降りたら騎兵でなくなってしまう。やっと掴んだ名誉なんだ」
その仔どもじみた必死さに、シュヴェーリンは悟った。牡が見苦しく足掻くのは、悔し涙を流す幼い己を守るために違いない。
きっと、こいつも俺と同じだ。下級騎士の生まれで、武の道を志した。やっとここまで這い上がってきた。
しかし、ツィーテンはオークには珍しいほど小柄だ。それだけで武人に向いてない。どうにもならない限界に悔しい思いをしただろう。馬鹿にもされたに違いない。その不利を力に変えようと、こいつは乗馬に活路を見出したのだ。嘲りに耐え、どれほど努力したことだろう。ついに誰より巧みな騎兵になって今の地位を勝ち取った。
立派な奴だ。世が世なら誉れの騎士といっていい。しかし、そこで立ち止まるなら、軍人の資格などあるものか。あの王に仕える資格など。
「馬鹿野郎はお前だ!」
だからシュヴェーリンはツィーテンの頬を殴り飛ばした。小柄な騎士は呻きをあげて倒れかかるが、転ばずに踏ん張る。彼を睨み返す瞳は鋭い。
そうだ。もっと怒れ。喚くなら前を向いて喚け。そうして熱くなれるなら、お前だって変われるはずだ。俺たちは。
「俺たちは騎士じゃねぇぞ。てめぇ一つの意地なんか捨てろ。お前は陛下に言われたんだろうが。オルクセンの槍になれ」
ツィーテンの襟首を掴んで高地の方を向かせる。
「分かるはずじゃ。陛下は敵の翼側を崩せと言われた。馬で駄目なら他を考えるのが俺らの仕事じゃねえか。
ツィーテン大佐。馬のことならお前は誰より上だ。もっぺん、あの丘をみろ。俺はあれを越える。お前はどうだ。できるのか、できんのか」
振り返った小兵の顔は冷静実直な将のそれだった。泣きわめく幼な仔は、もういない。両の瞳に闘志が燃えている。
「やれる。歩兵はマスケットだけ担いでいけ。重砲も歩兵砲も全部上げてやる。途中で攻撃を受けないなら」
「よおし!」
歓声をあげた彼の頬をツィーテンの拳が打った。巨躯のシュヴェーリンが蹈鞴を踏む。腰の入った強打だった。淡々とした声が告げた。
「やられっぱなしではたまらない。私も、敵に目にもの見せてやりたい。一緒にやろう、シュヴェーリン」
「へへっ。その意気じゃ。この戦、俺らで勝つぞ」
彼は勝利の手がかりと新たな友を得た。
シュヴェーリンは連隊に三列縦隊を組ませ、その先頭に立った。丘を右斜めに登り進んでいく。頻繁に左を見て、丘の上からの視線が稜線に阻まれる道を選ぶ。
半ばまで登っても上からの攻撃はない。シュヴェーリンの連隊は、まだ残る靄と稜線に身を隠し、声を抑えて進む。その縦隊の後に六頭ずつの馬が引く大砲が続いている。声を抑えながら砲の架車を懸命に押し上げているのは、下馬した騎兵たちである。
いいぞ。その調子だ。確かめさせてくれ。俺にはまだやれると。
やがて右翼軍主力の方から突撃の蛮声が聞こえ始めた。もう三度目になる。敵を崩せる見込みが立たぬまま、味方は間もなく限界を迎えるだろう。
それまでに、やってやる。この丘を登りきれたら、俺は間違っていない。
徐々に気温が上がり、靄は消えかけている。目指す丘の端までは後わずか。荒い息をつきながら、彼は己を鼓舞した。
証を立てさせてくれ。俺は時代遅れの役立たずなんかじゃないと。あの方の剣になれると。
そして彼の視界から最後の稜線が消えた。見えたのは青々とした空だった。中天に達しつつある太陽が輝いている。明るい陽光が彼と部隊を寿ぐように照らした。
彼は辿り着いた。振り返って見下ろせば、彼の後に道ができている。連隊の縦列がある。横向きに遠方すれば一番の高地の上には敵隊列。こちらに側面を向けている。
オルクセン右翼軍の主力はもう突っ込んだという事実。裾野にかかった靄。自分たちが高地を抑え、優位にあるという確信。シュヴェーリン連隊はその隙間に滑り込んだのだ。
「後ろへ逓伝。左向け、左」
鍛えられた戦争機械は速やかに応じた。三列縦隊はそのまま三列の横隊となった。相手の弱い側面に向けて最大の火力を集中できる。
これだ。これが機動。敵の隙を突く。我が王の目指されたもの。俺にはそれができる!
彼は丘を越えた。もはや迷いはない。傭兵あがりでよかった。字を学んでよかった。もう自分を信じていい。あとは真っすぐに行くだけだ。前へ。ひたすらに前へ。この確信とともに突き進め。
「シュヴェーリン連隊! 目標、前方の敵。前へ、進め!」
彼の、そしてオルクセン軍の逆襲が始まった。
(次話「大王と剣」へ続く)
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