この時期、アルブレヒト大王は戦争を望んでいなかった。
後年のエルフやドワーフ達にそう言えば鼻で笑うであろう。大王を英雄と崇め続けるオーク達でさえ、そうである。
しかし彼は現にそう明言している。
数年前、三大国との戦争に勝利して王都に凱旋した時のことである。戦勝祝いに訪れたキャメロットの公使から「大王陛下の栄光に限りなし」と称えられた時、王はこう返した。
「……他の者が腹の中でどう思おうとも、栄光はこれ限りであれと思う。予は十分に征服した。後は保持するのみを望む。
予は今、やっと己が生きたいと思い、他者をも生かしたいのだ。あの、おびただしい血を流すような計画をもしも絶えず企んでいるとしたら、我らは何と哀れな生き物であることか。
今後の予は、己が身を守る以外では、もうネズミをも攻撃しない」
この発言は公使によってキャメロット本国の南部担当国務大臣に報告され、後世に残った。公使は報告書にこう書き添えている。
「――かくの如く、オーク王は周辺国への牽制を口にしました。オルクセンと事を構えるつもりなら、再びおびただしい流血を覚悟せよというのです。しかし彼がそう言い得るだけの軍事的能力と実績を持つことは認めざるをえません。それにしても隣接諸国をネズミに例える修辞はオーク王の驕慢ぶりを如実に示しております…」
これ以降にオルクセンに起こったほぼ全ての出来事を、この一挿話が象徴しているといっていい。アルブレヒト大王が、彼が望まなかった最後の戦争を始めるに至った原因は、余儀なき不運の影響もあるとはいえ、結局のところ彼自身に帰せざるをえないのである。
民衆の大歓声を受けて王都ヴィルトシュヴァインに凱旋した大王は、一転して内政に集中した。戦争の勝利で得た権威でもって国内を改革するという、これまでと同じパターンであった。三大国を退けて得た勝利が輝かしい分だけ、その後の変革は思い切って苛烈だった。
貴族制が廃止された。騎士も同様である。
この衝撃がいかなるものであったか、後世において理解するのは難しい。当時のオルクセン、のみならず星欧のたいていの土地において貴族とは国家の「制度」だと思われてはいなかった。何者を貴族に列するかは王が決められても、貴族の存在そのものは天然自然の造作だと思われていた。山や川がそこにあり、馬と羊が違う生物であるのと同様である。それを否定可能だという発想が、まず異常であった。
アルブレヒト大王はその異常なことをやった。断行した。王宮に参集し、哀訴し、歎願する貴族たちに大王が告げた理由は単純であった。「軍事の障りになる」の一言である。
先の戦争の結果、シュヴェーリン、ゼーベック、ツィーテンら新世代の軍人が急速に台頭したことが原因であったともいえる。揃って下級騎士の出身である彼らが将官に昇った時、より高位の貴族出身将校たちは素直にその指揮に従わなかった。王はその弊を指弾した。
「我がオルクセンの如き国において、国家は強力なる軍に守られてはじめて存立し得る。国家の藩屏は貴族にあらずして、ただ軍隊のみ。その妨げになる一切を廃絶するか、あるいは国家が廃滅するか、二のうち一を選ばねばならぬ。これに逆らう者は反逆の徒である」
既に領主権を奉還していたとはいえ、自分たちが平民のオークとは別種であると思っていた貴族たちは驚愕した。勇猛で知られたクライスト大将すら、自身の伯爵位が失われると知り、周章狼狽して王に問うた。
「大王よ、それでは私の地位と権威は失われるのでしょうか」
答える王の顔には微笑が浮かび、その声音はごく穏やかだった。
「案じることはない。貴公は既に大将の地位にある。家禄も引き続き給す。それらが仔には継がれぬというだけだ。しかし貴公がいう権威というものは、予には分からない。オルクセン王国において権威はただ一つであり、それは予のことだ」
断固たる決意に恐れをなし、クライストは平伏して賛意を示した。彼は幸いであった。それから十日あまり後、王は不穏の動きを見せた者、あるいはそうと噂された数名の貴族を反乱の咎で誅殺した。
次いで大王が手を付けたのは土地改革である。制度としての貴族を廃止し、それと平民の間に事実上の身分としてあった騎士を無くしても、彼らはなお大地主ではある。大王はそれをも否定し、わずかな代金と引き換えに農地を小作人に分配させようとした。
「予は地主どもの権威を台無しにしてやる。王は目的をやり遂げて、王権を青銅製の岩山のように固めるのだ」
そう改めて言明して、大王は己以外で国内に存在する権威という権威を否定しにかかった。ただし土地改革は開始こそされたものの、分配とその測量、記録に膨大な手間を要したことから、大王一代の間にはさほど進まずに終わる。
とはいえこれらの結果、貴族や騎士の家に伝来の家名は、平民のそれと変わらない、ただの姓の一種になり果てた。あわせて、前々から準備されていた国家試験制度が開始されたことで、平民でも試験に合格さえすれば将校にも官吏にもなる道が開かれた。
こうしてアルブレヒト大王は唯一絶対の権威として八百余万の国民の上に君臨し、国家の全てを支配した。
大王の朝は早い。冬は五時、夏は四時に起きる。ライ麦パンとベーコンの朝食をとりながら、昨日午後以降に届いた報告書や書簡を副官に読み上げさせる。食後にはチコリーを煮出した代用コーヒーを三杯。眠気覚ましのために辛子を一匙いれて。
朝食を終えると、彼のもとには絶えず大臣や役人たちが訪れ、指示や決済を求める。大王の業務時程、すなわち、どの省がいつ王を訪ねていいかは時間単位で決められている。大王が自分で決めるのである。種族に必須の午睡を挟むのみで、王の執務は深夜までほぼ休みなく続く。あまりの精勤ぶりを外国公使が驚きとともに褒めそやすと、王は「予は国家第一の下僕である」と答えた。
この台詞はグロワールやキャメロットの人文学者たちに絶賛された。なんたる理想的君主と称えられ、オーク種族に対する人族の偏見を大いに軽減した。
大王の下で働く某大臣はそれを聞き、複雑な微笑とともに言ったという。「そんなに羨むなら、人族の大臣や役人もヴィルトシュヴァインへ働きに来るといい。きっとすぐに根をあげて帰国を望むだろう。なにせ、我が国では大王すら国家の下僕であられる。いわんや、お仕えする臣民の身に於いておや――」と。
実際、大王はこうも言った。
「君主がその統治する国家に於いてあるは、なお身体に於ける頭脳の如しである。君主は出来る限り国家全体に利益をもたらすように物を見て、考え、そして行動せねばならぬ。
その際に国家の他の部分は、あたかも手足が頭脳の指令に従うが如く、君主のあらゆる命令に従い、休むことなく邁進せねばならぬ」
言葉にたがわず、大王は下僚たちを休みなく酷使した。政治を部下任せにすることを嫌い、何事も自ら考えて指示を出した。そのためオルクセンの大臣は列国でいえば秘書長という程度の権限しか与えられなかった。
王の下にある政府官衙は司法、財務、軍務、商工務、外務の五省と、地方統治を担任する総管理局、そして元帥府の七機関である。列国と違い、内務と農務の省が欠けている。
それらを指揮し、王は小都市に過ぎなかった首都ヴィルトシュヴァインを大改造した。
いまシュヴェーリンの目の前に広がるその景観は、かつての小都市と同じ街だとは信じがたいほどである。道には石が敷かれ、建物は新しく、道行く住民はかつての十倍もいるかと思うほど栄えていた。
「ここはオルクセンか」と、シュヴェーリンは疑わざるをえない。
多くのドワーフが忙しく立ち働き、大通りに店を構えているのは殆どがコボルトではあるまいか。彼ら彼女らの喋る言語が街にあふれている。シュヴェーリンには聞き取れない。
まるで異国の都だった。目に映るドワーフとコボルト、その多くは大王の命令で元自由都市から強制移住させられた者たちである。大王はあたかも徴兵を動員するように、商家と職工をも動員したのだ。移住者は数年間は無税で、土地と住居まで無料で提供された。
オークたちは異種族優遇に反発した。コボルトとドワーフはそれぞれ独自の言語を持っており、一部の商人などを除いて、オークたちのオルク語は通じない。そんな種族が大量に首都へ集団移住してきたのだから、オーク達の困惑と怒りは当然であった。
しかし王は「予は怠け者のオークよりも、働き者のドワーフやコボルトを愛する」と公言した。現にコボルト商人たちが銀行家になり、ドワーフたちが工場の主として財を成すと、王は喜んで彼らの邸宅を訪問し、親しく接してみせた。種族差別をなくし、オルクセンをオークの国から魔種族の国にしようとしたのだ。
もっとも、王の吝嗇気質とひっかけて「我らが大王は臣下の家でよく夕食をとられる。しかも、たっぷりと」などという冗談話にもなった。
そのようなわけで様変わりした首都の通りを、シュヴェーリンは歩く。約束の刻限の前に立ち寄るべき店がある。その前に通りの商店を眺めるのも楽しい。また、必要なことでもある。
パンの値段は昨年の二倍ほどであった。彼は胸をなでおろした。首都ではまだ日常が維持されていると、そう確認できたからだ。
やがて彼は書店についた。「邪魔するぞ」と入る様は、常連らしく慣れている。店主の方も、中将という国家の重鎮を迎えるにしては気の置けない態度である。
「いらっしゃいませ、将軍閣下」
「おお、久しいの。わしの注文は届いておるかのう」
「あい、こちらがご注文の騎士物語集でございます」
店主が奥から持ってきたのはシュヴェーリンの注文の本だ。黒地に優美な紋様を施した装丁が目に楽しい。
「これは立派じゃ…!」
めくってみれば、騎士が火吹き竜に立ち向かうところが挿絵になっている。たいそう豪華な版である。夜長の楽しみに、シュヴェーリンは頬を緩ませた。
といっても、話の筋は先刻承知である。勇敢な騎士は王命を奉じて火吹き竜を討ち取る。自分も身に毒を受けて死に、永遠の武名を残す。幼い頃に母が聞かせてくれた話だ。しかし、今になってその原典を字で読むのには堪らない悦びがあった。
「近頃はこの類の本があまり出ませんで、有難いご注文でした」
「売れんのか?」
「物語本では棚に並べるのも憚られます。いつお叱りを蒙るやらと…」
シュヴェーリンは気まずそうにうなづいた。大王の方針なのである。
大王は学問好きの読書家だ。王宮には奢侈品のかわりに図書が山と積まれている。好むのは数学、ついで工学である。学者の後援もよくする。王に援助された何某というコボルトの数学者は微積分という新たな算術を発明し、星欧の知識人の間で魔種族の評価を高からしめたと聞く。
しかし、王は文学や芸術は好まない。憎んですらいるように思われた。「国民を軟弱にする」と言って、首都にあった劇場を取り壊させたほどだ。
「何事も実用第一の時勢でございますな。それというのも...」
そこで店主は我に返って言い訳した。シュヴェーリンを常連と親しみ、王に仕える重臣であることをつい忘れていたようである。
「あっ。どうかお聞き流しを。ざれ事でございます。決して大王様に意趣などは」
「いやいや、わしは気にせんよ。また寄らせてもらう。この類の本が手に入ったら取っといてくれ」
「ありがとうございます、閣下。武勲詩や騎士物語は、近ごろでは滅多に出ませんもので、有難い限りでございます。ええ、やはり騎士も貴族もなくなっては...」
買い求めた本を雑嚢にしまいながら、シュヴェーリンは気がついた。身分差がなくなって、彼はずいぶん仕事がし易くなった。名実ともに国家の重鎮になれた。それでも自分が騎士でなくなったということに、一抹の寂しさを覚えているのだ。
だから自分は、今更な騎士物語がこうも楽しいのかもしれない。
店を出て、向かうところは王宮である。その道すがら、改めて街並みを眺めてみれば、なるほど、ここは彼の大王の都だった。
栄えてはいる。民も店も増えた。しかし他国の都ならあって当たり前の奢侈品、たとえば宝石屋や宮廷服の仕立屋はろくにない。庶民が騒ぐ宿屋や酒場はあっても、劇場や高級な料理店はみかけない。
吝嗇で知られる大王個人の生活が宮廷の文化をつくり、それがそのまま首都の街並みに反映したのだ。
戦争中、オルクセンは国費の五分の四を軍隊のために費やした。それでも足らず、御用商人やフンデ同盟に戦時国債を引き受けさせた。一部はキャメロットで起債した外債もあった。
財政立て直しのため、まず大王は極度の節倹で臨んだ。その日常は、グロワールなどの隣国と比べれば貴族の暮らしですらなかった。彼は、その独特な表現でいう「堅実ならざるもの」をみな犠牲にした。他の国ではどこでも宮廷の華やかさに大きな価値がおかれていた時代に、オルクセンの宮廷だけがみすぼらしかった。
ために、他国ならば宮廷と貴族社会から発生するはずの文化や芸術が何も発展しなかった。王宮を飾るべき絵画も、祝宴を彩るべき音楽も、社交の友となるべき詩文も、この時期のオルクセンは何も遺していない。維持費がかかるからといって、王宮にあった伝家の庭園が潰され、閲兵場になる。そのような国であった。
しかし倹約だけで財政は好転しない。歳入を増やす方も急であると、王は理解していた。
グロワールから名の知れた徴税人が招かれ、その進言によって多額の関税と物品税が課された。大王は「払う余裕のある者から取り、貧しい者からは取らぬように」と指示したが、これは彼が徴税請負人というものをよく理解していなかったためであるらしい。
当然、そうはならず、彼らは取りやすいところから取った。生活必需品に次々に税が課され、課税品目のリストは紙にして一〇〇頁以上に及んだ。庶民や商人は当然に脱税を試みるから、徴税吏の数が膨大になった。増収分の半ばはそのせいで食い潰されたが、税収が増えたことは確かである。
大王は喜び、その富を再び軍隊に投じた。「予はオルクセン王の陸軍元帥と財務大臣を務めるのだ。それがオルクセン王のためになるだろう」と、王は例の三人称で言った。ひたすらに質素な国で、ただ軍隊だけが異常な規模と精鋭ぶりを示し続けた。
驚くべきことに、国民の不満は少ない。それどころか、軍を増やせば増やすほど国は豊かになると、単純化すれば、そのような錯覚があった。
実際、ヴィルトシュヴァインを中心とする商工業の発展は軍需に支えられていた。兵の被服と天幕や毛布を作るだけで繊維産業が急拡大した。農村から手先の器用な牝たちが大挙して都市に押し寄せ、針子や織り手として働いた。皮革産業は兵士のブーツを作り、木工職人はマスケットの台尻や火砲の車をつくった。鍛治職人は銃砲の生産に昼夜の別を忘れた。
軍事こそ国の要、富と安全の
その中枢に、ようやくシュヴェーリンはついた。王宮である。衛兵の敬礼を受けて中に入り、その一角に向かう。いくつかの部屋を合わせて「元帥府」と呼ばれている。
その部屋で彼を出迎えたのは長年の友である。
「おお、久しいな。着いたばかりのところ、すまん」
そう言ったゼーベック中将の顔には露骨な疲労が浮いていた。シュヴェーリンは顔をしかめた。
「いや、わしは何でもない。貴様こそ大丈夫か。寝ておらんのか」
「はは、多少ずつは休めておるよ。近ごろはそんなものだ」
「それほど大変か。何もかも、兵站総監部でやっとるんじゃのう」
「まあな。最近は幕僚本部が手伝ってくれるから、ずんと楽になったわ」
作戦に要する連絡や事務、教令づくりを担って王を補佐する幕僚本部と、輸送と補給や商人との折衝を行うが作戦には関与しない兵站総監部。先の戦争を通じ、両組織の関係には微妙なところがあった。地図の作成など、業務の重複があった。また行軍路の選定ひとつとっても、作戦上の都合と兵站上のそれが衝突する。戦時中に両組織が対立を免れたのは、兵站総監ゲルリッツ大将の温厚さによるところが大きい。
両組織に所属する軍人たちは利け者ばかりであったから、戦後には忽ち解決策を思い付いた。どうせ業務が隣り合うなら、机も隣に置けば面倒がない。彼らは王宮の空き部屋を整理してまとまった区画を確保すると、そこへ揃って居を移した。連絡に調整、行軍や宿営の手配りを専門とするだけ、さすがの早業であった。
二つの組織が王宮の一隅に集住し、すっかり王国の軍事中枢を成した。その区画を元帥府と呼ぶのは、だから通称である。そこに詰める軍人は三十名余に過ぎないが、それが今、平和な王国を辛うじて支えているのだった。
事情を知るシュヴェーリンは友を労うように言った。
「…まるで戦争じゃな」
「戦争そのものだわ。やってることは変わらん。ただ食わせる数の桁が違うだけだ」
「政府には任せられんのか」
「無理だ。なにせ街や村の住民名簿だって、持っているのはウチだ。穀倉や馬車だってそうだ」
オルクセンはそのような国である。国民の戸籍を作るのは徴兵のためであり、つまり軍の仕事だ。道の整備は行軍のためであり、重要な街や村に穀物倉庫を作るのは補給のためである。民生のためではない。それらを掌握し管理しているのは軍隊である。ならば、このような事態にあって、国を支えられる組織は軍隊だけだった。
シュヴェーリンは頷き、求められていた報告を口にした。
「南部は無理じゃ。わしに農政のことは分からんが、貧乏なら知っておる。どの村もかつかつで、ありゃ、どうしようもない」
「それほどか。では、冬小麦の出来は」
「春小麦ほどの全滅にはならんじゃろうが、まずいな。どの年寄りに聞いても、まず見込みは例年の半分」
「それほど日照りか」
天候不順はオルクセンでは珍しくない。それにしても今回は異常だった。夏も秋も煮えるように暑く、雨は殆ど降らず、地面はひび割れた。細い川は涸れ、ただの溝になった。
シュヴェーリンは補足せねばならない。彼とて幼少期は封土の農村で育ったのだ。
「もともと農村は弱っておったからな…。これが追い打ちになった」
強大な軍事力と引き換えにオークたちの農村は痩せ細っている。単位面積あたりの減収を領土の拡大で補っているに過ぎない。かたや徴兵で働き手の牡が不足し、収量が下がった。それでいて好景気のために物価は年々少しずつ上昇し、生活費は嵩む。兵役に無縁の牝たちは、過酷な税金を払うため街への出稼ぎにでた。自然、畑の世話に出る手はますます減少し、また収量は減った。
大王はアルビニーを範として商工業を重視する一方で、農政にはあまり関心を向けてこなかった。大王独裁の下では、王の知識と関心の限界がすなわち政策の限界ともなった。大王は農村に、ただ兵士の供出地であることを求めた。失った収量は、戦争で獲得した肥沃な南オルクセン平原の収穫で補って余りある――はずであった。
その頼みの穀倉地帯が猛烈な日照りに見舞われたことで、全てが破綻しかけていた。
「わしが思い付くようなことは、みんなやっとるじゃろうが……輸入は、やはり無理か」
普通なら、こうなるはずがない。高騰を商機ととらえ、外国から麦を持ってくる商人に事欠かないはずだ。オルクセンに隣するポルスカとグロワールは肥沃な農業国であり、それらでは干魃は起こっていないのだから。
しかし――ゼーベックはわけを話した。
「無理だな。外務省が散々交渉したが。どこも食糧輸出を拒むか、やたら輸出関税を課すかだ。密輸に頼るしかない」
この数十年、オルクセンは周囲のほとんど全ての国と交戦し、破ってきた。また自国の産業と税収のために無法なほどの関税を課した。人族の君主たちはここぞとばかり、それらの報復に乗り出したのだ。
そこで兵站総監部がその全能を発揮して、食料の統制を図っている。凶作の兆しがでるや否や、耐乏生活を全土に強制した。凶作を免れた地方から余剰食料を徴発し、あるいは密輸で確保しては、不足する地域へ送って配給している。そうやって、辛うじて飢餓を先送りしているのだ。
「それで、最近は…」
言い淀んでから、ゼーベックは決定的なことを口にした。
「…補給倉庫に手をつけている」
虎の子の軍用食糧備蓄である。固焼きビスケットばかりの暮らしを我慢すれば、全常備軍が一年以上も飽食できる蓄えだ。しかし、それは所詮、常備十万を養うためのもの。オルクセン全国民は八百万を超す。
「次の収穫が例年を割るなら、もういかん。飢饉は目に見えている。国民はお互いを貪り食うことになる。このまま座して待てば、確実にそうなる」
ゼーベックは断言した。シュヴェーリンは首肯せざるを得ない。彼とて飢えの恐ろしさは知っている。
「それまでに、やるしかないか。やはり」
無いものは力で奪うのだ。オーク達は太古からそうしてきた。王国ができる前から、彼ら種族は不作凶作のたびに隣国に群れなして出かけ、略奪を行ってきた。それを国家規模でやるだけだ。
「...おい、何やら傭兵をしとった頃を思い出すのう。わしは今でも山賊将軍なんぞと呼ばれておるが、次の戦は軍を挙げて山賊になるようなもんじゃな」
その苦いぼやきに、古い相棒は意外な厳しさで応じた。
「あのボウズは達者か?」
「ああ、相変わらずのようじゃ。いくらかでかくなったが、まだ仔どもで...」
「あいつは飢餓で親を亡くした。ああいう仔をもう出さんためだ」
真っ先に犠牲になるのは弱い者だ。かつてのオルクセンでは、飢饉の時に村の家々が仔を交換し、泣く泣く締め殺して食べたという話もある。それがオークの歴史だった。
「...ああ、そうじゃな。そのためなら、一仕事やってやらんとな」
かつての傭兵隊長と輜重隊長は頷きを交わした。彼らはもう、故郷をあの昔に戻すわけにはいかないのだ。
グロワールや帝国に再戦を挑めるほどの食料と時間はない。だがしかし、天候に恵まれた穀倉地帯をもつ小国が、都合よく隣にある。しかもその国の軍隊は小さく、同盟国も無い。
オークたちはそこへ飛びつこうとしている。残された時間は少ない。冬小麦が収穫期を迎える夏前までにその国を征服し、穀倉地帯を奪取せねばならない。
彼らの狙うべき獲物、その名をドワルシュタイン王国という。一応はオルクセンと呼ばれる地方の端に位置する、ドワーフの国家である。
この時期、アルブレヒト二世の宮廷を訪れたグロワールの外交官は、こう記している。
「他の国々は軍隊をもっている。しかしオルクセンは軍隊そのものだ。軍隊が持つ国なのだ」
この評は正しくない。オルクセン軍は決して国家を支配してはいない。政策を決めたこともない。軍隊はただ、国家の最も重要な道具であった。軍隊こそオルクセンの切り札であり誇り。貧苦に耐え、血を絞って養った国民の愛児であった。
政策の全ては軍隊のためになされ、社会は軍隊を中心にまわっている。かくも愛され育まれた軍隊は、国家にその借りを返さねばならない。
大王率いる軍隊がきっと何とかしてくれる。戦争をすればうまくいく。国家のシステムが、そして国民がそう信じ、望んでいた。
軍事によって興り、まさにそのために窮地を招いたこの国は、迫りくる破局を再び軍事的に解決しようとした。
国民の無言の渇望に裏打ちされ、群臣は熱心にその策を献じた。アルブレヒト大王は裁可し、出兵を号令した。
ドワルシュタイン戦役の始まりである。
(次話「破滅への道」へ続く)
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