「左右の哨兵から定時報告。敵軍に動きなし」
通信係の白エルフが瞑目したまま報告する。交差法での測位は数時間前に終わっているから、左右どちらから探知しても敵方位に変化がなければ、敵軍は待機を続けているとわかる。
「苦労」
短く労って、マルリアン一等少将は汗をぬぐった。常になく息が浅い。そこへ彼女の騎兵指揮官が南から戻ってきた。霧と起伏をものともせずに馬を御している。
下馬した部下の報告は、遠方からの魔術通信で済むような内容だ。当然、本題ではない。
「ご指示の通り、騎兵隊は渓谷の南へ出しました。信頼できる氏族長達に委ねてあります」
「なぜ戻った?」
「お供を致します」
予想通りの即答に、マルリアンは苦笑した。
「イヴァメネル大佐。貴官は十分に働いてくれた。あとは歩兵と砲兵の戦だ」
「閣下は駆けまわるおつもりでしょう? 護衛くらいにはなります」
「そいつは贅沢だな」
軽口で誤魔化しても、感謝の気持ちは伝わったようだった。出色の騎兵指揮官との評価を聞いて抜擢するまで、彼女とイヴァメネルに面識はなかった。その程度の付き合いなのに、すっかり心服してくれたらしい。
ずいぶん惚れっぽい奴もいたものだ――と、彼女は自分を棚に上げて思いながら「では宜しく頼む」と答えた。
相談相手にできる将校が側にいれば、実際、助かる。これまでの輸送隊や徴発隊への襲撃、そして今朝方のオーク騎兵への伏撃で、イヴァメネルはその戦術眼を証明し続けてきた。
マルリアンは押し掛け護衛に現状を伝えた。
「敵に動きはないよ。霧が晴れるまでは待機するだろう」
「閣下の読み通りですね。何もかも」
理由が知りたい、という顔をしている。優れた騎兵指揮官にも、全てが見えるわけではない。エルフィンド軍司令官とマルリアンが計画し、ここまで進めてきた戦争は、それほど奇怪なものである。
「私にも、そこまでの自信があったわけではないが」
マルリアンは霧を見通そうとするように、渓谷の北を――六万を超えるオーク軍がいる方向を見た。正しくは、その中のただ一名、最も恐るべき牡の思考を見通そうとしている。
「私が奴なら、そうするからだ」
それは正直な、ごく何気ない言葉だった。しかしイヴァメネルには強い感銘を与えたようだった。
格好をつけたつもりはなかったのだが、と彼女は少し恥じ、新たな話題を出した。
「ともかく、これで時が稼げる。夜までとはいくまいが、せめて昼まで持ってくれれば有難い」
「ダークエルフ猟兵は、やはり間に合いませんか」
イヴァメネルは一番の懸念を口に出した。ダークエルフ猟兵は、足止めのために渓谷の北に残ったが、会戦までには引き上げて合流する計画であった。猟兵は貴重な施条マスケットを装備しており、人数に比して強力な火力をもつ。
しかし、その貴重な戦力は結局、渓谷の北と山中に散開したままに置き去りになってしまった。それが痛恨の計算違いであり、マルリアンがオルクセン王に喫した見えざる敗北だった。
「やむを得ん。徴発隊の戻りも待たずに進発するとは思わなかった。さすがの果断さだ。こちらの策は、あらかた見切られているだろう」
「腹の読み合いですな。会戦が始まる前に、それほどまでの」
「それがオーク王の戦争だよ。まずは今日の日没まで防ぎきる他ない。一刻でも遅い開戦を望むよ。何とか霧が……」
そこで、背後から迫る異常な音に気付いた。豪壮ながらリズムの取りにくい鼓笛と、今一つ揃わない足音だ。
「なんだ、あれは」
振り返ると、霧の中から味方の軍勢が行進してきている。エルフではない短躯の。
「なぜドワーフどもが前に出る!?」
ドワルシュタイン・エルフィンド連合軍の本営は、ロザリンド渓谷の南端に設けられている。本営といっても天幕もなにもなく、日除けの楡の木のかたわらに机と椅子をおいただけである。
形式的にはドワーフ王が総大将であり、クーランディアが副将となる。とはいえ実際の戦略は、兵力の大きさと交渉術の巧みによって、エルフィンド側が主導している。
しかし、全てがエルフたちの思い通りになったわけではなかった。クーランディアは用意された椅子を離れたところで瞑目し、魔術通信を交わしている。
通信相手は彼女が現場の指揮を一任しているマルリアンだ。本営と前線は十哩ほど離れているため、間に中継将校を挟む。主将と副将が言い合いをしているようでは士気と権威に関わるから、率直な言葉が使えない。もどかしさを感じながら、彼女はこう伝えさせた。
「味方と戦うより、敵と戦う方が易しい。とにかく、計画は変えるな」
その言葉からマルリアンは何かを察したらしかった。返ってきたのは了解の一語であった。
通信を終えたクーランディアは目を開き、自分の額に手をあてた。このところ、頭痛が日夜の供になっている。胸も気持ちが悪い。どちらの原因も最近の彼女の仕事。即ち、深酒である。毎夜、飲んでは密かに吐き、また飲んでいる。
しかし今、新たに加わった頭痛の種が、彼女の目の前に立っている。戦陣には全く似合わぬ礼装の白エルフだ。彼女はその相手に尋ねた。
「これで宜しいですな。勅使どの」
「いかにも。しかし閣下、ドワーフどもを案じておいでですか?」
「私が案じるのは作戦の成否です。磐石の堤防も蟻の一穴から崩れるとか」
クーランディアは笑顔の裏側で毒づいた。
畜生め。軍人には敵を与えておけばいいのだ。謀略などさせるものではない。
「ご懸念無用。貴官がもっと早く動いて下さればよかったのです。国務会議は、貴官がドワーフに籠絡されたかと案じておりましたぞ。夜毎に祝宴三昧で、政府からの使者にもまともに応対されず……」
「これはきついことを仰る」
こいつめ、私があの猪武者どもを籠絡するのに、どれだけ苦労してると思っているのか。政府が私を魯鈍、怠惰と思っているなら、擬態は成功していたのだろうが。あと数日のところを。
彼女はドワーフ達の機嫌を取って操縦し、政府から現場への横槍を自分のところで阻み続けてきた。その代償が頭痛と酒焼けというわけだった。
全てはマルリアンに自由裁量を与えるためである。クーランディアが己に課した役割は、その一点に尽きた。しかし勅使までだされては、どうしようもない。
ええい、それにしても。エルフィンド軍大将、女王の名代にして連合軍の副将が、これほど素晴らしい栄職だとは、誰が想像するだろうか。
そう思いながら媚態の笑みを浮かべる。せいぜい小役人めいて見えるように。
彼女をへこませたつもりの勅使は、取り澄まして言った。
「あとは、この戦いに勝った後でのこと」
「それは助かります。一刻も早い開戦を望みますよ。これ以上、何事も起こらない内に」
そろそろ不満を隠す気が失せてきている。彼女は微笑を続けたつもりだが、うまくやれた自信は皆無だった。
勝利。勅使はそれが規定の事実のように言った。その実現を求められている彼女には不安しかない。
徹底的に考え抜き、あらゆる備えをしたつもりだったが、それでも手違いが次々に起こっている。ドワーフとの内輪揉めに続いて、本国からの作戦介入。そんな状況で、星欧最強の軍隊を相手に勝てと言われているのだ。
勅使は、なお咎めるように言った。
「政府は貴女に望み通りのものを与えたのです。信じがたい程の資金を投じています。それに、後の始末もある」
クーランディアは辛うじて礼儀を守って答えた。
「やるだけのことはやりました。後は、戦争が明らかにするでしょう。戦争だけは誤魔化せない。否応なく、氷のような現実を突きつけてくれるのです」
戦争、戦争。誰もがその氷の刃を身に受ければいいのだ。世界が自分の願望を忖度して動いてくれるという幻想を、理不尽な弾丸に砕いて貰うがいい。そうすれば、ままならない平和でも、愛おしく思えるに違いない。
彼女は最初の砲声が早く鳴るように願った。さもなくば連合軍は、政治的に瓦解しかねない。
今は厄介な味方より、恐るべき敵のことだけを考えていたかった。敵もまた、一刻も早い開戦を待ち望んでいるに違いない。
アルブレヒト大王の姿は、渓谷北部で待機しているオルクセン軍の中ごろにある。椅子一つを置かせたきりの本営で、座りもせずに歩き回りながら、しきりと手を擦っている。時に手に唾を吐きかけ、また擦り、自分の服で拭う。
侍従武官アンハルト中佐はやや離れて侍立しながら、大王の奇癖を遠慮がちに眺めている。
大王は、やたらと手を洗いたがるのだ。王宮でも調度品には吝嗇なくせに、水道だけはあらゆる部屋に引かせた。綺麗好きはオークの種族的な傾向だが、これほどの潔癖は珍しい。
彼は王の公私を世話する立場ゆえに、その潔癖が別の方向にも向かうと知っている。王は愛妾を室に呼ぶことはあっても、明け方までには追い出す。特定の者だけを寵愛することもない。側近が正妃を娶るよう熱心に勧めても「予は時に楽しみたいだけで、楽しんだ後には嫌悪が残るのだ」と冷たく答えるだけだった。
そのような王だから、自然、仔はない。それで困らない、というのが王の主張だ。伝統通り、王位継承は血統ではなく魔力で決めればいい。選王の権利は、高位貴族の廟議あらため王国重臣の評議にあると法に定めて、王は婚姻の勧めを退けた。
「陛下、水をお使いください。私めの水筒ならば、これに」
差し出すと、王は彼を咎めるような眼でみた。
「無駄なことをするな。飲み水は戦のために使え」
「陛下がお心やすく戦に臨まれることが第一です。私などは、渇き死にしようと勝利に障りはありませぬ」
「勝利か。ふん」
王は未だかつてないことを言った。
「勝利などあるものか」
アンハルトは言葉を失った。彼の頭脳が理解することを拒んだ。王は彼の顔を見もせずに続けた。
「彼奴は、予のそれを渓谷に隠したのだ。待ち構えておろう。マルリアン、マルリアン……」
そして三つの地名を唱えた。アンハルトの記憶によれば、二つは古戦場の名前だ。
一つはグロワールの北部。グロワール騎士たちの突撃を逆茂木で防ぎ、キャメロット長弓兵が猛威を振るった戦場。
もう一つはロヴァルナ。ポルスカの英雄王とロヴァルナ皇帝が戦った地。皇帝が若き敵王の精鋭を土壁で防ぎ、大砲で粉砕した戦場。
最後の一つの地名は侍従武官には分からなかった。グロワール語のようだが、古語めいた響きだった。
明敏なコボルトは王の意中を、わずかながら悟った。
「敵は守りを固め、射撃に頼るとお考えで。しからば、我らの策は」
王はそんな彼を嘲笑った。
「ない。示した部署が全てよ。それが予と奴の戦いの結果じゃ。予は奴を追い詰め、奴は予を追い込んだ。後は、戦場が明らかにするであろう」
王は言葉を終えると部下を無視し、また手を擦る作業に戻った。コボルトにできることは彼の主君を信じることだけだった。他の全てを半ば裏切ってまで、自ら選んだ主君を。
霧が薄くなったのは正午過ぎであった。オーク達は、自分たちが進みつつある渓谷の地形をようやく目にした。
彼らの左右には険峻な稜線。針のように鋭い、黒い木々が茂っている。
渓谷は南北に伸び、東西には狭い。左右は険しい斜面で、軍の通行に適さない。さりとて南北の道も、これまで通ってきたところがそうであったように、波打つような起伏に満ちている。
火力を最大化する横一線の戦列は、複雑な起伏によって千々に裂かれてしまう。オルクセン軍が得意とする翼側機動は、渓谷の狭さに阻まれる。火力と機動、彼らの強みは二つながら制約されてしまっている。
常の会戦では右、中、左と三分割して横並びになる軍は、その地積をもたない。ためにオルクセン軍は縦並びの三梯隊を成している。
先頭を行く前軍がクライスト。主力の中軍をゴルツと大王。予備の後軍をシュヴェーリンが率いている。ツィーテンの騎兵隊はさらに後ろで、退路を遮断するかもしれぬ敵猟兵を警戒している。
王の指令は単純明快であった。「前進し、攻撃せよ」と、それだけである。
勇んで前進を開始したオークたちは、やがて敵戦列歩兵を正面に見出した。
白く輝く兜をかぶる、敵歩兵。数は一万には届くまいと思われた。猛将クライストは勇躍し、直ちに戦端を開こうとした。
しかし王はそれを止めた。王は騎乗し、前軍の第一戦列の前に出た。まだ射程外とはいえ敵からの丸見えの場所で、戦列の前で馬を歩ませ、兵を閲し始めたのだ。
前軍の兵達は歓声をあげた。王が手を振ると、兵達は帽子を銃剣の先に掲げて振り、大王万歳を叫んだ。
大王が何故この珍しい行いをしたのか、諸将には分からなかった。決戦に向け、空腹の兵の士気をあげようとしたか。あるいは兵の意気を見せて敵を威嚇しようとしたか。ともあれ、常の振る舞いではなかった。
短い儀式を終えると、王は馬上からクライスト将軍に告げた。
「予は忘れていた。敵にも誤算はある。まずは我が軍優位。蹴散らせ、クライスト」
そう命じると、自らは中軍に下がった。
先鋒の猛将は歓喜し、兵どもに砲撃開始と前進を命じて、会戦の火蓋を切った。
いわゆるロザリンド会戦はこの時点で始まる。しかし実際の戦いは、そのはるか以前、不可視の攻防をもって始まっていた。そこでは互いに得失があった。ゆえに実際に銃砲が火を吹いたこの段階では、双方が勝算に十分な自信を持たなかった。
南北に鼓笛が鳴る。重砲が火を吹く。オークとドワーフ、双方の歩兵が歩み始める。
ようやく霧は晴れた。しかし、そのかわり、マルリアンが焚かせた生木の白煙が盛んにあがっている。煙は南風に乗ってうっすらと垂れ込めた。そのために渓谷の視程は、戦況の先行きの暗示するように狭まった。
(次話「火の壁の向こう側」に続く)
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