作者註:前話及び今話は「オルクセン王国史〜ロザリンドの牙折り〜」第14話まで読了後推奨です。
渓谷はようやく夕暮れを迎えた。ツェーンジーク山脈に没しかけた太陽が、地面の流血を隠そうとしている。
この時代、夜間の追撃は組織的自滅に等しい。種族的には本来夜行性のオークですら、そうである。隊列を解かれた兵は昼間でも統制が難しい時代だ。夜ともなれば、路上を行軍するだけで落伍者が続出してしまう。
その夜が、敗残のオークたちにとって救いとなる闇が、間も無く訪れようとしている。
しかし、シュヴェーリンに喜ぶ余裕はない。荒い息を整えながら、一瞬たりとも油断できない。
彼と白エルフ将校の一騎討ちはまだ続いている。相手は、彼がこれまで戦った中で最強の戦士だった。剣技だけなら彼を遥かに凌ぐ。シュヴェーリンを利しているのは、オークとエルフを隔てる体格と体重の差だ。四肢の長さと一撃の重さで技量の不利を補い、勝負はほとんど互角だった。
斬撃を受け、刺突を逸らし、短銃の射撃を牽制して外し、まだ互いに手傷はない。シュヴェーリンが女に与えたサーベルは無惨なほどに湾曲して、戦いの激しさを証している。
「どうした。へたばったか」
荒い息で言った挑発に、敵手も肩で息をしつつ応じる。
「私の台詞だ。次こそは」
そう言って、敵は曲がったサーベルを捨てた。左手に短剣、右手に短銃を構え、不屈の闘志を示している。短剣を逆手に持ち替え、その柄に短銃を重ねるような独特な構えをとる。
シュヴェーリンは薄く笑った。相手の体力は限界に近いはずだ。サーベルを失い、決死の一撃を放つ準備に違いない。さすがだ。種族は違えど、立派な敵だ。最後に、これほどの快事に恵まれようとは。
ただの戦士に戻った彼は、全生涯を肯定して、無上の喜びとともに斧を構えた。そして言った。間違いがあってはいけない。
「おかしな短銃じゃな。まだ弾が入ってるのか」
「ふん、どうかな。乱戦でも使った。あと一発、残っていたか、どうか。どちらだと思う」
「面白い……! 撃ってみろ。しかと狙え」
さもなくば、お前を殺す。だから、やれ。
彼と敵は、そうと打ち合わせたかのように、共に半歩の距離をとった。決着をつけるべく、彼は斧を振りかぶり、敵は引き金を引いた。
渓谷の脇、急峻な岩陰に馳せる闇エルフの分隊があった。分散して敵を狙う闇エルフ猟兵部隊の中でも、もっとも敵に近い位置にいる。そのうち一人が小声で叫び、彼女の指揮官に報告する。
「あれを! 逃げ遅れた味方がいます。敵に囲まれて」
「助けられるか」
「敵と近すぎます。斉射では巻き添えに」
「見殺しにはできん。私がやる」
「はい、姉さま」
褐色肌の指揮官は自ら前に出て、部下の隣で膝撃ちの姿勢をとった。
彼女は敵に目を凝らした。取り残された味方を大勢のオークどもが包囲している。嬲り殺しにするつもりだろう。許せることではない。
狙い撃つべき敵の指揮官は、やはり
素早く狙いを定める。優れた猟師でもある彼女は、ただの一度も獲物を仕留め損なったことがない。だから、今回も。
味方が敵から僅かに離れた刹那に、彼女は引き金を引いた。
二つの銃声が戦場を貫いた。一つは短銃の。もう一つは遠くから、僅かに遅れて飛来した。
突進に移る寸前、シュヴェーリンは顔面に痛打を受けて倒れた。痛みと共に異音がした。撃たれたのだと分かった。それが敵将校の短銃か、それとも飛来した狙撃の一弾であったかは、分からない。
頬が焼けるような痛みと共に世界が揺らぐ。地に倒れた彼は、まだ痛みを感じている。ならば命がある。しかし足腰が立たない。
揺れる視界で敵の将校をみた。彼にとどめをさすべく短剣を手に突進してきた、その足を止めている。何を戸惑っている。止まるな。早くやれ。
そう言いたいが声がでない。視界とともに意識が揺らぎ、正常なのは耳だけだった。兵たちの叫ぶ声が聞こえた。
「大王が撃たれた!」
「斜面からだ」
「おのれ、卑怯な罠か!」
彼が勇士と認めた敵は、狼狽えた声で叫んでいる。
「ち、違う。私じゃない。私は知らない! こんな決着があるか! その首、再戦まで預けおくぞ。代わりに、この牙を貰っておく」
そう言うと敵は彼に背を向け、混乱するオーク兵たちを切り払って道を開いた。
その背が遠ざかる。
待て。待ってくれ。まだ終わってない。あと少しなんだ。
立ちあがろうするが、世界がぐにゃりと歪み、体が言うことを聞かない。また倒れた地面に血が広がる。頬が痛い。致命の弾丸は右の牙に当たって逸れたのだと気付いた。弾は牙を折り、頬に裂傷を与えただけだった。
ちゃんと当たれば死ねたものを。まだ戦わねばならない。戦って死ななければ、物語は終わらない。
まだ。まだ。しかし身体が動かない。まだ、まだ。
うわごとのように繰り返す彼の身体からマントが剥ぎ取られた。王の深紅のマントが。
それを奪った何者かが叫ぶ。
「見よや、者ども。王は撃たれてはおらん! 卑怯なエルフどもめ。お前たちの中に、私を殺せる者があるものか」
近衛連隊長の声だった。
「負傷者を後送せよ! 他の者は私に続け。オルクセン国王、ここにあり。者ども、突撃だ!」
その背が遠ざかる。
待て。行くな。行ってはだめだ。
もう声もでない。片眼に血が入り、歪んだ世界が赤い。
彼は手を伸ばそうとした。それは父の背中のように見えた。遠ざかる鎧の背。
――待って。行かないで。進んじゃ駄目だ。弩が狙ってるんだ。置いていかないで。
その背中は、彼から奪った深紅のマントを羽織った。それは王の背中になった。
――お待ちを。どうか。わしが代わりに行きます。我が王。
しかし背中は遠ざかり、小さくなっていく。赤い世界が暗くなる。もう何も見えない。父の背も。王の背も。
頼む。お願いだ。置いていかないでくれ!
心だけで叫び、彼は闇の中に落ちていった。
――されども諸兵、即ち見る。大王の起ちて之を制し「王は射られずして在り。いかでか我を討てる者のあらん。負傷せる者を後送せよ。残る兵ども、予に従ひ来たれ」と叫ぶを。将兵、勇躍して進み、今や胸壁は
之に到り、大王は瀕死の
一世の英雄アルブレヒト大王の戦没、其の様は斯くの如しと聞こゆ。天は
全てが終わった後、マルリアンは堡塁内に座り込んでいた。もう立ち上がることもできない。それほどの戦だった。
ことに、最後の戦いは壮絶だった。彼女が自ら銃兵を指揮し、突撃してきた敵の近衛を迎え撃ったのだ。そして防御射撃でオーク王を討ち取った。敵の動揺を見過ごさず、マルリアンは自ら剣を振りかざして陣前逆襲に転じ、残敵を掃討した。最後まで戦い抜き、包囲されても降伏を拒否した敵近衛の残兵を砲撃で始末したのが、決戦の終止符になった。
そこが彼女の気力体力の限界だった。成長途上で止まった少女の身体で、地獄のような悪戦を駆け回った結果である。情けない思いをしながら、イヴァメネルに手近な兵を与えて追撃に放った。
当然、後方に残る予備隊と騎兵を全て投入する総追撃を上申してある。間もなく、それらを率いてクーランディア大将がここを通るだろう。それまでには何とか恰好をつけなければ――と思ったところに、当の上官が顔を出した。たった一人で。
「閣下!?」
「マルリアン、ご苦労だった。不滅の名誉を得たな」
そう言って上官は彼女に手を差し出した。彼女はその手を掴んで立ち上がる。
「名誉は全て、死んだ兵たちのものです。この戦に名誉があるとするなら」
「兵たちも君も、本当によくやってくれた。“王殺し”のマルリアン将軍」
「………」
彼女は疲れ切った目で、上官を静かに見返した。クーランディアは彼女の疑問に答えた。
「総追撃はしない。イヴァメネルの追撃も、日没とともに打ち切らせる。後はダークエルフたちに任せる」
軍事的には、不合理極まりない。追撃戦こそ戦果拡張の機会だ。今ならば。
「敵を殲滅できます。文字通りに」
「既にアルブレヒト王を討った。これ以上の戦果はない。それより今は――」
そう言うとクーランディアは胸壁に足を乗せ、周囲を見渡した。流麗な眉をしかめつつ。
「負傷兵の回収が優先だ。出来る限り助けてやりたい。手はいくらあっても足りん。一名を担ぐのに最低二名は必要だからな」
そう言われて、マルリアンも納得した。鉛のような足を奮い立たせ、上官の横に並ぶ。
「確かに……凄まじい戦でした」
眼前の景色は地獄である。胸壁を目指して果てたオークの骸で地面が見えないほどだ。まだ手足を微かに動かしている者もある。数知れぬ呻き声と泣き声が渓谷に響いている。
立つこともできず、死を待つだけのオークたちは万を超えるだろう。明日の朝には、その悉くが死体になっているはずだ。
既に無数の鴉が飛来し、はみ出した内臓をあちこちでついばんでいる。
クーランディアは慨嘆した。
「戦いに負けるほど悲惨なことはない。しかし――」
目を転じれば、散在する堡塁内には白エルフとドワーフの死体が折り重なっている。擲弾にやられて無残に損壊した骸たち。突入してきたオークと相討ちになった姿も見える。
「――戦いの勝利は、その次に悲惨なものだな。国に帰ったら白銀樹に祈るとしよう。これがエルフィンドとオルクセンが交わす、最後の戦いになるように」
マルリアンは首肯した。背筋に寒さが蘇っている。幾万のオークたちを殺戮した陣地帯は彼女が考案したものだが、これほどの骸を重ねるまで敵が突進を止めないとは、想像を超えていた。
しかし、ただ祈ってもいられない。彼女はあくまで軍人。一つの戦が終われば、次に備えねばならない。
「帰国したら、今度こそ軍改革を断行せねばなりません。それに我々にも、オークたちのような何かが必要なのかも」
「何か、とは?」
「奴ら――いや、彼らが、これほど戦い抜けた精神の支えです。これからの戦には、そういうものこそ必要なのかもしれません」
「ふむ……そうかもしれん。すぐには思いつかないが、政府への報告書に入れるとしよう。君は負傷兵を率いて先に帰国し給え」
「了解ですが、閣下は?」
「予備隊とともに王都モーリアに残る。後始末が残っているのでな」
マルリアンは了解した。王国同士の、政治向きの何かだろうと思った。上官が顔を背けているのは、戦場の悲惨を見据えているのに違いない。
まったく、何という戦だ。この景色は戦争どころか、ほとんど虐殺だ――と、彼女は嘆くことができた。同じものを見つめて、彼女の上官は長く無言を保っていた。
マルリアンが負傷兵たちを励ましつつシルヴァン川を渡ったのは、五日後のことである。彼女は兵たちに十分な治療を与えることで頭がいっぱいだった。
クーランディアと予備隊の帰国までは、存外に長くかかった。
その後、彼女たちは軍中央に報告書を提出した。その主題は氏族徴兵制の実施、操典の改正など、軍改革の提案である。
しかし、完全勝利に気をよくした政軍首脳部は、その案の大半を無視した。現状の軍で勝利したのだから、何を変える必要があるだろうか? 昇進と引き換えに閑職に追いやられた彼女らに抗う方法はなかった。
ただ、彼女らがついでのように記しておいた思い付きだけが、政府内の不可思議な力学に弄ばれて化学反応を起こした。
十年余り後、エルフィンド政府は新たな官職を設ける。その職務は、古来の伝説や教えを収集整理して白エルフ族の信仰の本義を明らかにし、それによって国家の体制を明徴化することとされた。その官職は何度かの格上げを経て、
シュヴェーリンは、自分の体が揺れていることに気づいた。馬の背で、うつ伏せているのだ。途端、全身に痛みと疲労が戻ってくる。特に右頬は焼けるようだ。その痛みが目覚ましになり、彼は目を開けた。
周囲はもう暗かった。星の明かりも少ない。左右には黒い木々が並んでいる。彼を乗せた馬は、坂を登っているようだ。
動こうとして、自分が馬に括りつけられていることに気づいた。誰かを呼ぼうとするが、乾き切った喉からは声が出なかった。そのうち、身じろぎに気づいた誰かが声をあげた。懐かしい旧友の声を。
「シュヴェーリン。気づいたか!」
小さな明かりを持って駆け寄ってきたゼーベックの表情には、かつて見たことのない暗さがあった。
なんだ、お前。ただでさえ辛気臭いツラのくせに。昔からそうだ。輜重隊長だからって、文字ばかり読んでいるからだ。まあ、仕方ない。うちの部隊で字が読めるのは、こいつだけなんだから。ところで、俺はいったい、なんで寝てるのだったか――
意識が覚醒する。乾き切った喉で叫んだ。
「陛下は!?」
古い相棒に掴みかかろうとして態勢を崩し、無様に馬から落ちた。身体の縄を解いてくれる、相棒の手はしきりと震えていた。
背中が凍るような怖気を無視し、シュヴェーリンは尋ねた。
「ご無事だろうな」
古い友は何も答えない。シュヴェーリンはその肩に掴みかかった。
「何とか言え!」
そこまで叫んで喉の限界を迎え、しきりと咳き込んだ。ゼーベックが差し出した水筒を貪る。入っていた水はごく僅かだった。彼が息を落ち着かせる間に、古い友は告げた。
「すまぬ。山道を撤退中に、敵の射撃を受けた。恐ろしく正確な。お側についていたアンハルトが身を挺してお守りしたが……」
そう言って、ゼーベックは手明かりを掲げ、隣にいた一頭の馬を照らした。その背に何かが括りつけられ、布がかかっている。
シュヴェーリンは幽鬼のような足取りで近づき、布をそっとめくった。途端、己が消え去るような喪失感とともに、膝が崩れる。掴んだままでいた手が布を引き、王の屍を夜風にさらした。
ゼーベックは震える声で続けた。
「初弾は腕に。二弾目でアンハルトが死んだ。三弾目が陛下の背に当たった。ボウズが気を失うまで療術をかけたが、駄目だった……すまぬ」
背を撃たれた。誰知らぬ山中で、退却中に。その不名誉な情景がシュヴェーリンの目に浮かんだ。誇り高い王には、全く相応しくない。
しばしの沈黙の後に、彼はやっと尋ねた。
「陛下は、何か仰っていたか。最期に」
「ああ……まこと大王らしく。末期のお言葉には……『国家、軍隊、最前線へ』と」
「国家、軍隊……」
それこそ、大王の生涯の全てだった。その最後の望みは、自らの生き様を美々しいままに完結させること。史上の英雄達のように。かつて夜の野営地で、そして今日の本営で、大王は常にそう望んでいた。
その望みを奪い、不名誉な退却を強いた将軍は、声を震わせた。
「こんな、こんなことなら。お供すべきだった。最前線へ! 陛下、陛下……」
王屍に取りすがるシュヴェーリンに、ゼーベックはあらゆる感情の失せた声で言った。
「陛下は名誉のご最期を遂げられたのだ。近衛を率い、軍の先頭に立って、最期まで戦い抜かれた。このことは我らだけに」
シュヴェーリンは吠えた。彼にはもう何もない。名誉も。主君も。誓約も。
空っぽの心から溢れるのは慟哭だけだった。血のにじむ頬に涙が流れ落ち、それを渓谷の夜風がなぶる。
恨みとともに見上げた天では、分厚い雲が夜にうごめき、全ての月と星を隠している。世界は闇である。
その闇夜を利して、赤い目と褐色の肌をもつ狩人たちが斜面を駆けている。傷ついた獲物どもの後を追い、とどめをさすために。
オークたちは今、持てる全てを失おうとしている。
(第三部 落星編 了
最終部 降星編 「転落」に続く)
お気に入り登録、評価やご感想、読了ポストを頂けますと、とても励みになります。よろしくお願いします!