転落
少女は猛烈に不満だった。戦闘を禁じられているからだ。誰より優れた技術を持ちながら、彼女に与えられた任務は偵察だけだった。
全闇エルフが戦場に急行するよう命じられた時も、彼女だけは戦場から離れたところで待機を命じられた。
舐められている――と、そう確信した。指揮官たちは彼女の腕前を信じていないのだ。あいつら、ふざけやがって。
ごく若い、というより幼い思考では、他の理由は思い当たらなかった。
ならば、やるべきことは明白だ。腕前を見せつければいいのだ。誰にも文句が言えないほどの手柄を立てれば、みんな自分を見直すに違いない。
宿営場所に置き捨てられた予備の銃を担げるだけ担ぎ、持てるだけの弾薬を持つと、彼女は狩猟を開始した。彼女の得意は単独の忍び猟。それも待ち伏せだ。山中に敵が逃げてくると読んで、主要な山道を狙いやすい高所に陣取った。そしてひたすらに待った。
会戦当日の太陽が没して間もなく、オークの隊列が予想通りに山道を登ってきた。彼女は装填済みの銃を並べ、更に待った。もとが大物狙いの性分である。まして、分からず屋の年寄りどもに突き付けるには、大手柄でなければ。
彼女は目を凝らし、魔術探知の網を広げた。
そして見つけた。
オークの隊列の中に目立つ魔術反応が二つ固まっている。奴らは魔術を使えないが、魔種族だからその素養だけは持っている。高位の者ほど潜在的な術力が強い傾向がある。さては、大物が二体。
舌なめずりして反応の接近を待ち、やがて目視。思った通り、二体とも突起付兜を被っている。一体は大きく、一体は小さい。
彼女は素早く狙いを定め、引き金に指をかけたところで、なぜか敵に見つかったらしい。小さい方の獲物が彼女を直視したのだ。闇の中で相手から見えるはずはないが、しかし確かに目が合ったと思った。
動揺は指先に伝わり、初弾は獲物の胸ではなく腕に当たった。
舌打ちしつつ、二挺目の銃を構える。直ちに狙いを定めて射撃。小さい方の獲物の頭を射抜いた。
直ちに三挺目に持ち替え、大きい方を狙い撃つ。獲物は伏せようとしたらしいが、その前に背を射抜いてやった。
念のために四挺目を放とうとしたところで、敵兵からマスケットの射撃を受けた。闇夜の鉄砲でも、まぐれ当たりということはある。欲をかくのは失敗のもと。素早く退避した彼女は、やはり優れた狩人だった。
その途中で思い至る。そういえば、あの獲物の顔は。魔術反応が強かったはずだ。
安全な距離をとってから魔術通信を発し、仲間にそのことを報告する。
「こちらラエルノア。敵の将軍を二体、仕留めた。それでね、変なんだけど。一体はコボルトだったみたいなんだ。ねえ、何でだと思う?」
もう一体、図体が大きい方はただのオークに見えたから、彼女の興味を引かなかった。より大きな魔術反応を発していたのがオークの方だとは、彼女の想像の外にある。
通信を終え、もう一度魔術探知をしてみると、先ほど仕留めた獲物の辺りへ新しい反応が一つ近づいていくようだった。今度も大物だ。ちぇ、もう一体いたか。
そう悔しがりつつも、きっぱりと諦めた。深追いは禁物。それきり探知を打ち切り、次の狙撃点へ移動を開始する。
だから彼女は、その後に起こったことを何も知らない。
ロザリンド会戦で大敗を喫したオルクセン軍は撤退戦に移った。
自慢の素早い行進は、もはや不可能だった。肩を貸し、あるいは担いで運ぶべき負傷者が無数にいる。その上、かねて節食を重ね、空腹を抱えて激戦を戦ったオーク達は疲労の極にある。渓谷の街道を進んだならば追撃で皆殺しにされるのは明らかだった。
ラング大佐の連隊が白エルフの追撃部隊を必死に食い止めている間に、残存オルクセン軍は渓谷東のソンネンホッホ山脈へ逃げ込んだ。
間もなく日没を迎え、彼らは闇と天険に隠れられたと思った。
彼らの新たな地獄はこうして始まった。
「シュヴェーリンの様子は」
そうツィーテンが尋ねたのは、友としてだけでなく、軍人としての必要性からだ。誰がこの敗軍を率いていくのか、はっきりさせねばならない。
ゼーベックは騎将の沈着さに舌を巻く思いだ。大王が亡くなられたというのに、平気な顔――か、どうかは暗くて見えないが。声はいつも通りだ。そこに彼は捻くれた怒りを感じた。
「意識は戻ったが、駄目だ。指揮は取れない」
ゼーベックは言葉を濁した。ツィーテンも敢えて詳しく聞こうとはしなかった。
「そうか。では、指揮権は貴官に」
ゼーベックは頷かざるを得ない。
生存者中の最上級者はクライスト大将だが、片足を失う重傷だ。グスタフ少年の療術で辛うじて傷は塞がったものの、高熱を発して馬の背に運ばれている。次級者のシュヴェーリンが駄目となれば、さらに次級の彼が指揮官になるのは自明だった。
とにかく、方針を決めねばならない。
「このまま山中を北へ逃げる。そうするしかない」
ツィーテンは首肯した。その目には、すがるような必死さがあることに、彼はやっと気づいた。
誰であれ、平気でいられるはずがない。彼らは初めての大敗を喫した上、大王を失ったばかりなのだ。
「とにかく、我らは」
ゼーベックは手明かりをかざしつつ、辺りを見回した。それが危険な行為だと分かってはいるが、そうせずにはいられない。闇の圧力に押し潰される心地なのだ。
「……生きて帰らねば。オルクセンへ。一兵でも多くを連れて」
照らし出された山道は細い。うずくまる負傷兵の列は、闇の彼方にまで続いている。会戦から退却できた兵が何名いるのか、まだ正確には掴めていない。二万くらいではないか、と彼は思っている。遠征開始時には六万五千の兵力であったものが。
これから、どれほど死ぬか。
ゼーベックは、己の肩に乗る責任の凄まじさを思った。
敵は、当時の軍事的常識を完全に裏切った。敵猟兵は夜の山道を灯りなしで動き、狙撃すらできた。
攻撃は初日の深夜からあった。ほとんどのオーク兵は知らぬことだが、その最初の犠牲者は彼らの大王であった。
闇に怯えながら山道を懸命に歩き、最初の尾根を越えたところで、彼らは体力の限界に達した。種族の生理的欲求である午睡を取らずに戦い抜いた兵たちは山道に倒れ込み、もはや前進は不可能だった。
全軍中で唯一、統制を保っていた戦闘部隊であるツィーテン配下の兵たちが交代で不寝番となった。オーク兵は襲撃に怯えながらも、山道に臥せて眠るしかなかった。
深夜に至り、突然に喚声が響いたかと思うと、山刀を持った闇エルフたちが木々の間から殺到してきた。瞬時に幾名もが殺される。騎兵たちは騎銃とサーベルを振るって迎え撃とうとしたが、奇襲を果たした敵は瞬く間に消え去った。
そのようなことが隊列のあちこちであった。
襲撃で目を覚ました兵たちは死の恐怖に震え、しかしまたまどろみ、また悲鳴を聞いて目覚めた。そのような夜だった。
恐怖の夜が過ぎ、二日目の朝がきた。
一応は睡眠をとった兵たちは、耐え難い空腹を思い出した。固焼きビスケットを一、二枚ほど口にしただけで戦い、その後の逃避行に移ったのだ。ありつけるなら、一日にライ麦パン一斤と多量の肉を一名で食べるオークたちが、である。
配分の列に並び、やっと一日分の食料を受け取った下士官は言った。
「待ってくれ。ビスケットが両手に一すくいきりだぞ。本当にこれだけか」
「それしかない。今日はそれで持たせろ」
「信じられない。これが一日分か。一個中隊の!」
部隊に戻って平等に配分すると、一名あたり一欠片にしかならなかった。彼らはそれを直ちに貪った。
これほど食に事欠いたのは、敗北のせいである。
会戦前には二日分の食料が残っていた。それら食料の大半は既に兵達に配られており、遠征中の兵たちが常に肩掛けしている糧食袋に入っていた。それらは、敵堡塁への突撃の前に、同じく肩掛けの衣類袋、什器袋、背嚢とともに地面に置かれたままで、敗走時には回収できなかった。
攻撃に参加しなかった後軍の一部、騎兵隊、輜重隊の携行糧食を集め、それに輜重隊の馬車から運び出せた僅かな食料を加えて、生存者に再配分するしかなかった。
生を求め食を求め、オルクセン軍は山中を北上し、故国に戻ろうとした。
山を下りて渓谷に戻る、という考えは無い。山中ですら襲撃を受けるのだ。渓谷内には敵騎兵が待ち構えているに違いない。
実際には、常識に反して敵騎兵は追撃を行っていなかったのだが、オルクセン軍は全く常識的に、敵が戦果拡張の機会を捨てるはずがないと判断した。
オルクセン軍が――と言っても、その実体はほとんど崩壊している。
将校の大半が戦死しており、部隊などあって無きが如しである。生き残りの下士官が手近な者を部隊に組み入れ、まとめているに過ぎない。誰の指揮下にいるのか本人にも分からない兵が多数いる。
騎兵たちは本来の編成を保っているが、もはや騎兵とは言い難い。全員が徒歩になっている。撤退時に馬車を置き捨てねばならなかったから、騎兵の乗馬でもって負傷者や食料を運んでいるのだ。
その馬も一頭、また一頭と足を止めた。飼葉がないためである。それを力任せに引っ張り、あるいは押して歩かせる。それでも動かない馬は、松明を焚いて尻をあぶる。馬が驚いて動いたところを引っ張るのだ。
正午を迎える頃には、そのような手も効かなくなってきた。騎兵たちは泣く泣く愛馬を一頭、また一頭と屠った。他の兵たちは狂喜し、馬肉を生のまま貪った。自然、取り合いになった。
言い合いが殴り合いに発展しかけた時、山中に銃声が響いた。肉を分配していた下士官が悲鳴をあげた。見れば、片足を打ち抜かれている。
その場に居合わせていたツィーテンは直ちに叫んだ。
「撃ち方用意! 敵はあちら側だ!」
馬を失った騎兵たちは直ちに騎銃に弾を込め、銃声がしたと思われる方向へ射撃を開始した。まだ銃を持っていた歩兵もそれに倣う。敵の姿は見えない。しばらく射撃を続けて、応射がなくなれば撃退したものと思い込む他はなかった。
射撃中止を命じたツィーテンは、先ほど撃たれた下士官を見た。片足の膝から下がわずかに軍袴だけでつながり、ぶら下がっている。居合わせた兵たちが何名かで運ぼうとしたが、灌木に足がまとわりついて動きがとれない。
ツィーテンはサーベルをぬき、軍袴をわずかに残った皮膚とともに切断した。兵達に止血と、軍医を呼ぶように命じた。しかし混雑した山道を通って軍医が駆けつけるよりも早く、下士官はこと切れた。頼りの下士官の死に、彼に率いられていた兵たちは表情を一層暗くした。
空腹を抱えて歩む間に、そのような銃撃がしばしばあった。時には分隊規模と思われる斉射を受けもした。敵は道なき山中にひそみ、オーク達をじわじわと狩り立てていった。
「急げ、急げ。北の平野まで抜けるんだ」
ゼーベックとツィーテン、ほか生き残りの将校たちは、そう言って兵達を励ます。しかし敗軍の歩みは亀のように遅い。
小休止を挟みつつ日がな歩き通したが、数哩しか進めなかった。原因は体力の衰え、食と水の不足、そして何より負傷者の担送だった。
自力で歩ける兵達は、重傷者をにわか作りの担架に乗せ、あるいは交代で背負って歩いた。何とか仲間を生きて連れ帰ろうと、兵達は懸命に頑張った。戦友を見捨ててはならない。将校や下士官もそう命じ、励ました。
常勝を誇ったオルクセン軍は大敗の経験がない。当然、撤退戦は初めてである。何の経験も、心構えもなかった。そのことが悲劇を大きくした。
結果的に、担送されるものより担いでいる者たちの方が先に力を使い果たし、次々に倒れていった。
ようやく小休止というとき、担架を二名がかりで運んでいた者のうち一名が、やっと担架を降ろしてから「暑いなあ」と言った。彼は汗を拭こうとし、そのまま動かなくなった。仲間がよく見てみれば、もう死んでいた。担送の最中に倒れれば、負傷者を落としてしまう。だから休憩までは何とか頑張ったのだろうと、皆がそう思った。
運ばれていた負傷者は、自分を捨てていくよう仲間たちに哀願した。彼らはその願いを叶えた。
また別の連隊では、中隊長が悲壮な顔をして、死んだ連隊長の代わりに指揮をとっている大隊長に相談を持ち掛けた。
「連隊の負傷者を担送してきたのですが、四名のうち三名まではここにくる間に死んでしまいました。残り一名も昏睡して、そのうちに息を引き取るでしょう。担いできた兵たちは、もう自分が歩くのさえやっとです。このままでは一名の負傷者のために全部の兵隊が死んでしまいます。望みの無い者を置き去りにするか、慈悲の一撃を与えるか、迷っているのです」
そう訴える中隊長を、下士官と兵が後ろから眺めている。その暗い目線が事情を物語っていた。大隊長は、中隊長ではなく、後ろの下士官兵に向けて語り掛けた。
「お前たちも今の話を聞いたと思う。中隊長が何に苦しんでいるか分かるだろうな。中隊長は、まだ命がある負傷者にとどめをさして、お前たちを救おうというのだ。無論、そうなれば中隊長も生きてはいられない。必ずその場で自分の命を絶ってしまうだろう。お前たち、どう思うか。それでいいと思うか」
下士官や兵たちは何か言おうとしたが、言葉のかわりに眼から涙を溢れさせた。
いかに相手が重傷者でも、苦しみを止めてやるための慈悲の一撃ではなく、その裏に「自分が助かりたいため」という意識がある限り、彼らは簡単に仲間の命を奪う気にはなれなかったのだ。
この時点で、既にオルクセン軍の組織は殆ど破局に達していたが、個々の兵たちが尊厳を喪失するまでには、今少しの時間が必要だった。
結局その中隊は、連隊の他部隊から増援を得て、なお担送を続けた。大隊長が、その中隊が歩む辺りから一発の銃声を聞いたのは、退却二日目の日没後のことだった。
ゼーベックは遂に決断し、自力で歩けない兵を置き捨てるよう命令した。担送を許されたのはクライスト大将らの高官に限られた。
退却開始から二日目の深夜。まだ先は長かったが、ゼーベックはやむなく山中での露営を命じた。といって、天幕などはなく、木々の間に身体を横たえるしかない。
ゼーベックは自ら兵を指揮して穴を掘らせ、王の亡骸を埋めさせた。無論、兵達には身元を伏せている。
その作業が終わって間も無く、彼らは爆発音を聞いた。今度は敵襲ではあるまいと、誰もが思った。その音に聞き覚えがあったからだ。
案の定、すぐに報告がきた。「――中隊の――が擲弾で自爆しました」と。
現場にいくと、硝煙と肉の焦げる匂いが漂っている。件の擲弾兵の顔はもう土気色だった。両手はもぎれ飛び、両太ももの肉は裂け、腹が破れて大腸小腸が膝の間に露出している。着火した擲弾を腹部に抱くようにしたのだろうと分かった。
「負傷していたのか」
そう尋ねたゼーベックに、中隊の下士官が返した答えは否だった。彼は理解した。限界に達しつつあるのは身体だけではない。
まわりには多くの兵が立ち尽くし、茫然と亡骸を見守っている。ゼーベックをはじめ、将校や下士官たちは、それらの兵士を叱ったり用事を言いつけたりして、その場の異常な雰囲気を忘れさせようとした。
しかし、見せつけられた脱出路は強烈な印象を残した。その夜が明けるまでに渓谷に響いた数多の銃声は、敵襲との交戦ばかりではなかった。密かに姿を消し、谷に身を投げた者も多かった。
こうして二日目が終わった。
三日目の朝を迎え、オーク達はまた歩き始めた。会戦前から補給が滞っていたために、靴はみなボロボロに破れ、軍服もそれと見えぬほど汚れている。
怪我がなくとも、路傍に座り込んで動かなくなる者が続出した。体力が限界を越えてしまったのだ。座り込んですぐに事切れる者もいれば、しばらくは生きている者もいる。
時によると、そんな兵隊を下士官が励ましている。
「おい、立てよ。頑張るんだ。こんなところに寝ていると、今に敵が来るぞ」
手をかけ、しきりに立ち上がらせようとするが、倒れ込んだ兵隊は鉛のように思い。立ち上がらせようとする兵にも、もはや余力は無い。
「おい、しっかりしろ」
そう言いながら自分もよろめく。すると、倒れ込んだ兵士は、虚ろに目をあけて下士官を見上げ、そして言う。
「ほっといて下さい」
虫のように小さくしわがれた声である。わずかに残った水分が虚ろな目に光を添える。
「もう俺は死んでも構いません」
「ばかっ。つまらんことを言うな。さっさと歩くんだ」
思わず力を込めて、倒れた兵を小突く。下士官と兵というより、激戦を生き残った戦友として。
「立て、さあ。立つんだよ」
無理に立ち上がらせようとする。すると倒れた兵は、なけなしの気力で手足を動かしてみせる。介添えされて、よろよろと体を浮かしかけるが、すぐ倒れ込んでしまう。
「駄目です……とても駄目です……もう…」
大きく肩を喘がせながら、泣くような声で言う。その歯がカチカチと鳴る。持てる生命の、どうしようもない限界まできているのだ。
「いくら命令でも歩けません。下士官どのは、どうか生きて国へ帰ってください。帰られても、自分がこんな風に死んだとは、親達には知らせないでください。勇敢に戦って死んだと、そう言ってください」
下士官には返す言葉がなかった。彼に職責がなかったら、一緒に泣けもしただろう。しかし、彼はついに決断し、兵を置き捨てた。一度経験してしまえば、二度目、三度目を迷うことはなかった。
そのようなことが至るところであった。体力を使い果たした者から、次から次へ落伍した。もう誰も担いではいこうとはしない。
「元気で後からついてこいよ」
「向こうで待っているからな」
「絶対に死ぬなよ」
そう、出せる限りの声で励まして、兵たちは仲間を置いて先にゆく。
木にもたれ、あるいは座り込み、自分の傷に湧いたウジを無感動に眺めている負傷者の姿が、その横を通り過ぎる兵たちの心を突き刺した。
生きる。ただそれだけのことが難しい。空腹で目をかすませる兵たちは、行軍しながら、手の届くところから食べられそうな葉をつんだ。柔らかく、食べやすいのは笹の新芽だった。かたつむりが見つかると、仲間に見つからぬよう密かに貪った。
三日目の昼頃。まばらになった隊列のあちこちで、兵士が消えはじめた。
獣道を歩く兵隊は、木々の合間から声を聞くことがあった。
「おい、早くやっちまえ」
「まだ暖かいぞ。生きてるんじゃないか」
「早く切り取って、食うんだ。俺たちだけのもんだ」
あちこちの茂みで、そのようなことがあった。
ゼーベックは、絶対に一名で休憩しないよう命令を出した。できることはそれくらいだった。
食よりも更に深刻なのは水の欠乏だった。水場へと送り出した部隊は、ほとんどが敵の待ち伏せに遭った。兵達は草木の柔らかい枝を噛み締めて、ほんの僅かでも水分を取ろうとした。
落伍者はさらに増えた。
彼らは路傍で座り込み、動かなくなった。汗の一滴もかいていないが、触ると燃えるように暑かった。もう意識がない彼らは、水筒を両手で抱いたまま事切れた。
こうして死んでいく者でなくても、異常なばかりの眠気におそわれた。小休止で足をとめ、がたんと倒れ込むと、あっという間に眠り込んでしまうのだ。そうと意識する間もない。出発の号令ではっと自分に返るが、まだどこか眠り続けているように、ふらりと立って、ふらりと歩きはじめる。歩みは次第に朦朧となっていく。
笹の葉を部下と分け合いながら「俺が死んだら、俺の肉を食べて生きてくれ」と言う中隊長があった。それを聞く部下は無言でうなずく。感動はない。「ああ、そうか」というくらいのものである。そのような会話、そのような感覚が、この短い間に彼らの日常になっている。
三日目の午後の行軍で、落伍すべきものは皆落伍し、残った全員は一様に枯れ切った折れ枝のようであった。塩も欠乏し、行軍中に吹き上げる汗さえ塩辛さがなくなった。
彼らの行く先々には落伍兵の死体があり、徐々に腐敗を始めている。蠅がたかり、黒い血が山道に流れ出している。近づけば死臭が鼻をつく。
その惨状を見ても、彼らは哀れをもよおしはしない。まだ腐敗していない、食べられる死骸はないだろうかと、ただそればかり考えている。
死体はきまって靴を脱がされている。生きて帰りたい兵が自分の破れ靴を捨て、亡骸のそれを取って履いていくのである。路傍で休んでいる負傷兵が、まだ生きているのに靴を脱がされていることもある。そうなればもう、彼が生きて帰ることはできない。
そして彼らは三度目の日没を迎えた。
死すべき者が死に絶え、無数の仲間を置き捨て、それでも歩み続けてきた将兵は五千を割っている。
敗軍の生き残り達は、もう渓谷の北部に達している。もしも夜を徹して歩いたなら、安全な平地に辿り着けたであろう。しかし、彼らにもうその力はなく、座り込むしかない。
ゼーベックは、自身も空腹と渇きに苦しみながら、兵たちの様子を見回っている。誰も彼もが、もう死んだような目で座り込んでいる。
全滅。その言葉が彼の脳裏に去来する。
それを振り払いながら見回りを続けていると、見知った少年を見つけた。
座り込み、やはり死んだような目で虚空を見つめている。
「おい、しっかりしろ」
反応はない。ゼーベックは小さく溜息をついた。少年は、あれからずっとこの調子なのだ。指示に従って歩きはする。貴重な療術兵だから、優先して配分された僅かな水と食事もとる。
しかし、何をしていても、心ここにあらずといった様子である。まるでこの少年を見つけたばかりの頃、言葉を忘れていた時期のように黙っている。目に光がないだけ、もっと悪い。
無理もない。あんなことの後では――と思う。少年は彼と共に、大王の死を看取ったのだ。直後に術力を使い果たして気絶した。
そうまでしても王を救えなかったことが、少年の心に大きな傷を与えたのに違いない。ゼーベックは少年を哀れみ、彼をこんなことに巻き込んだ己を責めた。
その時のことを思い返す。軍が山道に逃げ込み、まだ僅かしか進まない時に、最初の銃声が響いた。三発目が王に致命の一撃を与えた、その後のことを。
「ボウズ、急げ! こっちじゃ!」
そう叫ぶゼーベックに引き摺られるようにして、グスタフという名の少年療術兵は負傷者の前に来た。その牡の胸から血が溢れている。銃弾が背中から貫通したらしい。
「このお方じゃ。早う、療術を」
言われるまでもなく準備に移る。怪我人の前に座り、心を研ぎ澄ます。全身に満ちる力のイメージを手に集中し、負傷者の胸にかざす。
――だめだ。傷が深いや。
かざした手は相手の生命力を感じる。みるみる弱っていく。それを補うべく、少年は力を注ぎ込むが、とても追いつかない。だから傷が塞がらず、流血は続く。
「ボウズ、何とか、何としても助けてくれ。陛下を!」
ゼーベックの言葉に驚き、彼は負傷者の顔を見た。見たところで、彼は王の顔など知らない。しかし、ただならぬ威厳があった。
――この方が。大王さま……!
事の次第を呑み込むと、少年は力のイメージを一変させた。自分自身の生命力を燃やし、力に変える。その全てを王に注ぎ込んだ。そうせねばならない。何としても。
深手の牡は小さく咳き込むように震えた。少しは効いたらしい。しかし、なお足りない。命は急速に失われていく。まだ生きていることが不思議なほどの手傷だった。
王は、かすかに言葉を発した。
「国家……軍隊……最前線へ……」
王は震える手を伸ばした。その手が中空を掴もうとしている。
「シュヴェーリン……許せ……シュヴェーリン、許せ……」
少年は思わずその手を取った。死にゆく王の最後の力が、彼の手を強く握り返した。
その瞬間、握られた手から力が彼に逆流をはじめた。王の身体が発光し、光の奔流が手を伝ってくるように少年には見えた。
――なんだ、なんだこれ!?
思わず振り払おうとするが、王の手は石のように固い。光の流入は止まらない。それはまた、膨大な熱でもあった。全身が燃えるように熱くなる。
突如、頭を締め上げる猛烈な痛みが襲い、彼は悲鳴をあげた。
周囲の空間が歪み、亀裂が入る。途端、地面が微塵に砕け散った。少年と大王は瞬く間に地の底へと落下した。
ああ、ああ。悲鳴は虚しく響き、少年は果てしない闇に包まれた。
(次話「異界転生」に続く)
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