闇の中を落下しながら、少年は自分が変化するのを知覚した。
少年の中に、流れ込んできた彼がいた。そうかと思うと、少年こそが彼の中に入り込んだようにも思えた。
さらに落下を続けながら、少年は彼の目線で世界を見た。それはこれまで少年が見てきたのと同じ世界であって、しかし別の色をしていた。それは灰色の世界だった。
彼にはその全ての意味が分かった。これまで考えたこともないことを彼は考え、見たとしても見えていなかったものを見た。世界は広く、奥行きがあり、流れがあって、彼はそれを正しく理解することができた。
彼は闇を抜け、その世界の一隅に降りた。
闇を抜けた瞬間、青年は殴られた。恐ろしく強い殴打に、踏ん張ることもできず、後ろに吹き飛んで倒れる。
痛い。誰だ、何てことするんだ。僕に。僕? 僕は誰だ。
「この性根曲がりめが。こんなものに現を抜かしおって」
彼と同じ名前をもつ父は、彼の宝物を、この世で最も美しいものたちを踏みつけた。そして拾い、暖炉の火に投げ入れた。横笛と、楽譜と、本を。その様を見て兄たちが笑った。
だから、オークは大嫌いだ。父も母も、兄たちも、他のオークも全て。何が武人だ、馬鹿らしい。腕力だけが自慢の乱暴者ばかり。だから僕も嫌いだ。醜いオークだから。
人間たちは違う。彼ら彼女らは美しい。人の命は短いが、千年を経ても朽ちない宝物を生み出す。詩を。音楽を。物語を。
だから学びたい。そうしたら僕にも、豚の顔で、肥えた腹で、短い足の僕にも、形のない美しさを持てるはずだ。青年はそう思った。
傅役を出し抜いて家を脱出し、アルビニーの大学に押しかけた。コボルトならともかく、オークは入学できないと分かったが、家から盗んできた金を積んで、図書館にだけは入れるようにしてもらった。
そこには数千年の知と美の営みがあった。その先端に、この醜く小さな自分が立っている。そう思う時、彼は初めて自分も美しいのだと思えた。
しかし、ある日の帰り道、街角で人間の悪漢に難癖をつけられた。裏路地に連れ込まれ、棒もて打たれ、蹴られた。
どうしてだ。僕が何をした。この野蛮人め。やめろ。やめてくれ。お願いします。どうか、殺さないで。
ついに地に這い、哀願する彼を、悪漢は嘲笑って言ったのだ。
「生意気に本なんて読みやがって。豚は所詮、豚なんだよ」
そう言って、古い詩集を汚れた靴で踏みつけた。
ぐしゃり。
その音が、光景が、真実を彼に教えた。万巻の書より雄弁で、古代の哲学より真理だった。そう。
やっぱり、この世は美しくない。人間も美しくない。オークの僕は特にそうだ。そのように生まれた。そんな世界に生まれた。
目には屈辱の涙が溢れた。しかし胸には火が灯る。暗い炎。それが一気に燃え盛る。全身を包み、魂までも焼き尽くす。自分を踏みつける全ての理不尽への怒りが。
許さない。僕は許さないぞ。ぶっ殺してやる。全部、壊してやる。
この世界は間違っている。
その時、幾世代もを眠っていた力が彼の中で目覚め、そして力が彼を目覚めさせた。誰に教わる必要もなかった。怒りが青年の掌に集まる。彼はそれを敵に向けて放った。
彼は敵の心に侵入し、それを内から砕いた。悪漢は自分の頭蓋が割れるまで頭を石壁に打ちつけ、そして死んだ。
その血が詩集と楽譜を濡らし、また彼に真実を教えた。
美しいものは弱い。弱ければ踏み躙られる。壊し、砕き、支配する力だけが、この世に通じる正義なのだ。他のものは塵だ。詩文も音楽もいらない。嘘まみれの物語もいらない。ならば自分は醜い力で貫かなければならない。その果てに生き様の美しさに辿り着くなら、醜い生まれも許される。
だから僕は力になろう。
痛みの中で決意したとき、青年は初めて世界に向かい合った。実用と力を求めて本を濫読し、懸命に思索を巡らした。やがて帰郷すると、目覚めた魔術で親と兄たちの心を支配し、本来なら得られるはずもない爵位を継承した。その後は貴族たちを同様に支配して、名ばかりの王位を。
そうして彼が身を投じた戦いの世界は、一面の灰色だった。世界は弓弦のように引き絞られ、捻じ曲がって縒り上げられた。野原に散らばって生えている一草、一木。村の家々、都市や城までもが収束して混ざり合い、一つの威力として纏まりつつあった。美しい宝石をはめた指輪も、穀倉に積まれた麦袋も、すっかり錆びた鋤や鍬もが、銃砲弾に姿を変えようとしていた。
そこではまた、時間が甚だしく圧搾せられた。数千年、あるいは数万年という時間と、そこに生きて死んだ無数の小さいものたちが、ただ一つの熱炉でもって溶解せられた。意義あるものと認められるには、小さな型に鋳込まれねばならなかった。それを国家という。
その世界では、生得の自由は認められなかった。学問も、芸術も、そして自由であろうとする生命の意志も、それ自身の独立を保つことはできなかった。
それだけに、その世界は纏まりがよかった。けれども、何処かしら無理に無理を重ねたような不自然さがあった。整っているのに糾紛錯雑した雰囲気が始終立ち込めていた。
纏まりは次第によくなり、全てがただ一つの威力に還元されるほど、糾紛と錯雑と感動が深まった。「国家のため」「祖国のため」と唱導する小さな音が聞こえ始める。そのかそけき音を耳にした順番に、全ての生きる者たちが走り始めた。生命も財産も、その威力の前に争うように捧げ始めた。
彼はその最初の運動に乗った。そこで奏でた音楽は、美と調和の笛ではなく、力と結集の戦太鼓だった。彼のリズムが威力に勢いを与えた。彼は荒ぶる威力を乗りこなし、四方を席巻した。地上に生きる者たちは、その運動の前に小さくなって震えた。しかしそうしていることが正しく生きる道であるかのように得々として、感動に打ち震えながら怯えていた。彼は己の正しさを確信し、世界の灰色を深めた。
すると世界のもう一角から、いや、あらゆるところから、同じような威力の産声が聞こえた。やがて威力たちは驀進し、鉢合わせることになるのだと分かった。その巨大な動きの始まりに位置するごくごく小さな波が、彼の威力なのだと分かった。
その予感に荒ぶる威力は、背に乗る彼をも喰らい尽くそうとした。彼はその不可避を理解し、受け入れようと思った。
しかし、彼の心の中のごく小さな一部は、まだ青年のままだった。殺し、殺され、圧し、圧される繰り返しの中で、その心は生への懊悩を未だに止めていなかった。栄光でも名誉でも満たせない渇きがあった。
疑問はますます深まった。果たして知恵と手を持つということは、ついに世界を醜くするだけで終わってしまうものなのか。
彼の中の無垢なる一部は、その別種の可能性に出会うことを願った。未だ美しいものを求めて、彼は更に深く落下した。
もう一つの闇を抜けた時、そこは貧しい村だった。彼の中の少年はその景色を知っていた。生きるという、それだけのことも叶わない故郷。親が仔を殺して食い、必死に生きる暮らし。
そんな中で彼の親は死んだ。傭兵を称するオークたちが村を襲い、父を殺して食糧を奪っていったのだ。村は滅び、母は飢えて死んだ。僕を食べなかったから死んだ。
かあさん。かあさん。
こんな目に遭うなら、遭わされるなら。僕は産まれてくるべきではなかったのだ。
だから帰ろう。産まれる前に。二度とは産まれないように。父も母も産まれる前の世界に。
そう願ったが故に、彼は石くれになり、さらに果てしなく落ちていった。石は赤熱し、光る尾を引く流星になった。
黄昏よりも暗い闇を抜けた先で、石くれの彼はもう一つの見知らぬ世界を見つけた。
そこには豊かさがあった。
国中のオークが総がかりでも食べ尽くせぬほどの食料が街に満ちていた。家の中に小さな穀倉庫があった。悩みは飢えでも渇きでもなく、楽しみと健康のために何を選んで食べるべきかだった。
そこには文化があった。生まれも育ちも関わりなく、あらゆる者たちが学び舎に通い、字を習い、数を覚え、絵画や音楽まで学ぶことができた。
そこには平和があった。大鷲よりも巨大な鉄の鳥が飛び、馬が引かぬ馬車の連なりが鉄の道を走り、街と街、国と国を結びつけた。目に見えぬ魔術が言葉を、絵画を、音楽を飛翔させ、無限の交歓を作り出した。
渇望の果てに辿り着いた夢の国で、彼は、その彼を見つけた。
その彼は、どうということもない平凡人として生きた。国家に仕え、さりとて命を差し出すことはなく、紙とペンと思考する機械を操作して働いた。生活に伴う苦しみはごく小さいもので、生き抜く実感の乏しさに茫然とするほどだった。その空白を無限の娯楽が慰めた。
そんな時間潰しのような生涯を過ごし、その彼は死んだ。木の葉が落ちるように、何気ない生と死だった。世界は美しく、彼はその一部だった。だから何を望むでもなく、寂しさだけを抱いて消えてゆくことができた。
かつてアルブレヒトと呼ばれた心は、その平凡な生涯を早送りに体験し、大いなる歓喜に包まれた。このような世界、そのような生が在り得るという事実が、生涯の渇望を満たしてくれた。心はようやく安らいだ。
その心は、もう自分の名前を忘れ、何を求めていたのかも忘れ果てた。流星は空中で砕け、光り輝く塵と化した。塵は微風に吹かれて散らばり、その見知らぬ大地に降り注いだ。やがて光は消えた。
しかし塵は、その大地に浸透した。かつて命であったもの、即ち世界に抗い、変革しようとする意志の力もまた。
こうして少年は目覚めた。
世界は暗かった。風の音が、ここは山なのだと教えた。
見回せば、数知れぬ兵が座り込んでいる。もう立つ気力もないようだ。しかし目だけはぎらぎらと、仲間が先に死なないかと待っている。死ねばその血をすすり、その肉を喰らえるからだ。
それは戦争と飢渇だった。彼の滅びた村と何一つ変わるところがなかった。先ほどまで夢見た美しい世界は、やはりただの夢だった。彼の父と母を殺した世界は、何一つ変わっていない。
「......でも、今の世界が全部じゃない」
そうではない世界の可能性があることを、彼はもう知っている。
だから確信した。
この世界は間違っている。
地獄のただなかで、少年はひとり、夜の空を見上げた。未だ降りず天にある全ての星が告げた。もう誰のものだったか思い出せない声で。狂おしい怒りとともに。
惨めに屈するな。理不尽に抗え。許せないものがあるのなら、その決意を、意志を叩きつけるのだ。
そして、そうやって。
命ある限り、世界を変えていかなければならないのだ。
胸には熱。手には力があった。自分の運命を見つけた時、少年はもう戦士だった。そして一歩を踏み出す足、その震えが止まらない。
しかし恐れを抱いて、なお進むのが勇気なのだと、彼に教えた者がいる。だから二歩目も踏み出せた。世界に抗い立ち向かうには、その者の助けが必要だ。彼はずっと以前からそう知っていた。
その者を求めて、彼は闇の世界を駆け出した。
(次話「新たなる道標」へ続く)