空はうっすらと白み始めている。大敗から四度目の朝日が、黒い木々の間にオーク兵たちを浮かび上がらせる。
兵たちは横たわるか、座り込むかだ。頬はこけ、顔は土気色になっている。起きているのか寝ているのか、あるいは死んでいるのかも分からない。
シュヴェーリンはその中に埋没している。ここ数日、彼は口を利いていない。何の情動も湧かないのだ。目の前で落伍し、死んでいく兵たちの姿を見ても。
このような時こそ将は立ち上がり、余裕と勇気を見せて兵を鼓舞せねばならないと、教令はそう教えている。
しかし、それを書いた偉大な王はもういない。ならば一切は無駄だ。自分で自分に始末をつける気力すらなく、彼は流れに身を委ねて、終わりが来るのを待つばかりだった。
それなのに――まだ終わりを認めない同輩がいる。シュヴェーリンはそちらに目をやった。
「今朝は、まだ配食ができそうだ。パン一切れずつは」
そう言うゼーベックの頬には骨が浮き出て、目も落ち窪んで、幽鬼のような有り様だった。帳面をめくる指が微かに震えている。彼が言葉を向ける相手はシュヴェーリンではない。
ツィーテンが枯れ声で答えた。
「一個中隊ごとに?」
「いや、小隊ごとにだ」
一名ずつに分ければ、オークの小指の先ほどしか残らないだろう。それですら当初の計算よりはずっと改善している。とっくに枯渇しているはずだった食料がまだ僅かにある。この三日間で残兵の半数以上が失われた結果である。
ツィーテンは頷き、より深刻なことを聞いた。
「水は」
「……ない。昨夜は全部、失敗だった。」
オーク達は夜ごとに小部隊を谷川に向かわせ、水汲みを試みている。稀に手鍋の二、三杯ほどの水を持ち帰れれば、大成功といえた。ほとんどは失敗し、半死半生のていで逃げてくるか、全滅して誰も帰ってこないかだ。
ツィーテンは疲れ切った目で兵たちを見回しながら言った。
「もう、パンを呑み込める奴の方が少ない……」
昨夜から、誰もがそのような有様だった。口の中に一滴の水分もない。一かけらの堅パンを何とか飲み下そうとして果たせず、耐え兼ねて吐き出してみれば、粉のようになっていた。
ツィーテンは意を決したように言った。
「今度は私が決死隊を率いる。何とか水を」
「無茶をいうな。お前は騎兵じゃないか」
騎兵。そのゼーベックの言葉に、騎将はひび割れた唇を歪ませた。馬などは、無論、一頭も残っていない。
「こんな有様に至ったのは、みな我ら重臣の無能非才による。兵どもに、死ぬ前に清水の一口でも含ませてやりたい。そんなこともしてやれんで何が将軍だ」
ゼーベックは枯れ声を荒げた。
「馬鹿ッ。死に急ぐな。そんなのは責任の取り方じゃないぞ」
「せめて兵どものために死んでやらねば、申し訳がたたん」
「き、貴様は俺が、兵站の俺が、なんでまだ死なずにいるか、その気持ちがまるで分からんのか」
そこまで言って、ゼーベックはしきりと咳き込んだ。それが収まってから、息も絶え絶えに言った。
「……いま、軍の秩序を保ってるのはお前の兵たちだ。お前が死んだら終わりだ」
「このままでは、どうせ――」
言辞の激しさ、内容の深刻さに関わらず、二名とも座り込んだままの口論だった。シュヴェーリンはそれを無感動に聞いている。
水、という声は兵たちにも聞こえたようだ。あちこちで呟く声がする。
「み、水……」
「冷たい水が飲みたいな……」
「雨でも……降ればいいのに……」
その言葉に誘われて、シュヴェーリンが見上げた空は美しかった。その美しさが彼らを殺そうとしている。わずかに白んだ空には雲一つもない。今日も快晴になるだろう。
――無理もない。やはり、そうなんだ。
シュヴェーリンは人族の宗教、聖星教の伝承を思った。エルフにも似たような言い伝えがあるらしい。それらが伝えるところでは、かつてこの世に星が降った時、その光は生き物に区別をつけたという。美しい者と醜い者を。祝福される者と、そうではない者を。
生まれながらに醜く、罪を抱えた者たちが住む土地に、星は呪いをかけた。悪しき者たちが増え過ぎぬように。その土地が今のオルクセンだというのだ。
だからこの世界の天地すら、祝福されざる彼らを憎み、蔑んでいるに違いない。土地は痩せるままに。恵みの雨は降らせない。醜い者どもが飢え苦しんで死ぬようにと、それがこの世界の定めなのだ。
誰にも抗えない運命。大王すらも、その前に敗れて死んだ。ならば王に従った者たちが死に絶えるのも、動かぬ定めに違いない。彼らの命も、戦いも、死も、全ては無意味だった。
そう思い、目を瞑った彼のそばに、足音が近づいてきた。
薄目を開けてみれば、彼が字を習った少年療術兵である。息を切らせている。
少年の名はグスタフ。グスタフ・ファルケンハイン。もとは彼の部隊に拾われた孤児。そのせいで、この地獄に連れて来られた。
――結局、こいつも助けてやれなかったか。
シュヴェーリンは、ずっと昔に失った若い傭兵の面影を想った。あの若者もまた、彼に拾われ、彼を父のように慕い、そして虚しく死んでいった。グスタフも遠からず、そうなるだろう。
――親父というなら、駄目な親父だ。
抗い、努力し、必死に戦った生涯で、彼は結局、何も守ることができなかった。
しかし、彼を見つめる少年の眼には、彼が失って久しい光があった。やっと息を整えて、少年は彼に言った。
「おじちゃん、立ってよ」
無感動に見つめ返す彼に向け、少年は懸命に続けた。
「朝だよ、目を覚まして」
シュヴェーリンは何日かぶりの声を発した。
「ボウズ……もう、いかん」
途端、少年の目が怒りに燃えた。
「前に教えてくれたよ。諦めるのは、いつだって最悪の選択なんだろう」
そう言いながら、少年の足元もふらついている。脱水による痙攣をおこしかけているのだと分かった。足の震えに耐え兼ね、そのまま膝をついてしまった。
――仕方ない。そう決まっているんじゃ。膝を屈して、受け入れるしかないじゃないか。
あたりに座り込む兵の誰かが、また同じことを呟いた。
「……雨でも降ればいいのに」
少年は弾かれたように顔をあげ、地面を手で押して立ち上がろうとした。
「おじちゃん、おじちゃん。おいらが雨を降らしてくれるよう、天にお願いしてみるよ」
少年の目に浮かぶ光は勇気だった。あるいは、希望という。しかし、それは愚かさの別称に違いない。
少年の幼さを哀れみ、彼は幾日かぶりに微笑んだ。布を巻いた右の頬が痛む。布には血が黒く固まっている。牙はもう折れてしまったのだ。
彼も少年も、間もなく死ぬ。ならば、最後に祈るのは悪くない。オークを守ってくれる神などいないが、少年の気休めにはなるかもしれない。
「なんじゃ……ボウズ。ふ、ふふ。やってみせてくれ」
しかし彼の言葉を、少年は真摯に受け止めたようだった。将軍から偉大な命令を授かった、そういう顔をしている。
地面を押す腕の力で何とか立ち上がり、少年は空を見つめながらつぶやいた。
「……自分にできることを……きっと自分と仲間を助ける……」
少年は両手を組み、そして唱えた。オルク語ではない。シュヴェーリンが耳にしたことがある、どの言語にもまるで似つかない響きだった。
オテントサン オテントサン
ヒトアメ フラシテオクレ
オテントサン オテントサン
ヒトアメ フラシテオクレ
その謎めいた音が繰り返すうち、空が低く唸るような音がした。
瞬間、突風が吹き始めた。轟々と音を立て、四方から彼らのもとへ集まってくる。木々が傾くほどに揺れる。風と枝葉が擦れる音で山中は騒然となった。
白んでいた空が急速に暗くなった。どこからか黒い雲があらわれ、彼らの頭上を覆い隠そうしている。
動く気力もなかった兵たちが異常を感じ、次々に空を見上げはじめた。
突風の轟音の中に、狼の遠吠えがあちこちから聞こえる。何度も繰り返している。
大気が急速に湿り気を帯びはじめた。
少年は謎の言葉を繰り返す。
オテントサン オテントサン
クルシムモノニ メグミヲオクレ
オテントサン オテントサン
アワレナモノニ タスケヲオクレ
その時、巨大な雷鳴が鳴り響いた。
その音に大気が震えた直後、一粒の雨が天から下り、山肌を叩いた。すぐに、もう一粒。思い違いを疑い、唖然と見上げ続ける兵達の上に、突如の雨が降り注いだ。
「み、水だ。雨だ!」
「ひゃ、冷てえ!」
「雨だ、雨だ!」
兵たちは口で、手で、軍帽や手鍋で雨水を受けて啜った。彼らは歓喜の声をあげ、久方ぶりの涙を流した。
「なんじゃ、なんじゃ……これは……」
雨に打たれながら、シュヴェーリンはつぶやいた。異常だった。あまりにも異常な気象の変化だった。
「魔術? まさか」
少年は貴重な療術兵だが、それ以外の術は使えない。いや、そもそも天気を操る魔術など、伝説の中にも出てこない。しかし先ほどまでの流れからは、少年が呪文で雨を呼んだようにしか思えない。
「う、嘘だ……そんな馬鹿な」
雨は更に強まり、雷鳴がもう一度響いた。それは懐かしい声に聞こえた。
<では、先ほど見たものは何だ?>
シュヴェーリンは声がした方を、黒々とした叢雲を見上げた。ますます大きくなる黒い雲に、彼は亡き大王の姿を見た。
<何の不思議がある>
それは数十年の昔。傭兵隊長シュヴェーリンが大王に囚われた時に聞いた言葉だった。あの時も雨だった。雷が鳴っていた。
<太古より魔力、衆に優れる者が王となる。幼な仔も知っておる>
彼は手で雨を受け、口に含ませる。冷たい。
少年は組んでいた両手を解いた。その場に倒れ込みそうになるが、何とか踏みとどまる。
消耗し尽くした顔に微笑を浮かべ、少年は彼に言った。
「さあ、今だよ、おじちゃん。雨の間は、エルフだって鉄砲は撃てないでしょう。だから今のうちだよ」
ますます強まる風音がシュヴェーリンをせき立てる。
<道を示してやろう。お前の命に、意味を与えてやろう>
雨粒が頬をなぶり、痛みを思い返させた。彼の牙は折れてしまった。片方の牙は。
<お前は今日、死んだ。そして、また生まれた>
濡れた頬が熱い。水分が全身に染み渡る。消え失せた力が戻ってくる。
「なにしてるの、おじちゃん。さあ、立ち上がって」
<これからは予のために生きよ>
轟々と鳴る風が、身体に打ちつける雨が、彼に教えている。まだ死ぬには早いと。為すべきことがあると、そう命じている。
「命令を出してください、みんなに。おじちゃん、いや――」
<汝、主君を信じ、その命令に服すべし>
「シュヴェーリン将軍!」
<わが部将、シュヴェーリン>
「いま、立って、進むんだ!」
<立つがいい>
再びの天雷が響く。雷光が照らしたのは少年の相貌だった。あの声が彼に命じる。
<そして私の――>
少年は足をふらつかせた。
シュヴェーリンは弾かれたように立ち上がり、少年を支えた。その身体は小さく、軽かった。疲労の極にあるようだ。誰かが側で支えてやらねば、倒れてしまうに違いない。
彼は新たな運命を悟った。
少年をしっかりと支えたまま、彼は周囲を見回した。兵たちは泣きながら雨水をすすっている。ゼーベックとツィーテンが彼を見ている。同輩たちの表情にも力が戻っている。
希望は失われていなかった。否。新たな希望がここにある。
シュヴェーリンは大喝した。
「ゆくぞ、皆! ここで死ぬのは易く、生きることは難い。生きて帰らねばならん。大王陛下が築かれたオルクセンじゃ。我らが守らんでどうする。さあ、立ち上がれ。この雨をすすり、わしの後に続け!」
誰もが歓声とともに立ち上がった。
シュヴェーリンは傍らの少年に言った。
「ボウズ、お前はわしとともに来よ。共に先頭を歩くんじゃ。どうかそうしてくれ。わしはお前をこそ、頼みとして歩もう」
―――だから、導いておくれ。わしらの行くべき道を。
シュヴェーリンは軍を率いて更に一日を歩み、オルクセン領へ帰還。残兵を再編すると、国境の守りを固くした。
しばらく後、滅亡したドワルシュタインから、オルクセン領内のドワーフ都市を目指して大量のドワーフが逃げてきた時は、恩讐を越えて収容した。ドワーフたちは持ち出してきた食料をオークたちと分け合い、苦しみを共にした。
星欧列国はオルクセンへの輸出関税を緩めた。アルブレヒト大王亡き今、オルクセンは脅威ではなく、そのうち自壊すると思われた。そのため人間諸国は、オークたちから今のうちに財貨を絞りとる方を選んだのだ。アルブレヒト王の壮絶な死にざまが一種の伝説となり、同情を呼んだということもある。
コボルト商人達も態度を一変させ、何処からまとまった量の食料を運んできて大利を博した。彼らは自分たちがオルクセンの安定に依存していたことを今になって自覚し、王国の崩壊を恐れたのだった。
それでも貧苦の夏は訪れたが、同類相食むの飢餓は辛うじて避けられた。オーク達は飼料用の燕麦やカブラを薄がゆにして一夏を凌いだ。
そして不自然なほど適量の雨に恵まれて、その秋の収穫は例年になく豊かだった。
シュヴェーリンはゼーベック、ツィーテンと結託し、グスタフ少年を第三代オルクセン国王に推戴した。平民の少年を擁立するのにクライストは強く反発したが、戦傷で軍務から退いた彼の立場は弱く、三将軍の結束には及ばなかった。
新国王グスタフは、自身を擁立した三将軍を揃って陸軍大将に昇任させた。その筆頭とされたのはシュヴェーリンである。彼とツィーテンは国境の防衛を分担し、ゼーベックは首都にあって少年王を後見した。
こうして元山賊はオルクセン軍の筆頭大将となり、国家の柱石として少年王を守護した。
――そして百二十年の時が流れた。
(降星編 了
エピローグへ続く)
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