山賊大将シュヴェーリン   作:芝三十郎

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オルクセン二次創作。書籍版5巻まで読了後推奨。 軍の急速な近代化に取り残されたシュヴェーリン大佐。戦争の訪れと旧友の知らせに、彼は変化を決意する。


中年の危機

 合わせれば千を超える兵たちが隊列を組んでいる。真新しい兵舎の窓から練兵場を見下ろすシュヴェーリンには、規則正しく動くいくつもの黒い長四角に見える。

 

 一つ一つの長四角を動かしているのは中隊長たちだ。いずれも年若いオークで、貴族の出である。以前ならばシュヴェーリンの連隊になど来る家柄ではない。しかし最近の若い将校の配属は軍の命令で決まる。将校は領主の家来ではなく、王に仕える身。若い将校たちは先ごろ設置されたオルクセン陸軍幼年学校でそのように叩き込まれているから、不満を覚えることはない。高級貴族の口利き人事がなくなったわけではないが、もはや例外に留まっている。

 

「中隊、前へー、進めっ! 一、二、一、二…」

 

 隊長の掛け声にあわせ、兵士たちは不自然なほど膝を上げて歩く。その全員の歩幅は全く同じだ。だから動いても列が乱れない。

 

「中隊、右方へー、まわれっ!」

 

 最右翼の伍長を軸にして、ぐるりと旋回する。その間も列と歩調はまったく乱れない。直角に向きをかえたところで動きはとまり、その場での足踏みに移る。中隊長の号令で再び進み始める。

 

 兵の歩き方といい、将校の号令といい、全てが規格化されていた。

 

 中隊はやがて所定の位置につき、攻撃準備にかかる。

 

「中隊、止まれっ。打ち方用意!……構えっ!」

 

 兵たちは一斉に射撃姿勢をとり、正面真っすぐに構える。一列目は膝撃ち、残る二列は立ち撃ちの三列射撃だ。狙う先には別のマスケット中隊がいる。

 

「撃てっ!」

 

 撃鉄が一斉に落ち、白煙とともに雷鳴のような銃声があがる。しかし弾は一発も出ない。

 

「中隊、突撃にぃぃ、進めぇ!」

 

 中隊長がサーベルを振りかざすと、兵たちは怒号とともに駆けだす。わずか一個中隊の銃剣突撃であっても、地が揺るぎ、天が震えるような錯覚を見る者に与えずにはおかない。

 

 現代の銃剣は、柄についた輪に銃口を差し込むリング式である。銃口を塞がないため、着剣したままでも射撃できる。しかし、いま、その突き出された筒先に銃剣はついていない。兵たちの剣帯で鞘に入っている。

 

 横隊突撃が地面に引かれた線まで達すると、中隊長は部隊を停止させた。

 

「止まれぇ。整列っ...回れぇ、右!」

 

 突撃を終えた兵たちは後ろに向きなおる。そちらには次に突撃してくる中隊がいる。その的役であり、また敵に突撃される迫力に慣れるという意味もある。

 

 訓練のやり方すら効率よく規格化されているのだ。他にも宿営地の作り方、天幕の立て方まで、あらゆることが決まっている。それらは「将校に与える教令」や「宿営時の教令」などに記載されており、若手将校たちは陸軍幼年学校でそれらを丸暗記するほど読み込んでいる。

 

 シュヴェーリンの隣に侍る副連隊長は満足げに言った。

 

「何とか錬成は間に合いそうです。開進の手際がよくなってきました」

 

 錬成。開進。新しい言葉が増えていた。もとはアルビニー語らしかった。若い頃にアルビニー共和国で諸学を学んだと噂される王が持ち込んだ語彙だ。それら外来の軍事用語は、今ではオーク将校の常識になっている。

 

 シュヴェーリンは頷いたが、どこか釈然としない。彼の表情に何かを察したのか、副連隊長は尋ねた。

 

「何か不足がありましたか」

 

「うむ、うん。よくやってくれとると思うんじゃが…」

 

 シュヴェーリンはためらいがちに言った。

 

「突撃前の射撃、ちと近すぎやせんか? あれなら、そのまま突っ込んだ方がよさそうなもんじゃが」

 

「突撃距離ですか。敵前から二十歩を守っているはずですが」

 

「二十? なんだって、そんなに寄るんじゃ」

 

「斉射の制圧効果を最大に発揮するためです」

 

 制圧。これも新しい言葉だった。

 

「ええと、敵をがつんと怖じさせて、列を崩すってことじゃな。それにしても、最近のマスケットなら百歩くらいの射程はあるんじゃねえか」

 

「防御射撃なら百歩ですが、突撃前は二十歩となっております」

 

「何でじゃ?」

 

「それは――王の教令でそのように定まっておりますから」

 

「歩兵に与える教令」のことを言っていた。マスケット銃兵と、いまや少なくなった長槍兵の戦闘法を示した冊子である。老練のゴルツ大将の意見を多分に取り入れたと言われているが、執筆は王自身が行ったものだ。教令の一言一句は王の勅命と思うべし、と通達されている。

 

「そ、そうか。ならば、ええんじゃ。何事も陛下のお言葉の通りにせんとな」

 

 すまんかったのと謝って、シュヴェーリンは肩身が狭い。彼は教令の要点を度々教えてもらっている。しかし自分で読むことができないでは、多数の教令を頭に入れるのは難しい。

 

 シュヴェーリンは笑みを作った。気まずさを誤魔化そうとしている。

 

「よくやってくれておるの。ラング中佐」

 

 コンラート・ラング副連隊長は、ゼーベックが本営に異動して間も無く送り込まれてきた後任だ。彼が来てからというもの、連隊は何もかもうまくまわっている。出自といい、能力といい、彼を選んだ王の配慮は実に行き届いていた。

 

 ラングはシュヴェーリンと似たような小地主の騎士の家の出だ。彼ほど古風な家ではなかったらしく、読み書きができる。幼年学校出ではないが、あらゆる教令に精通している。補給の手配りに関してゼーベックほど際立った才覚はないが、連隊の運営に不足はない。むしろ、前任者よりも能力の均整がとれた将校だといえた。それでいて性格は武人肌。全く好ましい牡だった。

 

「ありがとうございます。連隊長どの」

 

 歴戦の勇者である上官を、ラングが心から敬していることが伝わってきた。しかしシュヴェーリンの居心地はよくない。

 

 こいつ、どうかすると、俺より連隊長に向いとるのじゃないか――と、そう思わずにいられないのだ。彼にできるのは部下を認め、仕事を任せ、成果を褒めることばかりだ。

 

 堂々としていればいい。俺は指揮官、それも大佐だ。他の貴族の大佐たちのように鷹揚に振舞えば、皆に敬してもらえるのだ。偉い貴族ほど王都での社交が忙しいから、連隊の実務を副連隊長に任せるのは普通だ。何も恥ずかしくない。俺も彼らに倣っておけばいい。そうすれば武勲がある分、押し出しはきく。現にラングも各隊長たちも、俺を立ててくれるじゃないか。俺はうまくやれている。

 

「村々にも不満はなさそうじゃ。ここに来たばかりの時は文句ばっかりじゃったが」

 

「地元からの徴兵が増えて、徴兵区(カントン)の揉め事は減っておりますから」

 

「そりゃあ、そうか。みんな顔馴染みじゃもんな」

 

 徴兵の安定、不満の減少。それを共に実現したのが徴兵区(カントン)制度の実施だった。いまや各連隊は一つずつ割り当てられた徴兵区(カントン)に駐屯することになった。もう連隊同士で徴兵を取り合わなくていい。貴族の連隊長ばかりが得をすることもなくなった。

 

 徴兵区(カントン)制は徴兵を受ける村の側も利点があった。村々にとって荒くれ者の兵隊に駐屯されるのは嫌なものだ。しかし駐屯する連隊が地縁血縁のある地元出身ばかりになれば、当然、揉め事は減る。村の暴れ者が軍隊で鍛えられて大人しくなったりもする。その上、兵士は政府から貰った給金を使うから、村はぐっと潤う。

 

 古くから民を農奴としてきた貴族たちは当然に反発した。しかし彼ら自身がたいてい軍の高官である。徴兵のためという理屈を立てられれば、現に大国に勝利した王の権威に盾つくのは難しかった。

 

 また王は「いつポルスカが復讐戦を挑んでくるか分からぬ。次はロヴァルナも敵側じゃ。それまでに大軍を用意できねば、どうなると思うか」と、隣国の脅威を利用した。その上で、ドワーフ鉱山都市やコボルト商業都市の帰属で潤った財政を使い、代償の家禄を与えて貴族たちを懐柔。ついに農奴の解放と領主権の差出しを認めさせた。伴って徴税権も取り上げている。

 

 今や貴族たちは領地を捨て、王都に集って社交や公務に勤しみ、家禄という名の給料をもらう公務員となった。

 

 外国との戦争で勝利して権威と金を稼ぎ、それらをもって国内の不満を押さえつけ、改革を進める。内政の近代化にあたっても、オルクセンで先立つものは戦争だった。

 

 こうして徴兵区(カントン)制が成って十年近くが経った今、連隊は地域社会の中心になった。兵営暮らしを通じて徴兵区(カントン)内に村を越えた顔馴染みが増えたから、地域のいざこざまで減った。村人たちは徴兵を一種の通過儀礼だと見做すようになっている。

 

「それでは、私は戻ります」

 

「うん、よろしく頼む。お前に任せときゃ、安心じゃ」

 

 副連隊長は誇らしげな笑顔で礼を言うと、敬礼を交わして退室した。

 

 扉が閉まるとシュヴェーリンは息をついた。

 

 分かっている。副連隊長は忙しい。戦時のみの臨時編成である旅団以上と違い、常設部隊である連隊には日頃から業務が山積みだ。この時期のオルクセン軍には後代のような参謀というものが存在しないから、何もかも指揮官が自らやるのだ。

 

 副連隊長は、王都から数限りなく届く書類に目を通し、必要な命令を書き、連隊長の名で大隊長以下に達する。また、部下たちからの報告書を読み、まとめて連隊の報告文書にして、やはりシュヴェーリンの名で王都に送る。そんな事務仕事の合間に部隊を見て回り、鍛え、物資を調達し、兵舎と駐屯地を維持し、村々との付き合いにも目を配る。そんな毎日である。

 

 一方で、文字が読めないシュヴェーリンにできることは少ない。せいぜい兵や若い将校の様子を見回ったり、村々の長老との付き合いに顔を出したりである。貴族社会の社交に無縁なシュヴェーリンは徴兵区(カントン)に居続けだから、領主の代わりに地域の名士に収まっている。

 

 殺風景な連隊長室にある姿見に顔を向けた。着こなした制服が美々しい。映った顔は偉ものに相応しく口ひげを蓄えている。まだ初老とはいえないが、壮年期も後半らしい重々しさがある。いかにも立派な大佐殿だ。

 

――なあ、大したものじゃないか。貧乏騎士のせがれにしちゃあ、十分以上だ。よくここまできたと、そう思ってもらえる。

 

 父上にも。

 

 そう思わずにいられないほど、鏡の中の顔には父の面影があった。あと何十年かして髭がすっかり白くなれば、きっとそっくりになるだろう。

 

――何もかも陛下のおかげだ。今の俺があるのは。

 

 だから王様に相応しい、立派な大佐ぶりであらねば。うん、今度は立派な革ブーツを探そうか。閲兵の時に映えるように。サーベルの拵えも、将軍たち並みに宝石なんかつけて…。

 

「連隊長、失礼いたします」

 

 扉の向こうの声はラング中佐のものだ。先ほど出て行ったばかりではないか。

 

「おう、入れ。どうした」

 

「失礼します。王都から急使です。こちらに――」

 

 副連隊長の隣には金毛のコボルトがいた。

 

「アンハルト中佐!」

 

「シュヴェーリン大佐どの、ご無沙汰をしております」

 

 やあやあと両名を室内に招き入れる。相変わらず侍従武官として忙しくしているアンハルトと会うのはポルスカ継承戦争以来だった。

 

 ゼーベックが連隊から召し上げられる契機を作ったのがアンハルトだと既に察してはいたが、シュヴェーリンに恨む気持ちはない。それよりも同じ戦地を共にした戦友意識の方が強かった。

 

「して、急な知らせとは。侍従武官どのが自ら来られるとは、ただ事とも思われんが」

 

 一つ頷いて、コボルトは端的に伝えた。

 

「皇帝が崩御しました」

 

 シュヴェーリンは身震いがした。隣で副連隊長が息を呑んだのが分かる。誰もがこの時を待っていたのだ。侍従武官は続けた。

 

「開戦は間近です。全連隊は遠征準備を開始せよとの王命でございます」

 

「いよいよじゃな」

 

 老皇帝が没すれば後継者を巡って戦争になると、それが当然の観測だった。

 

 皇帝は娘しかいないが、帝国の継承法は女帝の即位を認めていない。それでも特例で皇女に後を襲わせようと、皇帝は諸侯の合意を求めた。

 

 それに敢然と反対したのが帝国南西部を領する大有力者、アスカニア公だ。帝家の遠縁にあたる彼は、皇帝の面前で自らの帝位継承権を主張して憚らなかった。

 

 かつて毒キノコに当たっても命を拾った壮健な皇帝も病には勝てず、後継者にライバルを残したまま崩御した。今、帝国継承戦争は間近にせまっている。

 

「それで、どっちに付くんじゃ」

 

「それはまだ何とも。王の御心一つです。グロワールの介入もあり得ますから、情勢次第かと」

 

 来る戦争は、内戦では済みそうにない。西の隣国グロワール王国がアスカニア公の継承権を支持している。弱い方を後押しして、仇敵帝国を弱らせようという魂胆なのだ。

 

 オルクセン王は皇帝に仕える辺境伯でもある。皇女と公のどちらかを正統と認めれば、もう一方の討伐に兵をあげる名分になる。つまりは武力を高く売りつける機会だ。大きな見返りを提示した方につくが、参戦は必ず行うと内示して、王は軍の備えを急速に進めさせていた。

 

「あいわかった。早速とりかかろう」

 

 シュヴェーリンは久方ぶりの高揚を感じた。いよいよ戦争。彼の出番だ。副連隊長や他の将校たち、兵たちにも、己の意義を見せつけることができる。先頭に立って斧を振るう時だ。そうすれば字が読めなくても、付き合いと称して飲んでばかりでも、やっぱり連隊長は大したものだと、みんな見直すに違いない。

 

「よろしくお願いいたします。それと、これをお預かりしております。ゼーベック閣下からです」

 

 侍従武官は肩掛けの雑嚢から小包みを取り出し、両手で差し出した。

 

「ほう、これはかたじけない。あいつめ、侍従武官どのに私用を頼みおるとは」

 

 そう言いつつ、彼は相好を崩した。懐かしい相棒の名を聞いて、それだけで嬉しくなっている。小包みを解きながら使者に尋ねた。

 

「何じゃろな。あいつは息災でおるんじゃろか。確か、新しくできた、ええと」

 

「兵站総監部ですな」

 

「そうそう、それよ。ヘイタン…部じゃ」

 

 それも聞きなれぬ言葉、聞きなれぬ部署であった。これまでほぼ連隊ごとに手配りしていた物資の調達と輸送を一括に行う新組織である。

 

「総監部こそ此度の大遠征の要です。八万もの兵が動くわけですから」

 

 徴兵区(カントン)制のためにオルクセン軍は以前の倍以上に拡大している。皇帝家かアスカニア公国か、あるいは隣する大国とまで戦うからには、大軍が必須だ。増えた兵を飢えさせぬために王が新設したのが兵站総監部。ゼーベックは総監の下僚をしているはずである。

 

「ゼーベック閣下は総監の副官としてご活躍で――」

 

 この時代、副官という職は後代の参謀長に近い。

 

「先ごろ、少将に昇進されました」

 

「なんじゃと⁉」

 

 少将。閣下と付けられるはずである。

 

「そ、そうか。偉くなったのう。大したもんじゃ…。ゼーベック将軍か」

 

<アロイジウス・シュヴェーリンが将軍にならんで、他の誰がなるんだ>

 

 そう言った古い相棒の方が、さっさと彼を追い越したのだという。シュヴェーリンと同じ下級騎士の出自では、初めての将軍ではなかろうか。彼は呆然としつつ小包をほどいた。

 

 一冊の薄い冊子があらわれた。装丁に書名がある。何だか見覚えがある綴りのような気がしたが、彼に読み取れたのは「教令」という見慣れた一語だけだった。彼は恥を忍んで尋ねた。

 

「これは、その、教令だとは思うんじゃが。何と書いてあるんじゃろうか」

 

「『将軍に与える教令』です。この程、陛下が新たに作られました。各将官に配布されております」

 

「将官に?」

 

「こちらはゼーベック閣下が手ずから筆写されたものです」

 

 シュヴェーリンは声をあげそうになった。見覚えがあるのは語彙ではなく筆跡だった。相棒の文字なら、読めないまでも何十年も目にしてきた。見直せば、文字から聞きなれた声がした。

 

<お前ほど戦の呼吸が分かっとる者はおらん。早う、偉くなって貰わねば困る>

 

 侍従武官は何ごとかを得心すると、雑嚢から小さなものを彼に取り出した。

 

「次に、これをお渡しするようにと」

 

 コボルトのツヤリとした手の上に丸い銀色が載っている。

 

「これは…? 帝国銀貨(ターラー)じゃないか」

 

 シュヴェーリンが手に取ってみれば、それは確かに銀貨だった。しかし違和感がある。それに気づき、彼は目を見張った。象る顔が違うのだ。横顔は幾代か前の皇帝のそれではない。有力な邦国の領主でもない。なんとなれば、人族に牙が生えているはずがない。

 

 コボルトは誇らしげに語った。

 

「オルクセン銀貨(ターラー)といいます。ドワーフの鉱山都市を服属させた成果です。ついに我らオルクセンの貨幣ができたのです! まだ少しだけですが、いずれは人族の銀貨を使うことはなくなります」

 

 シュヴェーリンは彼の王の偉大さと、その夢の確かさに身震いした。牙をもつオークが王となり、いま初めて貨幣になった。戴く王の尊顔を刻んだ貨幣は、独り立つ国家の象徴である。

 

 途方もない夢が実現している。この世が始まって初めて、虐げられたオークが国を持とうとしている。王は彼への宣言を形にして示したのだ。

 

 ついに―――本当に。我らの国家。まことの王…。我が王。

 

 よく見ようと光にかざすと、銀貨は白く煌めいた。象られた横顔に光がさす。彼は王の声を聞いた。

 

<そして私の剣になるのだ>

 

 練兵場から射撃音がする。その音があの雷鳴に聞こえた。そして父の声がした。

 

<そう言うたであろう。それでも武門の仔か>

 

 光も、雷も。王も、そして父も。そのすべてが彼を叱咤している。怒鳴りつけ、殴り飛ばしている。父と王は声を揃えた。

 

<――覚めたか>

 

 ああ、俺は何をしていた。もうすっかり錆びている。磨くのを怠った。父上に怒鳴られて当然だ。相棒だって先に出世するはずだ。しかしその相棒は、それでも俺を買ってくれている。

 

「ア、アンハルトどの。ご用件は以上ですな。お構いもできず、まことに申し訳ないが」

 

 コボルトは微笑している。シュヴェーリンは続けた。

 

「ラング、出陣準備じゃ。休暇中の兵どもをみんな呼び返せ。物資はあるだけ輜重隊に積め」

 

 副連隊長は了解を示し、細かい指示を乞おうとした。しかしシュヴェーリンはそれを制した。

 

「後はお前の裁量でいい。俺よりお前の判断が確かだ。すまんが、よろしく頼む。俺は、俺は行くところがある」

 

 彼は駆け出し、練兵場に降りた。その端へと真っすぐ向かう。何事かと慌てて敬礼する将兵へ走りながら応じ、辿り着いたのは日除の小天幕だ。

 

「ボウズ、ボウズはおるか」

 

 そこは訓練の時でも常に立てられる療兵天幕である。療兵とは治療を専門にする新設兵科だ。

 

「どうしたの、おじちゃん」

 

 求める仔オーク、グスタフ少年はそこにいた。幼い言葉遣いは一向に直っていないが、もう無縁無宿の孤児ではない。療術が使えることが分かるや、シュヴェーリンは少年の年齢にも構わず、直ちに兵士に取り立てた。療兵科の新設と同時に転科させてある。

 

 いまでは連隊所属の療兵で唯一の療術使いとして頼りにされる存在だ。とはいえ戦闘が起こるまでは怪我人は少ないから、わりあい暇なはずだった。そんな時に少年は何かしら読んでいるという噂だった。兵営で手に入る本といえば、兵書か教令しかない。

 

「ボウズ。お、俺に字を教えろ」

 

 少年は、きょとん、とした。頭の働きは悪い方ではないが、連隊長が怒鳴り込んできて当惑しているようだった。シュヴェーリンは構わず、頼みこんだ。彼の連隊で字が読めるのは、少年を除けば将校たちだけだ。しかし仕事で多忙な将校たちに付き合わせるわけにはいかない。

 

 シュヴェーリンは勢い、その場に膝をついた。もう恥も躊躇いもなかった。

 

「いや、どうか、教えてくれ。読み書きができるようになりたいんじゃ。頼む。この通り」

 

 ようやく状況を理解したのか、少年は慌てた。

 

「い、いいよ。おじちゃん。わかったよ」

 

 シュヴェーリンは目を輝かせ、真新しい教令を少年に渡した。

 

「これ、これだ。これを読みたい。書けるようにも」

 

 珍しい書物に少年は楽し気な顔になった。根っから文字が好きらしいのだ。ぱらぱらとめくってみる。それで字が読みこなせるようだから、大したものだった。

 

「ううん、ずいぶん難しいみたいだけど…」

 

「いい、これがいい。俺はこれを全部覚えたい。ボウズ、どうか、俺を助けてくれ」

 

 滑稽なほどの懇願の姿勢、その中の真摯さだけを受け止めて、少年は素直な笑みを返した。

 

「わかったよ、おじちゃん。そいじゃ、この本を読んだり、字を真似して書いたりしようか。一緒に頑張ろう。途中で諦めちゃ、駄目だよ?」

 

 シュヴェーリンは何度も頷いた。少年から教令を受けとる。将軍になるための道しるべだ。握る手には力がこもり、胸で熱が高まった。

 

 もう鷹揚なふりで誤魔化さない。貴族の真似なんて何になる。錆びっぱなしの自分に甘んじるのは御免だ。とっくに古びた鎧でも、根気よく磨いたら、少しくらいは光るだろう。二度とは怠るものか。もしかしたら、いくらやっても無駄で、後は朽ちていくだけだとしても、それでも磨かねばならないのだ。

 

 王のために。そして自分が王に仕える騎士――いや、軍人であるために。

 

 彼は自分を取り戻していた。

 

 

 

(次話「帝国を喰らう者」へ続く)




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