本というのは高価なものだ。熟練の職人の給与であっても、およそ三日分。もしそのような人物が未だ編纂中の「科学及び技術の分類体系」を全て買おうとするのであれば、数年間の生活費以外の額が必要になるだろう。
一方で、金というのは不均衡なものだ。それだけの額が、裕福な階層にとっては娘の入学先への寄付に相当する。
「……良い本を選んでいますね」
テレナが言うと、フュルシーアは笑顔を見せた。彼女が学院に持ち込んだいくつかの木箱の中には、丁寧に梱包された本が詰まっていた。事前に学院ともやり取りしていたのであろう、その内容は学院の図書室の蔵書とはずらされていた。
「そういうものなの?」
「専門的な物が多いわね。『土壌の理論と実践』に『現代文芸技巧の分析』、ああでも『夫人のための物理教程』あたりは読みやすいと思う。それにしても統合王国語以外のものもあるのね」
ついてきていたシェプルスキアに答えながら、テレナは本を箱から出していった。これから図書室に預けるにあたって、すでにある一覧表と同じものが揃っているかの確認作業である。テレナは率先してその役割を担った。
「そうですよ、やっぱり故郷の言葉の物語を読むことができるって大切ですから」
「フュルシーア嬢にも、そういうのがあるの?」
本と触れ合うテレナを横目にシェプルスキアが聞く。
「やっぱりお気に入りの小説とかがありますね、昔頼んで買ってもらった新大陸への冒険小説は今でも大切にしています。統合王国の女流作家であったり、東方への旅行記も好きです」
「旅行ものが好きなの?」
「ああいえ、他のものも好きですよ。でもこういうのってあまりうまく話すのって難しくて」
「まあ、あたしだってテレナがどんな本好きかわからないしな……」
「ねえフュルシーア嬢、このあたりって小説?」
「はいテレナ先輩、見てみますね」
テレナに呼ばれたフュルシーアは、小ぶりな本が並ぶ箱を覗き込んだ。
「ええ、そうですね。最近の宮廷ものとか色々、あと極東方を舞台にしたやつも」
「そのあたりは読んだことないわね」
「結構面白いですよ?皇子が学園で二人の女性に迫られるけど結局婚約を破棄するやつとか。まあ後半の説教じみた部分は飛ばしましたが」
フュルシーアがそう言うと、テレナとシェプルスキアの間に不穏な空気が流れた。
「……なにか、あったんですか?」
「どの本?」
テレナの怒気の混じった声に、少し怯えたようにしながらフュルシーアは一冊の本を差し出した。
「ごめん、借りさせてもらう。場合によっては買わせてもらう」
「えっでも学院にもう話が」
「それぐらいは上から修正させる。ところで、これいつの本?」
「本当に最近ですよ、私だって出たてのものを学院に来る直前に読んだわけですから」
「なるほどね」
少しだけ開き癖のある、しかし新しい本をテレナの指は素早くめくっていく。
「……かなりの速さですね」
「テレナが本気を出すとすごいんだよ」
物語の筋は比較的わかりやすかった。極東方の国に、貴族の子女を集めた学園がある。そこに入った天子の息子である皇子が主役である。
「……風刺、で許されますかねこれ」
ただの物語である、と主張できるほどにその作品はきちんと物語として面白かった。しかし、学院で学んできた身からすれば、この物語の中の「学園」について心当たりがとてもあるのだ。
「なるほど、聖職者ではなく知識人としてやっているのか、これなら聖座も扱いにくい」
軽妙な筆致で綴られる三人の関係は、下手すればテレナの知る以上に実際の婚約破棄事件の三人を上手く説明していた。説明しすぎてしまっていた。
「ところで、何があったんですか?テレナ先輩のことを詳しく知るわけではありませんが、ああいうことをするような方には思えないのですが」
「去年さ、ちょっと面倒なことがあって」
そう言って、シェプルスキアは学院の噂の範囲で婚約破棄事件を説明していった。今となっては噂話の旬も終わり、主要人物の一人が既に学院を巣立った以上、この話は終わったものとなっているはずだった。
テレナは序盤の山場、婚約破棄の場面に差し掛かっていた。家のしがらみか、あるいは新しい愛か。家を裏切るか、己の心を信ずるか。このあたりの書き方に、テレナはある種のわざとらしさを感じた。
それはある程度思想分野の文章を読んでいないとわからないものだっただろう。娯楽小説としてこの本を手に取った読者には感じられないものかもしれない。しかし、その語り口はどことなくテレナの知る、ある面倒な人物を思い起こさせるものだった。
あのお人好しにして、人間の中の善性というやつを信じているおめでたい男。自分はその相手のその善性とやらを利用して騙すようなことを平気でやってのけるくせに、それを善い行いだと考えているやつ。そしてその善さには、歴史に裏打ちされた根拠がないのだった。
テレナの家庭教師であったウィルトールという男と、物語の細かいところに見られる思考や行動の癖は、どことなく似ていた。
「まずいわね、これは……」
そう呟いて、テレナは現状を整理していた。明確に学院の中の事情を知った人物が、第三王子を主人公とするようにして、かつ角灯主義の中でも過激な意見を交えて物語を作っている。そして、この流通を止める手段はなさそうだった。
いや、不可能ではないだろう。聖座の審問官であれば、聖典ですら明確な根拠を持って禁書とすることができるほどの論理を構築するだろう。統合王国においても風紀を乱すという曖昧な理由で規制することはできるはずだ。
ただ、それをこの本に対して行えばいくつかの問題が出る。まず、根拠が薄弱であること。単なる貴族の恋愛を描き、そして少年の成長を語った作品でしかない。後半で述べられそうな思想も、あくまで極東方における演出と言われればそれまでだ。
そして、さらにこれを規制すること自体が本の価値を高める可能性もある。もし婚約破棄事件とこの本が結びつけられて語られれば、統合王国と聖座は不都合な真実を隠すために本を禁止しているという筋書きができてしまう。
「ねえフュルシーア嬢、この本ってどれぐらい広まっているの?」
「詳しくは知りませんけど、それなりの量が刷られたらしいですよ。いくつかの印刷所が担当したって聞きましたし」
複数の印刷所の利用は、しばしばその出版元を隠すために用いられる。少なくとも、ただの小説であれば一つの場所で印刷したほうが楽なことが多いことをテレナは知っていた。