「……調子が悪いわね」
テレナはシェプルスキアに起こされて、呟いた。
「大丈夫?」
「ここ最近の無理が祟っているようね」
考えすぎ、というのもあるのだろう。人間の心というものには限界がある。そしてテレナは、決して強靭というわけでもなかった。
あらゆることを考慮に入れなければならないという強迫は、寝ている間にも彼女を蝕む。文字の中に身体を突き抜かれるような、ずっと落ちていくような夢の断片が少しずつ消えていくのを感じながら、テレナはふらつく足で立ちあがった。
「……必要なら、あたしに付き合って銃の練習とかする?」
「いや、手を抜いて授業を受けるわよ。それぐらいならこの身体でもどうにかなる」
冷えてきたのも原因だろうな、とテレナは考えていた。涼しさではなく寒さを感じるような日では、どうしても肉体に負荷がかかる。
着る服を一枚増やすべきかと悩みつつ、テレナは普通の学生として学院の中を歩いていく。
そういう視点で見れば、学院はなんとも退屈なところだ。毎日の授業をぼんやりとこなしていれば、それらしい知識となんとかなるだけの腕がつく。それは悪いことではない。
大抵の人は、自分の立場について深く考えなくてもうまく生きることができる。定期的に聖職者の話を聞いて、苦しく思う時は友達に頼れば、かなりどうにかなってしまうのだ。
ただ、法学の授業を受けている間にもテレナの思考はどうしても先へ先へと進んでしまう。どのようにして民主制下では法律を制定するのだろう、とかそういうことを。
議会がそれを定めるとして、しかしそこに送られる代議士は法の専門家とは限らない。統合王国で解散されて久しい司法議会という制度はなかなか有用だった。国王とは微妙に距離を持ちながら、それでいて統合王国と命運を共にしている以上無茶はできない。
このような均衡を作るためには、どうしても独立した権力が必要だ。生まれながらの貴族とは言わなくとも、学院派のような専門家たちによるものが。では、それを彼らは受け入れることができるだろうか。
「……難しいわね」
テレナの家庭教師であったウィルトールを通して、彼女はそれなりに市民の魂というものを感じているつもりだった。彼らは傲慢で、自らを被害者だと思っている。全てを手にするだけの権利が自分にあると思い、尊厳を踏みにじられた憎しみを以て世界をひっくり返そうとしている。
その恨みは、テレナも理解しないわけではない。統合王国を含めて北側世界における貴族の果たす役割はかなり権威的と言ってよかった。彼らが実務を担うことは多かったが、それ以上の平民がより多様な、そして膨大な仕事をしていた。
だからこそ、今から貴族制度を崩すことは難しくないのだ。王の名のもとに、その特権を剥奪するだけでいい。もし王室が追い詰められれば、生存のためにそのようなことが成されるだろう。歴史上、似たような話はなかったわけではない。
一度は反乱者と見なされた集団が、悪政の打倒者として放免された。もちろん、それが悪であると言えば今の貴族の家系のほとんどがかつては地方の野盗に起源を持つことになってしまう。統合王国の王室すら、一応は
そんな余計なことを考えていれば、すぐに授業は進んでいく。要領のいいテレナは話半分に聞いていた内容を頭の中でもう一度繰り返し、あとで調べておくべき言葉を紙に書いておく程度で他の学生と同じぐらいの場所までたどり着くことができる。
もちろん、それは彼女が怠けていることを意味しない。良い肉体を持つ人物は様々な競技をこなせるが、それでもなお一つの競技に打ち込んだ人物を超えることはまず難しい。そしてもしその人物が日頃の鍛錬を怠って享楽に身を浸せば、数月も経たずして怠惰で堕落した存在が生まれるだろう。
「テレナ先輩、ここでしたか」
気がつくと部屋には教授も学生もいなくなっていて、隣にはフュルシーアがいた。
「……なに?」
「いえ、お疲れのようでしたので」
「そうね、色々と面倒なことを考えていた」
「経典でも引いて、迷えるものに助言でもできればいいのですが」
「面白いわね」
テレナが言うと、フュルシーアは歌うように口を開いた。南方の共通語、経語だ。伸ばした母音が韻を作り、語尾の活用が調子を整える。知る単語がなくとも、その音は聞いていて悪くないものだった。
「それはあなたを見捨てることはなし。苦しみと忍耐の果てに、恩寵とより多くのものを得る。貧しき者、親なき者、そして捕虜に対し、哀れみと施しをしない不信心なものは、同じような責め苦を受ける」
「翻訳はいいことなの?」
「いかなる言葉でも、正しいことは語られるともあります」
「なるほどね」
テレナはフュルシーアが自分を勇気づけようとしているのか、あるいは弱みに入り込もうとしているのかをあまり気にしていなかった。どちらであっても、結局はテレナの回復が彼女の利益になるのだろう。
「シェプルスキア先輩からテレナ先輩の調子が悪いと聞きました」
「……お節介なやつね」
「悪いことではないと思います。少なくとも、シェプルスキアという人物はそのようにして信頼を学院内で勝ち取っているのですから」
それが先輩と呼ぶ相手に向ける客観的分析か、とテレナは考えた。学院内の噂を分析し、誰が誰をどのように信頼しているかを確かめ、そして集団の集団として学院を捉える。それはテレナがやり方を知ってはいるが苦手な分野だった。
テアリアであれば、あるいは可能だったかもしれない。彼女はそう言った人間関係の機微には詳しい。かつてファーネスタ閥を崩すような噂を流した時も、彼女は適切な形で友達の友達として話を伝えていった。
しかし、それをこなすとなれば目を閉じて
ウィルトールには、それができた。村でしばらく過ごし、すぐに自分と連れてきている子供を信頼する人物から取り入り、最終的には頑固な派閥に対して名誉ある譲歩を促した。その時に彼が話した相手は、数百人はいるだろう。それはテレナにはまだできないことであったし、相当の道具と補助の人間をつけても苦労するだろうことは間違いないものだった。