角灯の下で乙女らは学ぶ   作:小沼高希

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盤面に交じる言葉は惑う 6

図書室に、経語が響いていた。いつもはテレナが音読するはずの時間を、今はフュルシーアがかわりにやっている。

 

テレナは対訳版の経典を見ながら、音の響きを追いかけていた。数日かけて苦労して覚えてた経語文字は、北側世界の文字とは異なるものだった。そしてなお面倒なことに、経語文字は様々な種類があるのであった。

 

もちろん、北側世界の文字にも書き方がある。しかし活版印刷に組み込まれる中で、ある程度の基本的な様式というのは完成していた。一方で経語文字はそもそも活版印刷に向いていなかった。文字が語頭・語中・語尾で変化すること、母音を示す文字が追加されること、そして多くの美的筆記技術が構築されていることだった。

 

経典を書き写すことは、ある種の芸術作品を作ることであった。その傾向は北側世界の聖典よりも強く、活版印刷による経語文字の印刷は南方街を中心に行われていた。すなわち、ウォルセラルが教主国や大君侯国以上の経語文字印刷地域となっていたのである。

 

そこで編み出されたのが、速記体と呼ばれる文字を基本に活版印刷向けに再編成したもの。細い筆でも素早く書けるように調整された書体は、調整をすれば印刷された文字としても読みやすかったのだ。

 

それはそれとして、文字に慣れていないテレナにとっては音を聞きながら追いつくのが限界だった。軽く目を閉じているシェプルスキアは最低限の響きはわかるらしいという。

 

「……と、いうわけで第三巻でした。二章と三章に当たりますね」

 

「ええと章が全部で百ちょっと、巻が三十になるように調整されているんだよね」

 

「はいその通りです、シェプルスキア先輩」

 

フュルシーアはそう言って笑顔を浮かべた。さすがに慣れない音読のために喉が辛くなってくる時期ではあったが、シェプルスキアから飴をもらっている以上弱音も吐けなかった。

 

「知らなかったけど、賭博って帰伏教でも色々言われているのね」

 

テレナが言うとフュルシーアは頷く。

 

「人間は善と悪を選べるということです。善だけを取ることができないのが辛いところですが」

 

平然と述べるフュルシーアであったが、南方街の資金源として賭博と金貸しは少なくない割合を持っていた。賭けのために困った人間に親切なふりをして金を貸し、そのまま永遠に搾り取ってもよし、あるいは南方街が手に入れないものを代わりに手に入れるための道具にしてもよし。もちろん、裏に流すこともできた。

 

フュルシーアは経典をしっかりと読んでいる。一流の学者というほどではないが、ちょっとした説話ができるぐらいの知識はあった。それで言えば明らかに南方街に関わって碌でもないことをしている自分は悪業に応じた責め苦を死後に受けるだろうと思っていた。

 

「悪ね……」

 

テレナは呟く。血に塗れた手を持つシェプルスキアがいた。あるいは異国を金のために混乱させるフュルシーアがいた。幸い、まだテレナはそこまではできていなかった。ただ、それも時間の問題だとテレナは考えていた。

 

「ええ、経典は多くのことを教えてくれます。崖の淵を歩く時に頼りになる綱とでもいいましょうか。かの慈悲深きものは、しかしあえてその道を進むものに情けを持ちはしないでしょう」

 

「敬虔なのね」

 

「そうにもなりますよ」

 

フュルシーアは、少しだけ陰のある声で言った。

 

「そういえば、テレナ先輩の論考をヨルワ教授に読ませてもらいました」

 

「まあ、別に教授がそう判断したなら私は構わないけれども」

 

テレナはフュルシーアの知的能力をまだ読み切れていなかった。もちろん今の角灯主義の本の表題ぐらいは知っているだろうが、その中身を把握しているかどうかは別だった。

 

もちろん、把握していなければならないわけではない。多くの角灯主義者は本を表面的にしか読んでいないし、それで的外れに好き勝手なことを批評の名を借りて言っていることも珍しくなかった。

 

「なかなか面白かったです。ただ、別にあれがそのまま受け入れられるとは私は思いませんが」

 

「どういう意味で?」

 

そう言われ、フュルシーアは視線をテレナに向ける。

 

「あれは素描に過ぎません。そう遠くないうちに、色々と改善案が出るかと」

 

「それが出て、精査されて、あの本に動かされた人たちが理性を残しているうちに読んでもらえると?」

 

「それぐらいなら行けると思いますよ」

 

「印刷速度?それとも執筆の速度?」

 

「どちらもです。面白い話題が出た時の文士の筆の速さは恐るべきものですから」

 

「……そうするの?」

 

「駄目な商品を売るのは道理に通らないことですが、あれは売れる作品です。もちろん私も統合王国がひっくり返るようなことは困りますが、どうせあの本が広まるならテレナ嬢も論考ではなくて物語にすればいいのに」

 

「無理よ、その才能はない」

 

「なら、書きましょうか?」

 

フュルシーアは、静かに言った。

 

「……できるの?」

 

「何作かやりましたよ、手慰みではありましたが赤字にはならずに済みました」

 

フュルシーアは平然と言ったが、テレナはそれがそれなりに難易度の高いことだとは知っていた。少なくない詩人気取りが少なくない金を自らの作品を本とするために費やし、そして負債と在庫を抱えて死んでいった。少なくとも、フュルシーアはそれよりは上だと主張しているのだ。

 

「言語は?」

 

「翻訳も込みでやってくれるんですよ、我々は」

 

その組合に、名前がついているわけではなかった。それがないからこそ責任なく、危ない本を刷れるのだ。ただ、その関係の薄さから異名は存在した。

 

「我ら神に背を向けたもの、故にその繋がりは脆きものなり、それは蜘蛛の巣に同じ」

 

統合王国語の韻を最低限踏みながら、フュルシーアは経典をもじった一節を唱えた。

 

「蜘蛛、ね。見えぬ網は蝶を捉え、その牙の毒は踊らねば耐えられない苦しみを与える、あの蜘蛛?」

 

「そういう言い方もありますが。さてシェプルスキア嬢、我々はあなたの原稿を買い取りましょう」

 

「……いくらぐらいで?」

 

「ええと売上から手数料引いて、あと翻訳の人に回す料金と私の取り分で……あー、あまりいい額ではないですね、本何冊かはウォルセラルから取り寄せられるでしょうけれども」

 

「……十分ね」

 

そう言って指と手首を伸ばすように動かすテレナを、シェプルスキアはまた面倒なことに自分から突っ込んでいっているなと見守っていた。

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