冷たい風が、道をゆく外套の隙間から二人に刺し込んでいた。かすかに雨なのか雪なのか悩ましいものが降ってきており、先を歩くテレナは足を進めた。
手紙の一枚というのは、所詮は紙に過ぎない。その信用性が担保されるのは、その紙に価値があるからではない。そんな不安から、とりとめのないことをテレナは口にしていた。
「だから、その紙にある署名がその人のものだと相手が疑わなければ、それは署名として通ってしまうのよ」
「うーん、テレナの言うことはわからなくはないけどしっくり来ない」
「寒くて何かを考えて気を紛らわさないと辛いのよ」
防寒のために、二人は布で頭を覆っていた。シェプルスキアの背の高さもあって、一見すれば男女に見えただろう。テレナの外套につけた飾りも、あえてそのようになるよう設計されたものだった。
女性二人が歩くということは、それなりに問題を引き起こす。もちろん、ほとんどの人はそれを気にしない。場合によってはなにか事情があるのだと考え、手を貸してくれることすら珍しくはないだろう。しかし、そうでない人がいることはテレナもシェプルスキアも知っていた。
「ここね」
書き留めていた通りの名前と番号の場所に、探していた宿の名前の看板はあった。シェプルスキアとともに改めて看板を確認してから、テレナは扉を押し開けた。
入ってきた二人の人物に、暖かい部屋の中で何かを読んでいた初老の男が視線を向けた。
「宿かい?」
「その前に、待ち合わせですの。ウェイナさんはいらっしゃいますか?」
テレナが言うと、店主は本を閉じた。シェプルスキアの目がそれが小説本であることを見抜いたが、表題や内容まではわからなかった。
「名前は?」
「テレナ。エアークおじさまから紹介されたと伝えてほしいの」
テレナはあくまで育ちのいい少女のように語った。こういう時に、本物の貴族の令嬢という事を言うと面倒になる。貴族を騙ることは法に触れるものであったが、平民を騙ることは直接的に罰することは難しいものであった。そして何より、テレナは何も言っていないのだ。
「ここで待ってな、嬢ちゃんがた。娘に茶を出すように言っとくから外套はそこにかけといてくれ」
そう言って男は顎で壁の出っ張りを指した。
「いいところだね」
シェプルスキアはそう言って、湿気を逃がすように服の隙間に風を通しながら部屋の匂いを確認した。暖炉の煙はしっかりと外に流されていたために空気が悪くなっていることはなかったが、落ち着くような焦げた香りが部屋に満ちていた。
「安くはない宿ね。建物の外もきちんと手入れされていたけど、大きな看板があるわけじゃない。紹介でしっかりと顧客を持てているということになる」
テレナがそう言って部屋の中を見渡した。かけられた絵、あるいは調度品。絢爛というほどではないが、下位の貴族が泊まるにも格が落ちるというほどではない。場所も都市の中心地に近く、ある程度身元の確かな相手にしっかりとした宿を提供する堅実さが感じられた。
「あなたたちが、紹介してもらった人?」
そうしていると、宿の主に連れられて一人の女性が現れた。かすかに皺が見える、綺麗な母親という風貌。シェプルスキアは少しだけ嫌な感じを覚えていた。少なくとも、彼女の言うことを素直に丸ごと信じることはしないことにシェプルスキアは決めた。
「はい。私はテレナ。こちらはシェプルスキア。ウェイナ……さん、とお呼びすればよろしいでしょか?」
「……ええ、お願い」
様々なことを経験した上で生まれる落ち着きがそのウェイナという女性にはあった。そして彼女を夫人と呼ばないのは、その微妙な背景をテレナがある程度察知しているためであった。仮にヨルワが想定したように愛人という立場であった場合、彼女をどう扱うかが面倒な以上知らないのは一つの処世術だった。
「旅の同行者として、できるお手伝いはいたします」
「それは助かるわ。色々あって統合王国を出たから、女性の従者がいると助かるの。報酬のような形は難しいけれども……」
あくまで女性同士のちょっとした話、という声色をテレナとウェイナは共有していた。シェプルスキアには、それが互いにある程度意図しているものだとわかった。少なくとも、フュルシーアのような自然さ、あるいはその装いはなかった。
「私達は私達の旅をするだけです。たまたま馬車に乗せてもらうだけでも十分ですよ」
「そう。……エアークさんの、お知り合いなのよね?」
「ええ、少し手紙をやり取りする仲ですが」
テレナはこのウェイナという女性を詳しく知らなかったし、エアーク卿、すなわちテワドーレム公爵もおそらくはテレナの詳しい話をウェイナは聞かされていないはずだった。学院の学生であることも、あるいは伯爵令嬢や領主であることも。ただ、もしそれを知ってしまったら取らなければならない態度を考えればある程度妥当でもあった。
「そう。私もエアークさんとは知り合いなの。この旅も、彼に手配してもらった」
「ええ」
「……色々と、迷惑をかけるかもしれない」
そう言って頭を素直に下げるところは、テレナには意外だった。優しい人だ。かつて家庭教師が言っていた市民としての魂を持つ、尊敬すべき人物だ。テレナが目指す貴族のあり方とは、間違いなく異なる。
だからこそ、それにはある程度応えるべきだとテレナは考えた。ここで求められているのは貴族としての立場ではなく、旅の女性を支える人だ。
「構いません、ウェイナさん。むしろ我々のほうが迷惑をかけるわけですから」
そう言って、テレナはシェプルスキアを見た。シェプルスキアはじっとウェイナを観察していたが、どことなく漂う嫌な感じは消えていなかった。ただ、それは悪意というよりも知恵と呼ぶべきものではないかと考えるようにはなっていた。
「テレナさんたちの目的地は、ティロなのよね」
「ええ。なので途中で別の一団と合流することになります」
そう言っているところに、小綺麗な、しかし質素な服を着た少女が茶の入ったカップを置いた。
「……わかった。テレナさんと、シェプルスキアさんね」
「はい」
黙っていたシェプルスキアは口を開いた。
「短い間になると思うけど、よろしくお願いします」
「わかりました」
シェプルスキアの笑顔は、社交界で磨いたものとも傭兵団時代のものとも異なっていた。同年代の少女たちとの交流を通して生んだ、年頃の乙女らしいものだった。