シェプルスキアは足取り軽く、しかし静かに近づいて酒場で座っていた男性の背中を強く叩いた。
「っ、お嬢。久しいですな」
警戒と驚きがすぐに解け、目が大きく開かれる。シェプルスキアより背が高く、がっしりとした男。服の上からでもわかる筋肉と荒事に慣れているとわかる目は、明らかに市井の人ではなかった。
「ラムズィン中隊長は痩せたか?」
シェプルスキアの声は、若い指揮官のそれだった。
「まともに鍛錬もできておりませんからな、齢のみならず戦場の勘もめっきりで」
そう言って男は笑い、シェプルスキアも笑った。そして彼は、シェプルスキアの後ろの少女を見下ろす。
「おお、あなたがテレナ嬢!いつもうちの長が世話になっとります」
大きな手を差し出し、ラムズィンは握手を求めた。
「始めまして。ラムズィン卿……と呼んでもよろしいでしょうか?」
握手を返しつつ、テレナは慣れない少し発音の怪しい共和王冠国語でなんとか返した。
「うむ。しかし慣れぬものよ、親方であるとか頭とであればいいが、まさか俺が卿などと呼ばれる日が来るとは思わなんだ」
「改めて紹介するよテレナ、こちらラムズィン中隊長。イウェラ連隊第二騎兵中隊の隊長で、今では……何をやっているんだっけ?」
「少し前までは収穫物を守る自警団たちに稽古をしてたな、あとは何だ?野盗を縛り上げて用水路の泥を片付けて……、ああ、祭りの力試しで優勝もした」
テレナからすれば、広義の貴族である領主がすることとは微妙に違っていると思われるものだった。しかし、考えてみればその目的はテレナの知る貴族と一致しているのだ。
すなわち、信頼を得ること。行政制度が不足し、力がものを言う地域であれば、そのように動くことが正しくなるのだ。特にかつてイヴェリャン団だった者たちは土地とのつながりを持たない外様の存在だ。
「……テレナ・ノイーズ・イルデネです。気軽にテレナ嬢とでもお呼びください」
「お嬢の指導役だとエルガーツの爺さんから聞いたぞ、つまりは学院での大参謀ということだな?」
なんて答えるべきか悩んでいたテレナの横で、シェプルスキアは首を縦に振っていた。
「それで、ここまでの同行者はどうするんだ?」
「うーん、一応目的地まで一緒に行きたいから少し離れてついてきて貰える?」
「よし、部下たちには我らが女領主の監視がないと伝えておく」
「もともとここに来るまではなかっただろ、それとあたしはきちんと金を払えば別にいいって言ってるだろ」
「それでもまあお嬢の監視がある時にはしたくないってやつがいるんですよ」
「律儀だなぁお前らも」
テレナの前で話すシェプルスキアは、学院の乙女というよりも荒くれ者を率いる女傑であったし、実際にそうだった。
「さて、そういうわけだからよろしく!」
そう言ってシェプルスキアはテレナを引っ張って、酒場を後にした。
「礼儀として一杯ぐらい頼んでおくべきだったかしらね」
「どうせラムズィンのやつが多めに飲むから気にしなくていいって」
そう言うシェプルスキアに、テレナは街の空気がはやり西方とは違うのだなと感じていた。同君地域の中でも、このあたりは雑に言ってしまえば粗野だと言われる地域である。ただ、それが直ちに教養がないだとか、あるいは下品であるとはならないのが難しいところなのだ。
もちろん統合王国で生まれ育った貴族の子女であれば別だろうが、と考えながらテレナとシェプルスキアは宿に戻り、御者とともに買い物をしていた同行者であるウェイナを待った。
「戻ったわ。お二人は用事、終わりましたの?」
部屋で蝋燭の光に照らされながらウェイナは言う。
「ええ、なんとか」
そう返すテレナに、ウェイナは微笑んだ。
「ありがとうね。帰郷の旅が、おかげで少し楽しくなったわ」
「それは良かったです」
どこかまだ越えられないものがあったが、それを超えるような仲でもなかった。
「……エアークさんが紹介してくれただけあって、二人とも本当にすごいわね」
「……どういうことです?」
聞き返したシェプルスキアに、テレナは一瞬だけ視線を向けてから目を伏せた。やめるように伝えたかったが、ここでは自分の判断よりもシェプルスキアの感じることのほうが正しい気がしたからだ。
「色々なものを見てきて、そして失敗して、でもなんとかここまで来れた。そういう私からすると、二人ともきっと私とは違った形だけど、色々なものを見ている」
「……学べるほど失敗は、できていませんが」
テレナが言う。ウェイナの帰郷が単なる故郷に戻ることだとはテレナもシェプルスキアも考えていなかった。女性が娘を連れて、従者もなしに、本来であれば二人だけでの旅だったはずなのだ。
旅の人数が増えれば、それだけ手間はかかるようになる。使える人手が増えたり、あるいは様々な準備が少し楽になるという側面がないわけではなかったが、荷物と必要となる食料は間違いなく増えるのだ。
「もし、またエアークさんに頼りたくなったら私を通してくれれば、一回ぐらいは何とかなるはずよ」
「そこまでしてもらうわけには行きません」
テレナははっきりと言った。
「いいじゃんテレナ」
小声で言うシェプルスキアに、テレナは小さく首を振る。
「ウェイナさんも、誰とも知らぬ少女にそのようなことを軽々しく言わないでください」
「共通の友人がいるのでしょう?あの人はいい人よ」
エアーク・ファルティク。統合王国の中の貴族派閥として人数では最大となる地方派の重鎮で、テワドレーム公爵領という北側世界の地図で見えるほどの大きさの領地を持つ男。それだけが、ここにいる人々を繋いでいた。
「……私は一度、あの人にちょっと失礼なことをされましてね」
「テレナ?」
自分が立ち止まったところでテレナのほうが危ない方に進んでいくのでは意味がない、と思いながらシェプルスキアは言う。
「ああ、わかる。そういうところはどうしてもね」
「とはいえちょっとした仕事の付き合いみたいなものですよ、私としてはエアークさんに色々上手くやってほしいですし、そのためならお願いだってするし、されます」
統合王国の情勢維持ができるほどの人物は少なかった。テワドレーム公爵の力があり、王室に裏から助言をできるアニドのような人がいたとしても、それでもなお迫りくる破滅を遅らせることができるかどうかすら怪しいところだった。