伯爵の執務室は、広いわけではない。大きめの机が一つあり、何人かの客人を迎えるには十分なものではあるが、学院の応接間のような華麗さはなかった。
「婚約破棄事件をきっかけとした問題は、今や新しい段階に入っています」
北側世界の荒い地図と、エルンツィンガー伯爵領の地図。見比べれば、統合王国と同君地域の対立においていかにエルンツィンガー伯爵領が面倒な位置にあるかがわかる。
油の灯りに照らされるテレナの指があちこちに動く。統合王国の弱みが起これば、ハッヘンヴルト家が動く。兵の動員にかかる期間を踏まえれば、少なくとも三年ほどの戦いになるだろう。そしてその期間に、エルンツィンガー伯爵領は影響を受ける場所となる。
「……姉さん」
次期当主であるエーヴィルは口を開く。
「なに?」
「本当にそんな事が起こっているの?」
「気になるなら誰か一人、大きな街の本屋に行かせて『墜ちる灯火』と言う本をくれと言えばいいわよ。南方街とつながりのあるような店ならなおいいわね」
部屋には三人がいた。そしてその中で一番年長であり、そして判断をくださねばならない人物は地図をじっと見ていた。
「……どう思いますか、父上」
「俺はこの手の策謀なんかは下手だからな、それはできるやつはハゼウにいる」
「ああ、私の義父ですか」
テレナも彼を知らないわけではなかったが、父ほどに知っているとは言えなかった。ともに戦場に立ったという事実がどれだけの力を持つかは、シェプルスキアとイウェラ連隊を見ればよく理解できた。
「……ともかく、軍備を増強するべきか?」
「ハッヘンヴルト家にすり潰されるだけですよ、しかしそれをやらないといけない立場にある……そう、ですよね」
テレナはそれを言いたくなかったが、言わないほうが悪い結果を招くことを理解していた。テレナの父のルグスト四世も、聞きたくはなかったが聞かないほうが悪い結果を招くことを理解していた。
「ああ。臣従も曖昧で、抗議派の教会ばかり。その上伯爵の子供同士での婚姻となれば、さすがに辺境とは言え目はつけられる」
「これで統合王国の軍勢が弱ければまだよかったのですけれども、そうは行きませんね。今の王はかなり軍備に力を入れています。もし戦うことになれば、新型砲の導入が過半の砲兵隊に行われているでしょう」
「姉さん、それについてもっとちゃんと説明して」
「早い話が砲の口径の種類数を絞っているのよ。それと製法の改良もある。鋳物についてはわかる?」
姉からの確認に、エーヴィルは頷いた。
「砲を作る時に、それまでは筒の空洞部分を埋めていたのよ。でもそれだと形がゆがむ。かわりにそこを埋めるように金属を注いでから削ることで、穴の形を同じに、かつ綺麗な円になるようにしたのよ」
「……砲ごとの癖がなくなるってことでいいのか?」
「そう。シェプルスキア……かつて東方で傭兵団長をしていた人に言わせれば、上手く行けば素晴らしいが問題は少なくないというところらしいけれどもね」
「どういうこと?」
「弾丸側の対応ができない。砲を軽量化できても、その重さによって本来は打ち消していた反動をもろに食らって狙いがずれるなら意味がない。それに砲の運び方も運用も変わるから訓練をし直す必要がある。それでもなお、脅威であることに変わりはない」
テレナは本でそれを読んだとき、なかなか悪くないものだと考えた。それは統合王国にしかできない方法だった。砲というのは一つ作るためにかなりの金がかかる。そして作る数が少なければ、職人のやり方が完成品には反映される。
すなわち癖のない砲を作りたいのであれば、数を作るしかないのだ。そしてそれができるのは統合王国か、苦労すれば騎士団領も可能かといったところだった。しかし、ただでさえヴィンサートの改革で軍内部が荒れているためにそのような改革は難しいかもしれない、とかつてヴィンサートはシェプルスキアと話していた。
「つまりだ、我々は統合王国とハッヘンヴルト家に挟まれて、悲惨なことになるしかないのだろう?」
「……統合王国側には、私が色々としていますが、そうなるかと」
ルグスト四世は、眼の前の女性をあまり娘としてみていなかった。それはかつて領地の改革を任せ、そして成果を残したウィルトールの弟子であり、屋敷から出ることが難しい自分よりも領地に詳しく、そして学院において北側世界の政治の一翼を担う才媛なのだ。
愛しい娘であることには間違いはなかった。しかし、彼は伯爵として彼女を長らく争いのあった地に嫁がせるという選択をしたのだ。すぐには無碍な扱いはされないだろうという親友への信頼はあったが、娘の夫となる人や夫婦に仕える家臣たちがテレナをどう見るかは彼には知り得ないものだった。
「ハッヘンヴルト家が、統合王国に手を出さないようにできればいいのだがな」
「それよりも、統合王国に介入するほうがよっぽど可能性があります」
「だろうな。あの家族会議に巻き込まれたいとは思わん」
同君地域は、ハッヘンヴルト家によって事実上支配されていた。しかしそれが統一された支配であったわけでも、あるいは一つの意思によって決まっていたわけでもない。
かつての神聖連邦のような複雑な会議制度は無くなっていたが、それでもなおハッヘンヴルト家の中の争いはあった。家長は決定権を持っていたが、具体的な方法について議論が割れるのはいつものことだった。
ただ、彼らにもいくつか共通して合意できることはあった。そのうちの一つが、統合王国に対する確執である。ゆえに、ハッヘンヴルト家の問題を知っているものは全員統合王国に問題が起これば同君地域として動きがあるだろうということは同意できるのだった。
「兵の損耗だけを考えれば、強い部隊を適度に避けたいところだが……」
「それをやったら問題になるでしょうからね。それに……うちの兵は」
「ああ」
伯爵は頷いた。テレナは息を吐いた。そして次の当主は、悔しさから拳を握った。
戦争というのは金がかかる。そしてエルンツィンガー伯爵領には金がない。兵となりうる人に訓練をさせる余裕を得るためには金が必要だし、うまく行き始めた改革の中で労働力を引き抜くことは難しかった。
儀礼への対応はできるが、それ以上は難しい兵がほとんどだった。むしろ、きちんと儀礼をこなせる事自体を評価するべきだっただろう。しかしそれは近づきつつある戦乱に対しては、あまり意味のないものだった。