急ぎの旅という理由を通して、一行は宴席を断っていた。事前にどの日に行くと言う予定もなかったために歓迎を受けられないのは当然だと、せいぜい宿で少し豪勢な食事をしたぐらいだ。その裏で伯爵家から宿の方にちょっとしたお礼がされていたのは知っている人ならば知っているような話であったが。
「テレナ、これから少しハゼウ伯爵領のほうに寄れないか?」
「難しいですね」
出立前に父であるルグスト四世に言われ、テレナは小さく首を振った。
「……どのくらいだ?」
「一応は婚約先に行くのです、そうすると事前の連絡と儀礼なしとは行かないでしょう。急ぎの旅でたまたま故郷の街を宿として使ったというのですら少し無茶な旅路です。その上変な寄り道をしては色々と……」
「別に領主の屋敷に行けとは言っていない」
「……偶然の出会いが、起こったりするのですか?」
「そういうことも、あるかもしれんな」
下手なんだよ、と考えてテレナは息を吐いた。
「伝令は、どのように?」
「伯爵同士の手紙だ。すぐに開けて読んでくれるだろう」
「馬ならそう時間もかからないわけですか、とはいえ目立ちはするのでは?」
歩いて行くには微妙な時間だ。馬だとしても目立ちはするだろう。そして統治に関与しない、娘の個人的な事情でそのようなことをしたとなればどう解釈されるかは予測できない。
「多少は目立たせないとな。向こうの領民にもエルンツィンガー伯爵家の旗を知ってもらわねばならん」
「もちろん向こうの騎士よりは地味にしているのですよね?」
「そのあたりはどうにかやっているさ」
「だといいのですけれどもね、ちゃんと噂話を集めておいたほうがいいですよ」
テレナの家庭教師であるウィルトールは、そういった話の仕方が実に上手だった。逆に言えば、それだけで失敗したからこそ統合王国の社交界を追われた人物であった。
ウィルトールがテレナに施した社交術は、なんとも悪辣なものであった。彼が教えたものの中に具体的な動作や儀礼はそう多くはない。それがいかにして生まれ、いかに形骸化し、そして上流階級を自称する人物はそれを見てどのように判断するかという基礎こそがテレナに教えられたものだった。
その視点で礼儀作法の書に目を通したテレナには、単なる面倒な行儀が選別と共感のためのものであることがわかるようになっていた。そしてウィルトールのやっていたことが、いかに複雑で、同時に欺瞞的なことかも理解した。
ウィルトールは市民の魂を持っているとテレナは考えていた。それは貴族が作り上げた体制の中でしか成り立たないものだ。彼のような人ばかりの国があれば、そう遠くないうちに破滅するだろう。
「……身体には気をつけるんだぞ、テレナ」
「ええ、そのあたりは気をつけます。次に帰ってこれるのはいつになるかわかりませんが、できればまた皆で会いたいものです」
娘の言葉に父として反論しようと思ったルグスト四世は、しかしテレナの覚悟を理解して押し黙った。文字通りに次にいつ帰ることができるかわからないし、また会えるかどうかわからないのだ。
「……悩みすぎても良くないのだろうな」
「こういうときに、私は笑って送り出してくれる父が好きですよ」
「……そうだな、では我が娘よ、良い学びを」
そう言って笑うルグスト四世に背を向けて、テレナは外套を羽織り直した。
「テレナ、いいの?」
「構わない。それと経路を少し変えてもらっていい?このあたりの地理なら土地勘があるから、多少は経路が変わっても大丈夫なはず」
「うん、じゃあラムズィン!そういうことでちょいと遠回りだ」
「お嬢の仰せのままに」
荷車が押されて進む。領地を出るまでは昨日ラムズィンに指導を受けていた騎士がついてきてくれるのはありがたいものだった。これだけで周囲から見られる目が一気に変わるのだ。
「ところでさ、テレナはあんまり家族と仲良くしないよね」
「昔から可愛げのない娘として扱われてきたからね」
そう言ってテレナは小さく笑った。
「……エルンツィンガー伯爵領は、いいところだったよ」
「それはよかった」
「落とし方も、弱いところも、よくわかった」
「ええ、小さな連隊一つあれば潰せるような、そういう場所よ」
「領主として改めて見ると、傭兵だなんて碌なものじゃないとわかるね」
シェプルスキアはそれを反省するつもりはなかった。それを否定することは、そこで死んだ人たちの、あるいはそこで戦った人たちへの侮辱だと彼女は考えていた。
それでもなお、より見えてくるものはあった。麦畑を焼くことは、誰かを殺すことだ。倉庫を焼くことは、村を潰すことだ。そこには人がいて、ものがやり取りされていて、生活がある。
「……それは理解しないほうがいいものよ。あそこで右に曲がる」
テレナはそう言って、畑の中の道を指した。
「どういうこと?」
「自分が何をやっているかに気がついてしまって正気を保つことのできる人は少ないのよ。それに直面できてなお狂わないのは、既に狂っている人だけ」
「……テレナは」
「狂っているわよ。程度の問題ではあるけれども」
「……あのさ、それなら誰もが狂っているってならない?」
「それを自覚しているかどうかの問題、ということかもしれないわね。でも、まだ狂っていない人達は多い」
「テレナはさ、みんなを狂わせたくないんだ」
「……そうね。狂っていなければ操れる、あるいは駒として動きを読み切れるという傲慢の裏返しではあるけれども」
テレナにとって、統合王国の崩壊は別にどうでもいいことだった。もちろんその混乱に顔見知りが巻き込まれるのはあまりいい気がしないし、個人的にできる手伝いであればするつもりだった。
ただ、それが故郷の命運にかかわっていないのであれば、彼女は貴族として動くつもりはなかった。貴族とはそういうものだ。安易な情で、あるいはその場の判断で動くべきではない。もちろんそれが最終的な成功に結びつくこともままあるが、それはかなり偶然に近いものだった。
しかしながら、多くの貴族はそうではなかった。テレナの知る限り、正気の貴族が大多数だった。自分の手が血に濡れていると理解しながら指揮を取れる将軍も、あるいは自分の一筆が百の家族を殺すという覚悟のある王も、ほとんどいなかったのだ。