「どれぐらい引き継ぎは終わっているの?」
「……まだ領主として認められるには遠そうだな」
馬から降りたフォリムは、テレナの隣に立って遠く伸びる道と畑を見ながら言う。
「学院卒業に合わせて婚姻、というのでそちらの調整は良さそう?」
「ああ、具体的な話はテレナ嬢抜きでも回せる」
「それは何より。あのフォリム君も、今ではすっかりフォリム卿ね」
「間もなく伯爵さ、我が夫人」
テレナはそう言われ、どこか不思議な気分になる。
「馴染むのには時間がかかりそうね、ゆったり行きましょうか」
「……苦労をかけることになる」
「こちらもよ。必要に応じて、あなたには相当動いてもらう」
「領主の務めさ」
「……もっと面倒なものよ。これはまだ噂の段階で、はっきりとしたことは言えないけど、ハッヘンヴルト家の動向には注意するように」
「何があるんだ?」
「フェルヴァジュ統合王国の体制変化に対応して挙兵の決定を下す可能性がある。私も父もハッヘンヴルト家には介入できない。今のハゼウ伯爵でも難しいのでは?」
「ふうむ」
テレナの話を頭の中で整理しながら、フォリムは情勢を考えていた。学院は北側世界の様々な噂が集まる場所だし、そこでしか見えないものもあるのだろう。無条件に信じるわけにも行かないが、今のテレナの言葉は軽いものではなかった。
ただ、その口ぶりにはまだどこか壁を感じるのも事実だった。あくまでまだ二人は婚約者であり、同盟者ではない。情勢というものが大きな武器になる以上、それを第三者においそれとは伝えられないのも仕方がなかった。
「……難しい話にはなっているの」
「個人としてできることで、テレナ嬢の助けになれることはないか?」
「あー……いや、これはいい。そういうのは卒業後にしてもらうから。ああ、あと統合王国語についてはもう少し練習しておいて。文章を読めるぐらいにはね」
テレナは浮かんだいくつかの誘惑を振り払って言う。
「なるほど。こちらとしてもそういう方面に多少気は使ってみるとしよう」
「お願い。特にハッヘンヴルト家の噂はあなたが一番の頼りになる。とはいえ、手紙は送らないで。伝えたいことがあるなら私の父経由でお願い」
「覗かれるからか?」
「その通り」
辺境でもそういう噂はしっかり流れてくるのだな、とテレナは考えていた。学院において、その存在は当然のものとして扱われている。具体的な組織名こそ出ないものの、少し詳しい教授に聞けば噂話の一環としてそういった手法を学ぶことはできた。
とはいえ、それはもはや個人で行うものではなくなっていた。統合王国では国の機関が、冷海同盟では様々な企業の内部の部署が、そして同君地域ではハッヘンヴルトの分家の一つが行う郵便事業が、かなり体系的な活動として行うものになっていた。
そうでもしなければ、特に外交的に重要なものに絞っても全ての手紙を開け、必要であれば中身を書き写し、蝋を溶かし直して封をするという一連の作業を配達に遅延を起こさずに行うためには多くの訓練と専門家が必要だった。
噂の一つによれば学院派の知識の根源はそのような部署である、などというものもあったがそれがどこまで正しいかはわからなかった。広まりすぎた噂は、出所が曖昧になるのだ。
「テレナ嬢の父上は、この手のものが得意なのか?そういう印象はないのだが」
「私の発案よ。もともと統合王国の邸宅社交界で危ない思想を持った人達が使っていた手口を改良したものだから、相当難しいはず」
秘密裏に隠された暗号を読み解くためには、テレナと父しか知らない方法で作られた解読表が必要だった。熟練の解読者は暗号文を見つけ出すことはできても、そこから解読表を考えることも難しいはずだった。
もちろん、それは完璧な防護ではない。本当に重要なことは直接口頭で伝えるしかなかったし、それでも伝えた事自体が明らかになるのは間違いなかった。まだテレナは自分がそこまで注目されていないだろうと思っていたが、そのような自分の判断を信じるほど自信があるわけではなかった。
「……辛いものだな。妻と平和な領地で、領主として忙しくも充実した日々を送りたかったのだが」
「伯爵夫人として子供たちの面倒を見つつ、本でも読んで好き勝手に責任なく領地に口出しできればよかったのだけれどもね」
「それは少し怠惰が過ぎないか?」
「夢を語るのは自由よ、少なくとも婚約者の前でぐらいは本心を吐き出したいの」
「……そうあれる男であり続けたいものだな」
「まあ、フォリム卿なら慣れることはできるでしょう。必要なら私の願いで動いてくれてもいいのよ?」
「それは暗君の道だろう」
「そうかもね。さて、名残惜しいけれどもそろそろ私は行かないと」
「……そうか。次に来るときにもし余裕があるなら、数日泊まっていくがいい。屋敷の人たちを紹介したい」
「そうね。顔合わせはしておきたいわ」
「それと母上がテレナ嬢に会いたがっていた」
「あの人、正直得意じゃないのよね……」
テレナは昔を思い出しながら言った。彼女にとっては自分は親戚の娘のような扱いなのだろう、と感じさせる接し方は悪いものではなかったが、価値観が合わなければ領主としての仕事を止めてきそうというわずかな予感をさせるものだった。
「……言える範囲のことは言っておくさ。それ以上のことは期待しないでくれ」
「ま、ある程度以上は私がなんとかしますよ」
そう言ってテレナは背筋を伸ばし、つま先を立て、半歩踏み出してフォリムも髭の生えた頬に軽い口づけをした。
「……剃らない?」
「頬はそうするべきかもな。それじゃあ、また」
そう言って、フォリムは馬に乗る。
「ええ、幸運を」
そう言って、テレナも待たせていたシェプルスキアたちの方へ向かった。
「だからラムズィン、別にそういう話はどこにでもあるものだって」
「お嬢よりはそういうのには詳しいつもりですがね、なにせお嬢にそういう話はないでしょう?」
「あたしがその気になれば相手の一人や二人討ち取ってくるよ」
「ちゃんと不具にしないようにしてくださいよ」
何やら会話をしているシェプルスキアとラムズィンを横に、テレナは荷車に座る。
「あっテレナ、終わった?」
「ええ、行っていいわよ」
「……なにかあったの?今なら追っていけるけど」
シェプルスキアの言うように、まだフォリムの姿は見えていた。
「いいわ。言いたいことも、したいこともできた。私は学院で、やるべきことをやるだけ」
テレナの言葉を聞いてシェプルスキアが兵たちに目で合図を送ると、一行の馬と荷車はゆっくりと動き出した。