軽い夕食を寮で食べ終わったテレナは、少し早く寝室に向かっていた。
「テレナさん、明日は何かあるのですか?」
部屋に入ったテレナに、寝台に座って聖典を読んでいたカロネが声をかけた。テレナの寝台と隣あったカロネの寝台のそばには角灯があり、照らされた寝室は眠るには少し明るかった。
「ううん、今日は疲れたから早めに寝ようと思って」
「なら、明かりは消しておきます」
そう言って角灯に覆いをかけようとしたカロネを、テレナは手で遮った。
「いいよ、読めなくなるでしょ」
「談話室で読めばいいだけですから」
敬虔な少女らしく、静かにカロネは立ち上がって部屋を出ようとした。
「……エネト先輩を知ってる?」
扉を潜ろうとしたカロネの足が、ぴたりと止まった。
「……テレナさんが、どうしてあの人のことを?」
「普遍派繋がりで、確か同じネヴォエリの出身だったでしょう?」
ネヴォエリ王国はハッヘンヴルト家が王冠を持つ王国の一つであり、普遍派の中心地である聖座とは地理的にも歴史的にも距離の近い地域だ。
テレナが少し噂話を集めれば婚約破棄事件の中で最も謎めいた修女であるエネトがこの地域の出身であることはすぐわかったし、同室の少女の出身地もテレナは覚えていた。
「……ええ、あの人は同郷ですが、向こうで話したことがあるわけでもありません」
カロネは警戒をしていた。カロネにとって、テレナは少し抜けたところがあるがそれでも優秀な、そして油断ならない学生である。少なくとも、十六歳という年齢の少女が取ることのできる洞察を明らかに超えているものを授業や普段の生活で見せていた。
「学院では?」
「……少し。このような事になるとは思っていませんでしたが」
「別に、ちょっと噂話をしたいだけだよ」
笑ってテレナに、カロネはため息を吐いた。
「聖座とかの、ですか?」
そう言ってカロネは自分の寝台に座り直し、テレナを正面から見据えた。
「……私の家は抗議派なのは、知っているよね」
見つめられたテレナが言うと、カロネは頷いた。
「ええ、信仰上の理由で毎朝しっかりと睡眠を取っているのも」
「普遍派と聖座については詳しくないから、まずは私の認識を確認させて」
そう言われて、カロナはどこから説明するかと少し考えた。
「……こちらは普遍派の王国で育っています。肯定できないことも、否定できないこともありますよ?」
敬虔な信徒として、答えられないものは多い。カロナは最低限の神学を知っていたが、テレナと議論ができるほど洗練された知識を持っているとは思っていなかった。
「一応は学院では他人のそういうものには干渉しないってことになっているわけだから、できるだけ気をつけるよ」
「できるだけ、ですか……」
カロネはあまり信頼できないテレナを見て息を吐いた。彼女を含めてネヴォエリ王国はかなり普遍派の影響力が強い。カロネが学院に行こうとするだけで少し揉め事が起こったほどだ。
例えば共学という場所についての懸念。角灯主義のような危険思想に染まる可能性。あるいは、敬虔な淑女としての道から外れるような行為。そういった反対をカロネが乗り切れたのは、偶然の要素が多かった。
それらはカロネを縛ろうとして起こったことではない。むしろ、カロネの周りの人々は危険を遠ざけようとして心配をしていたのだ。もちろん、家の跡を継ぐ長男でもないのにわざわざ学びに行くことに何の意味があるのか、と言う人も珍しくはなかったのだが。
「かつて世界が南北に分かれる前、
テレナは歴史の本を読むように諳んじていった。カロネもこの程度の歴史であれば、知識として知っていた。
「……ええ。正統派を名乗っている派閥について、彼らの理論が持つ神学的欠陥であれば語れるけれども、本題ではないわね」
カロネはあくまで落ち着いた声色で言った。彼女は敬虔な普遍派であったが、他人の信仰に口を出さないという聖座の唱えた寛容の精神を実行できる程度には真っ当であった。それはそれとして、異宗派に対する敵対心がないわけではなかった。
「そして聖座は混乱した北側世界の、特に西側において権力の正当性を与えた。神が王を任ずるという形を取っていたわけだよね」
「今でも聖座の承認が統合王国の王冠を支えているわよ」
テレナの言い方を少し遮るようにカロネは口を挟んだ。
「とはいえフェルヴァジュ管区大監僧の叙任権は王にあるのでは?」
テレナはそう言ってカロネを見る。フェルヴァジュ管区大監僧は統合王国における普遍派の最高位聖職者であり、その任命は王によって、より実際の状況に即して言うと王室派によって行われていた。権力が分散している東方の正統派とは異なり、聖座を頂点とした明確な階層構造を持つ普遍派において、フェルヴァジュ管区大監僧は微妙な立ち位置にあった。聖座の影響下にはあるが完全な支配下にはない、ということである。
「あれは聖座の持つ叙任権を王に貸し与えているという形……となっているわね」
「あのあたりをきちんと理解していないんだけど、聖座ってフェルヴァジュ統合王国との関係はどうなっているの?」
テレナの質問に、カロネは難しい顔をした。
「……統合王国で勝手に叙任をされるのは聖座としてはいい気はしないけれども、それでも今の聖座は統合王国なしにはやっていけない。特に今は東で正統派の守護者を名乗るルウォロド総権国が台頭してきたのもあって、このあたりの調整は面倒になっている」
「ああ、宗派の対立か……」
そう言って、テレナは頭の中で北側世界の地図を思い浮かべていた。ここ同君地域から東にある共和王冠国、そしてさらにその東の総権国。特に総権国は近年拡大が著しく、共和王冠国を緩衝地帯とすることで冷海同盟や同君地域は状況をしのいでいた。なにより今の総権国の指導者は学院の卒業生の女性であり、文明的な手法に精通していることも北側世界の情勢をややこしくしていた。
「私の故郷のネヴォエリ王国も聖座の権力争いに巻き込まれているから、静かな祈りをしたい信者にとっては面倒なことになっていると言っていいと思う」
「やっぱり、そのあたりは対立があるのね」
カロネの口調に滲む嫌悪から、テレナは聖座と統合王国のフェルヴァジュ管区大監僧の対立を読み取っていた。北側世界で有力と言ってもいい政治組織の聖座がその全力を注いでもなお取り返せない叙任権を手に入れることは、統合王国以外の普遍派教徒にとっての願いでもあるのだろう。あるいはそれは、自分たちばかりが聖座に振り回されるのは納得がいかないという僻みかもしれないが。
「そして、テレナさんはエネト先輩が聖座の意向を受けて動いていると思っているわけですよね」
「……そこまでじゃないけど」
正直なところ、テレナにとって第三王子が新しく関係を発表したエネトの背景はそこまで重要なものではなかった。事態はもはや一人の学生が動かせる範囲を超えている以上、個人としてのエネトの動機や目的を考えることの意味は減っていたのだ。
むしろテレナに必要なのは、聖座関連の人々がこの事件をどう捉えるかという視点だった。テレナは聖座から修女としての任命を受けているエネトを統合王国外部の普遍派からどのように見られているかは統合王国内部の人にはわからないだろうな、と結論付けて寝台に背中を倒した。