学院の建物から、テレナは明けていく東の空を見る。精神に掛かる負荷のせいでまともな睡眠が取れなくなり、結局この時間まで起きてしまったのだ。
感覚が冴えている。肌を刺すような冷たい風が吹く。
「テレナ、なんでここにいるの?」
後ろからシェプルスキアに声をかけられて、テレナは少し驚く。
「別に、眠れなかっただけ」
「……そっか」
シェプルスキアはただそう言って、テレナの隣に立った。
この城塞を作った人は良い設計者だったのだな、とシェプルスキアは考える。かつては相当に邪魔だったのだろう。ただ、大宗派戦争の時代にこの城塞は街を守ることができなかった。もちろんここだけではない。多くの場所が焼かれ、苦しみに満ちた。シェプルスキアはそれを歴史の上のものとしてしか知らない。
そこで起こったと語られる惨劇は、シェプルスキアが見てきたものとは比べ物にならなかった。異教徒の村人を丁寧に虐殺していくというのは相当大変な作業だ。それを成し遂げた兵たちは、きっともっと他のことができただろう。
野営をしていた人たちが朝日に照らされていく。不寝番による学院の防護だろうか。ここに誰かが襲撃をかけてくる可能性を少なくない陣営が考えている。数ヶ月あれば、統合王国の情勢は大きく変わりうるのだ。
「あのさ、シェプ」
テレナは口を開く。
「なに?」
「私はさ、あくまで自分のためだけに動いているつもりなんだよね。最悪、そのせいで統合王国でいくら死者が出ようが、親友が死のうが、それを受け入れるつもりでいる」
「……貴族、だから?」
シェプルスキアに言われて、テレナは頷く。
「……テレナはさ、自分が貴族じゃなかったらいいなって思ったことはない?」
「……別の可能性が欲しかったのは、本当。家族も故郷も全部捨てて、好きなことで生きていきたい。でも、私が今、少しだけでも好きなことができるのは、私が貴族だから。それを捨てたところでそれ以上のものは手に入らない」
「そういう真面目な話じゃなくて……」
そう言いながらも、シェプルスキアはテレナの言いたいことがわかっていた。シェプルスキアだってそうだ。自分があの父の、アズドの娘でなければどうなっていただろうか。ツィノドで過ごす一人の乙女として、誰かと結ばれていたのだろうか。
「貴族は明確に悪よ。それは多くの人々を踏みつけて存在している。己の魂すらも貴族にとっては道具に過ぎない。それで救うのは、家の名誉だの領地だの、どうでもいいくだらないものだけ」
「それをくだらないって言えるのは、貴族だけだよ」
シェプルスキアは家名を捨てた人々とともにいた。領地を追われた人のことを知っていた。けれども、テレナの言葉を怒る気にはなれなかった。肯定はできない。そうあることは認める。けれども、それだけだった。
「わかってるわよ」
「……それなのに、テレナは貴族であろうとするんだね」
静かにテレナは頷いた。
「ハッヘンヴルト家を消し去れる方法があるなら、それでもいいのかもしれないけど……いや、それはそれで勢力がおかしなことになるからやっぱりなかったことにして」
「実際のところ、どうなるの?」
「そうね、同君地域は神聖連邦時代から長らく聖冠を保有してきたハッヘンヴルト家なしには成り立たない。そうでなければばらばらの地域があるだけ。まとまるなんてことは、普通に考えたらできない」
あらゆる言葉があった。あらゆる服装と、宗教と、建物があった。彼らが共通して持っているのはどこか遠くの方にいるハッヘンヴルト家の名前を知っていて、自分たちはどうやらその下にいるらしいという認識だけだ。
ただ、それでも統合王国よりは良かったのかもしれない。なにせ、ハッヘンヴルト家との繋がりはまだ見えやすいのだ。ある程度の爵位があれば、知り合いに一人か二人はハッヘンヴルトの血を持った貴族がいる。神聖連邦の時代に有力な諸邦を止めるためには、婚姻同盟というものは実に便利だったのだ。
「でもさ、まとまるなんてあるの?」
シェプルスキアが言う。
「相当難しいと思う。例えばいきなり国王のために死ねることを光栄に思えと言われて死ねる兵士はまずいない。それを作ることはできるけれど」
テレナの言葉に、シェプルスキアは頷く。イヴェリャン団は、必要であれば隊長のアズドのために死をも恐れない兵士たちがいた。しかし、それはアズドの顔の見える範囲に限られていた。
「知らない人のために、戦えるのかな」
「大宗派戦争」
「ああ……」
シェプルスキアは理解をしてしまった。その戦争の全てではないが、少ないない場面でそれは顔のない何かによって人々が動いていた。
「もちろん、誰かを守るというのがそこにはあったと思う。でも、その誰かを、我々を傷つけるものが彼らなのだという確信は狂気によってのみ成り立つ。学院が育てた理性は、少しだけでもその狂気を止めてくれればいいんだけれども」
「少しだけ、なんだ」
「勝手な想像だけど、私は学院を卒業できると思っていた。あの本が読まれるのにも時間がかかるし、広まるまで長いだろうって。そうじゃなかった。もうあの本は、統合王国に広まっている」
テレナは人が減りつつある学院の中で、いくつかの噂話に耳を傾けていた。市場で、教会で、屋敷で、彼らはそれを読んでいた。統合王国内で印刷をしていた業者が摘発されたとの話もあった。それを確認した時にフュルシーアはただ笑顔を浮かべていた。それは私達かもしれないが、私ではない、と言って。
テレナは少しだけ、もしものことを考える。自分があの本に気が付かなければ、あの本に対しての警告について書かなければ、だれもそれを一冊の小説としてしか見なさなかったのではないか。ただのよくある危ない本を、統合王国を揺るがせる問題にしたのは自分ではないかと考えてしまう。
そして、それを考えても意味がないと気がつく頃には時間が過ぎて、目が冴えてしまっている。陽の光を浴びても目覚めることはなく、寝台に横たわっても眠れることはない。生きているのか死んでいるのかもわからない、ぼんやりとした状態の中で、テレナはまた情報を集めるためにシェプルスキアとともに階段を降り、朝食の会場へと向かった。